三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 09


「ナマエ様がご婚約なさるなんておめでたいことですわね」
「ええ、これで茨の谷も安泰ですわ」

 目を覚ましたら全部夢でした、なんて都合のいいことは現実には起こらない。城にいる者のほとんどがわたしの婚約を祝福し、喜んでいる。廊下を歩くだけでコソコソと囁く声がする、面白がっているような好奇の視線が突き刺さる、この数日間はそんなことに辟易していた。
 わたしは見世物じゃない、こんな婚約は本意じゃない。そう叫びたくても叫べるはずがないとわかっているわたしは、聞き分けのいいお姫様のふりをするしかなかった。
 学園から帰ってきたシルバーはわたしをずっと避けている。帰ってきたら初日に顔を見せてくれていた彼が、何日経っても姿を見せてくれていない理由なんて考えるまでもない。当たり前とも言える反応には涙すら出てこなくて、乾いた笑い声だけが喉を鳴らした。当事者のわたしだって現実を受け止めきれていないのだから、この話を聞いた時の彼の衝撃がいかほどのものだったか考えるだけで胸が苦しくなる。
 シルバーは裏切られたと思ったかもしれない。今までの想いすべてを踏み躙られたと思ったかもしれない。遅かれ早かれ会うとわかっているのに、彼の姿を見たら今以上に泣いてしまう自信があった。

「いいのか、これで」

 部屋に閉じこもっていたわたしのもとを訪れたお兄様は特に興味なさそうに呟いた。暇だから来ただけだ、とぶっきらぼうにおっしゃられたけれど、彼は引きこもりがちになっているわたしを心配してくださっているのだろう。
 棚の上に飾っている写真立てを見つめている彼は懐かしそうに写真を撫でている。

「なんのことでしょうか」
「僕にまでとぼけなくていい。シルバーのことだ」
「……え」

 その口ぶりからして、お兄様はわたしとシルバーの関係を知っていたらしかった。そんな素振りは一度もお見せにならなかったのに。絶対に知られていないと思っていたのに。
 虚をつかれ、肩を揺らしたわたしにくつくつと低い笑い声をあげた彼は落ち着いた様子で続けた。三年前に「交際を認めてほしい」とお願いされた、と。

「それは……本当ですか」

 お兄様は無意味な嘘はつかない。嘘ではないとわかっていても、確認しなければ気が済まなかった。お兄様はちらりとわたしを見ただけで、すぐに写真に視線を戻して呟いた。

「律儀な奴だ」

 それはただの肯定に等しかった。
 忠誠を誓った相手であるお兄様にわたしとの交際の是非を問うなど、生半可な気持ちでは到底できない。わたしにはなにも言わなかったくせに、シルバーはわたしが知らないところで覚悟を決めていた。

 どんな思いで、どんな気持ちで、お兄様に向き合ったの。

 シルバーの誠実さが透けて見えた気がして涙が頬を滑った。彼には、わたしと生きる決意も覚悟もあったのだ。
 何事にも筋を通すところが、どこまでも忠義に篤いところが、彼らしくて愛おしい。マレウス様に嘘をついてまで関係を偽りたくはない、と真面目腐った顔で言う彼が容易に想像できて笑いたくなったのに、こぼれるのは涙だけだった。違う出会い方をしていたら惹かれ合うことのなかった脆い関係だったのに、心に寄り添いながら育ったものはもはや取り除けないほど深く根を張っている。
 お兄様の手がわたしの肩に触れ、引き寄せられた。それでも思い出すのはシルバーの匂いと温度で、恋しくて恋しくてたまらない。

「どう、して……」
「……ナマエ」
「わたしが、いけないんでしょうか」

 愛したひとは人の子だった。愛したひとは雪のような白銀の髪を持つ子どもだった。愛したひとは世界の果ての夜空でたゆたう光を瞳に宿す少年だった。

 愛したひとは、ありのままのわたしを誰よりも愛してくれる、青年だった。

 最果ての極光らしい寂しさと雪の色らしい冷たさを孕んだ雰囲気の中に、どうしても隠しおおせなかったやさしさがあると知っている。薄く色づく双眸にある清らかな光に、甘えているように時おり響かせる声に、ずっと焦がれている。

「出会わなければ、よかった」

 そしたらきっと、楽だった。


  ◇


 その晩も、眠れなくてベッドから抜け出した。結露ができている窓から射し込む月の光は星々の光まで喰らい尽くしたかのように爛々と輝き、欠けていないまあるい月は不気味なくらい大きく見える。鬱蒼とした森を照らす光もなんだか不気味で、魔物が躍り出そうな夜だった。

 今日は厨房に行ってしまおう。どうせ眠れない。

 そう割り切って部屋から出ると、水を打ったような静寂が廊下の向こうまで続いていた。どこまでも静かで、昼間の城とは別世界のようだ。響くのはわたしの足音と壁掛けのランプが揺れるほんのかすかな音だけ。
 西側の廊下を突き進んで、角を曲がった。それで、それから──見つけた青年は、

「……シルバー」

 西の渡り廊下で夜空を見上げていたのは、紛れもなく彼だった。ずっとずっと会いたかった、だけど会いたくなかった。言葉をどれだけ交わそうが、ままならない現実にお互いが傷つけられるだけだとわかっている。
 振り向いたシルバーの唇だけが動いた。ナマエ、と呼んでくれたのかもしれない。護衛を付けろと出歩く度に口酸っぱく言ってくれていた彼が懐かしくて、あの頃の幸せは一生戻ってこないと思うと胸が張り裂けそうだった。
 なにを言うべきか、なにをすべきか。彼の覚悟と愛情を裏切ることになるわたしのことなんて、とうに嫌いになっただろうか。わたしはこの期に及んで嫌われたくないと思っている。そんな自分が嫌で、なにもかもが苦しくて、泣いてはいけないのに涙が止まらない。

「……ごめん、なさい」
「……」
「約束、守れないの」
「……」
「……ごめんなさい」

 シルバーと生きられるなら長い命はいらなかった。シルバーと生きられないなら短い命であってほしかった。果たせなかった想いを焦がして生きていくくらいなら、どこからも消えてしまいたかった。
 他の人たちからすれば、なにを大袈裟なと一蹴されてしまうだろう。それでもわたしは、こんな恋はきっともうできないと思っている。

「……」

 彼はなにも言わない。静かにわたしを見つめ、瞬きだけを繰り返している。その瞳の中に、その肚の中に、どんな感情が渦巻いているかもわからなかった。どんなに彼の機微を見極めようとしても、色が抜け落ちている表情からはなにも見えてこない。精巧な美しいビスクドールのような白痴の美だけが目前にある。

 お前は最低だと、詰って怒ってくれたほうがよっぽどよかった。感情を露わにしてくれたほうが、よっぽど救われた。

 大理石の床に落ちるわたしとシルバーの影はゆっくりと輪郭を失い、翳り始めている。窓の外は一雨降りそうな曇り空が満月をおおい、月光を遮っていた。それほどに流れる時間は長く、きりきりと絞られるような気持ち悪さが胃を痛めつける。
 ついに雨が降り出し、雨音と一緒に丈夫な布が擦れる音がした。

「ナマエ様」

 わたしの前に跪いたあなたを見て、わたしにこうべを垂れたあなたを見て、わたしに畏まった呼び方をするあなたを見て、もう戻れないのだと悟った。わたしたちは恋人同士でもなく、幼馴染でもない。一国の姫君と次期王に仕える騎士。言葉にして形容するならばその程度。
 もう、気安く呼んでくれはしないだろう。もちろん、手を繋ぐことも抱きしめ合うことも口付けを交わすこともない。他の男性の妻となるわたしには、いつかは他の女性の夫となるであろうシルバーには、残された選択肢が少なすぎた。

「ご婚約、おめでとうございます」

 俯いている彼の、強く噛みすぎて白くなっている唇が見えた。小刻みに震えている拳が見えた。
 刹那、頬を叩きつけられたような衝撃が走り、目頭に熱いものが湧き上がる。本当は最後まで隠し通したかったであろうその仕草は、わたしに本心を暴露しているも同然だった。彼はいつもそう。表情よりも態度や行動で示そうとする。その愛しい素直さが切なくて、さざなみのように広がる悲しみに押し潰されてしまいそうだった。
 胸が詰まって苦しい。でも、今ここで口を開いたら伝えてはならない想いだけがこぼれてあふれてしまう。
 どこかに二人で逃げよう、なんて。
 お兄様とリリア様にご恩を返したいと言っていたシルバーが頷くわけがないとわかっていたけれど、彼に幻滅されてしまうとわかっていたけれど、二人だけで誰も知らない場所に逃げてしまいたかった。

「ありがとう、シルバー。……嬉しくて泣いてしまったわ」

 逃げ出したい、そばにいたい。あなたにそばにいてほしい。
 言えずじまいの願望だけが積もったら、それはきっと恐ろしい魔物になる。季節が巡っても、どれだけの時が経っても、希望はどこにもないのだから。
 窓の外では雨に混ざって雪が降り始めている。この雨が淡くとける雪に変わる時、少しは悲しみを包み込んでくれているだろうか。


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