三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 10
微睡みに浸っている意識が緩やかに浮上する。よく眠れたのかあまり眠れなかったのか、よくわからないままに背伸びをしたら背骨がポキリと鳴った。そろそろ起きないとお兄様からお叱りを受けてしまうだろう、でも、気力を振り絞って起き上がらなければならない朝が一番憂鬱だ。
今日は特に──婚約者の彼と会う日だから、昨夜から気分が沈んでいる。こんなにも楽しみじゃないパーティーはいつぶりだろう。今までのパーティーで楽しくないと思ったのも、お兄様に怒られていじけた五歳の時か、シルバーと大喧嘩して腹を立てながら参加した八歳の時くらいだ。あれは確か、本当にどうでもいいことで喧嘩してシルバーと二日間ほど口を聞かなかった気がする。今思えば、そんな思い出も胸が痛くなるほど愛おしいけれど、懐かしんだところであのパーティーは遠い昔に置き去りにした宝物でしかない。
嫌なイベントが待ち受けている日ほど時間の経過は残酷なくらいに早くて、わたしの趣味じゃないドレスを着せられ、お化粧までされていた。今すぐ重たいドレスとハイヒールを脱ぎ捨てて部屋に戻りたい。お父様に決められた婚約者が出席する以上、参加しないなんて無理だとわかっているけど、彼と二人でいるところをシルバーには見られたくなかった。悪足掻き、と言うのだろうか。わたしはシルバー以外の男性と結婚する選択肢しかなく、お兄様とリリア様にご恩を返すために生きていると言っても過言ではないシルバーは王に従うしかない。足掻いてもどうにもならないとわかっているものの、往生際が悪いわたしは未だにどこか諦めきれずにいた。
「ああ、ナマエ様。本日もお麗しい。まるで女神のようだ」
「……ありがとうございます」
腰に回っている腕が不快で仕方がない。婚約が発表されてから数日も経っていないにも関わらず、公の場でべたべたとしないでほしい。顔をしかめないようにと愛想笑いを浮かべると、少しも空気が読めないらしい彼はにっこりと破顔した。シルバーだったらこんなにべたべたしない、シルバーだったらちゃんと場を弁えてくれる、シルバーだったら……こんな、濁った目でわたしを見たりしない。
この男が欲しているものがなんなのか察せられないほど馬鹿じゃない。彼は、穏やかで優しそうな人好きのする笑顔の裏に人間らしい私利私欲に満ちた欲望を隠している。王族の娘と結婚することで得られる特権はいかほどか、隅々まで考えるまでもない。
紳士然として食事を摂り、城中の女性たちに見目好い愛想を振りまき、わたしを愛しているかのように微笑む。完璧な婚約者。誰もが羨むような、欠点のない白皙の美青年。
ナマエ様も幸せ者ね、ナマエ様はあのお方となら幸せになれるわね。囁く誰かの声が頭にガンガンと響く。いつだって勝手なことを言うのは、わたしを知りもしない召使いたちだった。
本当に? 本当に、彼はシルバーと同じようにわたしを愛してくれるだろうか?
「ナマエ様、僕はあなたを必ず幸せにします」
砂を吐きそうな甘い言葉さえ、白々しいと思うわたしが悪いのかしら。
つつがなく進行するパーティーはやっぱり楽しくなくて、口に入れたケーキの味もわからない。視界に入れまいとしていた白銀の髪をついに見てしまったが、彼は壁側に立ったまま人形みたいに少しも動かず、ただ目を瞑っている。気を抜いているわけじゃなく、ただ疲れているから目を開けていないのかもしれない。
シルバーのことは、会話をしなくてもなんとなくわかる。ああ疲れてるんだなとか、楽しいんだなとか、その機微から彼の感情がわかったって声をかけられないわたしはケーキの最後の一口を頬張って席を立った。時計の短針はもうすぐ九時を差そうとしている。婚約者様との“楽しいパーティー”ならばもう十分に演じただろう。
「……ごめんなさい。そろそろ、部屋に戻ります」
「おや、もうこんな時間か……確かに女性の夜更かしは身体によくない。部屋までお送りしましょう」
「いいえ、結構です。お心遣いだけお受け取りいたしますわ」
申し訳なさそうに眉を下げて笑うと、満足したらしい彼はわたしの頬にキスをした。肌がぞわりと粟立ち、体温が一気に下がった気がする。
城の者たちの前でなんということを。
戸惑いのあとに胸中には怒りと呆れが混じり、拳を握りしめても気持ち悪さは拭えない。シルバーならと許した口付けも、それ以上のことも、この男にわたしは捧げるのか。考えただけでも背筋が凍りそうなくらいに気持ちが悪い、恐ろしい。シルバーじゃない相手に身体を許して、わたしでさえも知らない場所を暴かれるなんて。
この男のそばにいるのも耐えられなくて早口で「ありがとうございます」とだけ言って広間を出たら、虚しさで涙がこぼれた。早くシャワーを浴びて、今すぐあの温度を忘れたい。絶対に、シルバーがくれた温もりに上書きさせたくない。早く、早く、綺麗にならないと。
「ふ、っ……」
大浴場に行く気にもならず、部屋で服を脱ぎ捨てて浴室に飛び込んだ。乱雑に脱ぎすぎて袖が破けてしまったけれど、あの男のために着た悪趣味な服のことなんてどうでもよかった。
綺麗にしなくちゃ。全部、あいつに触られたところを、ぜんぶ、ぜんぶ。シルバーのキスの温かさを忘れてしまう前に。
「やだ……やだ、」
泡で洗っても洗っても、不快感が消えてくれない。渦を巻きながら排水溝へと流れていく泡と温水を見下ろすと、涙がシャワーと一緒に流れていく。
ずっと、シルバーと幸せになれると思っていた。だけどわたしには婚約者ができてしまって、いずれはその人との子どもを産まなければならなくなった。
結婚して、腹を痛めて子を産んで──決まりきっているそんな運命がシルバーだったならどんなによかっただろう。結婚して子を産み育てることこそが女の幸せだと主張する時代はとうに終わっている。それでもわたしは、時代に逆行しているとわかっていても、彼に血の繋がった家族をあげたかった。
おとうさん、と舌足らずな声で呼ばれて微笑む彼を見てみたかった。
だけどもうなにも叶わない。滴り落ちる水を拭き取り、バスタオルを身体に巻いて浴室から出た。少し肌寒い室温に身震いして、ドライヤーを手に取ってスイッチを入れ──ようとしたら、部屋の外から声が聞こえてきた。
「やめろ……! なんなんだ!! 俺は絶対に入らないぞ……!!」
シルバーの声だった。驚きすぎてドライヤーを落としてしまい、その拍子にドライヤーのコードに当たった様々な瓶も落下して、更には手鏡まで犠牲になった。かなり大きな音と飛び散る破片に思わず悲鳴をあげてしまい、シルバーの非難じみた声も消え、代わりに勢いよく扉が開けられた。
「ナマエ!! なにが……っ」
あった、と言う前に、警棒を持っている彼は黙り込んだ。剣呑な表情が一気に気まずげになり、鋭い視線がサッと逸らされる。わたしがバスタオル一枚だからだとか、散々気まずい雰囲気だったからだとか、そんな表情になった理由は簡単に考えられた。
ピチピチと鳴きながら彼の頭から離れた小鳥はわたしを見て首を傾げ、役目は済んだとばかりに飛び去った。あの子が、シルバーの髪を摘んでいたのだろう。
「なんでもないわ」
「……落とされたのですか。俺が片付けておきますからあなたは服を着てください」
昔のように呼んでくれたと喜んだ自分が馬鹿みたいだった。部屋に入ったシルバーは一度もこちらを見ずにしゃがみ、魔法で片付け始める。
彼は馬鹿がつくほどの大真面目だ。恋人ではなくなった瞬間から、ずっとこの距離を保ち続けている。廊下ですれ違ってもわたしの目を頑なに見ようとはしないし、どこであっても他人行儀を崩さない。
たくましい背中が恋しかった。いつかは、その背中にわたし以外の女の人の爪痕を残すのだろう。
「ねえ、シルバー」
「早く服を着てください」
片付けが終わってもわたしに背を向けたまま動かない彼の声は苛立っていた。
「抱いて」
今夜だけでよかった。
震える声で言っても彼は何も言わなかった。静かに立ち上がった彼はいつもの仏頂面で私を見下ろす。見惚れるほどに美しい白銀の髪は降り積もる雪のようで、質のいいシルクのようだった。わたしを一瞥してから「あなたはご結婚なさいます」と感情の読めない表情で言い、そうして突き放して、離れて、彼は扉のほうへと歩いていく。枯れない涙がまた頬を濡らし、涙と一緒に消えてしまいたくなる。
誰も悪くない。わたしもシルバーも、偶然惹かれ合って偶然引き裂かれただけだった。けれど、もう耐えられなかった。
「嘘つき」
「……」
「嘘つき……!! ずっと、ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃない……!!」
扉に手をかけたまま、シルバーは動かない。彼を詰る声は醜く、汚い言葉ばかりが次から次へと嫌な音になる。わたしに背中を向けている彼の表情なんてわからなかった。
「好きだって、言ってくれたじゃない。全部嘘だったの? わたしはこんなにあなたが好きなのに、なのに──」
その先は、言えなかった。いや、シルバーが言わせてくれなかった。わたしをベッドに押し倒し、歯を食いしばっている彼は今にも泣きそうな、激怒しているような、曖昧な顔をしている。顔の横に置かれている手がシーツを握りしめ、左手は彼に掴まれていた。
「お前は……」
初めて、彼の抜き身の怒りに触れたと思った。
「耐えられると思うのか!! お前は……俺がなんとも思っていないと、そう思うのか!! ふざけるな!! 俺が、俺がどんな思いでお前を……ッ」
悲痛に叫ぶあなたが愛おしいと言ったら、シルバーは怒るだろうか。右手を伸ばして頬を撫でたら彼は目をまんまるに見開いて、泣きそうな光をこぼす目を閉ざした。誠意にあふれた彼の気持ちごと台無しにするわたしを許さなくていいから、今だけは愛してほしい。そう言ったら、きっとまた困らせてしまう。
彼はわたしの肩におでこを乗せ、ひどく頼りない声で囁いた。
「一度でいい、今夜だけでいい」
うん、とわたしが言う前に顔を上げた彼の、子どもみたいに揺れる瞳と視線が絡まった。
「だかせてほしい」
ああ本当に、最高のプレゼントだわ。
久しぶりに落ちてきた熱を、わたしは甘受した。