キリング・セオリー 14


 チャリン、と硬貨が硬質な冷たい音を伴いながら落ちる。真っ赤な格子が特徴的なガラス張りの公衆電話ボックスは誰の目に留まるでもなく、景色の一部として馴染んでいるだろう。受話器を片手に十一桁の数字を押すと、ややあってコール音が響いた。耳元で鳴る電子音はあっという間に途切れ、砂嵐のような音が僅かに聞こえてくる。

「〈はい。どちら様ですか〉」

 少女が電話をかけた相手の声は想像よりも若々しく、口調は穏やかだった。アクセントの置き方や発音の仕方は彼女の出身地に近いようだ。
 外よりは幾分ましだろうが公衆電話ボックスの中は寒く、呼吸をする度に白い吐息が漏れ出る。曇ったガラスに誰かがふざけて絵を描いたのか、電話機の右側で下手くそな雪だるまが笑っていた。残る指紋の跡は子どもの落書きのように歪み、雪だるまの横から飛び出た吹き出しには「Happy New Year!!」と書かれている。

「〈もしもし?〉」

 本当は、ボックス内を観察している時間なんてなかったのだ。怪訝そうな電話越しの声は静かな空間で唯一、彼女の耳を打つ。喋らなければと思う。けれど言葉が出てこない。感動でもなく、気まずさでもない。言おうと思っていた言葉が行方不明になって、波のあいだで生まれて消える泡のようにどこかに消えてしまっている。あなたの娘ですと言ったところで、怪しまずに信じてくれる人間が果たしてどれほどいるんだろうか。

「あ、の」

 恐ろしかった。父には新しい家族がいるかもしれない。今さらすぎると拒まれるかもしれない。ようやく絞り出した声は、白い吐息が消えてなくなるよりも先に霧散した。
 母が残した紙切れを見なくとも、彼女は顔も見たことのない父親の在処と電話番号を空で言える。侯爵邸で虐げられる度に紙切れを見下ろし、数字を指先でなぞっては小さな声で「おとうさん」と呟いていた。手のひらの大きさにも満たない一枚の紙切れだけが唯一残された救いで、最後の、たったひとつの寄る辺だったのだ。

「〈今、君はどこにいる?〉」

 どうしてこんなに優しくしてくれるのかわからない。包み込むような声は温かかった。すると不思議なくらいに、張り詰めて凍りついていた身体が弛緩して自然と涙がこぼれた。

「〈怖がらないで〉」
「……薔薇の、王国に」
「〈ふふ、そうか薔薇の王国か。素敵な国だ。私も――僕も、最愛の人と行ったことがある。時計塔に行って、手を繋いで歩いた〉」

 一度だけだったけれどね、と。

「〈君のお母さんと行ったんだ〉」
「お母さんと?」

 少女は驚き、危うく受話器を落としかけた。

「〈君によく似て聡明で、優しい女性だった〉」

 まるで、少女を知っているかのような、少女が電話してくることを知っていたかのような口ぶりだった。目の前に最愛の人がいるかのように、手を繋いで微笑み合っているかのように、受話器の向こうの彼は幸せそうに笑っている。少女が実の娘であることに彼が気づいているのかそうでないのかは判然としないが、幸い、電話を切る様子はない。

「〈会いに行ってもいいかい?〉」
「……え?」
「〈僕が君に会いたいんだ〉」

 会えない、という言葉は彼の前では無意味だった。口が非常に達者らしい彼は渋る少女から居所を巧みに聞き出すと、王立博物館の正門に十時、とだけ告げて電話を切ってしまった。曰く、今すぐ飛行機などの手配をしなければ間に合わないらしい。

「どうしよう……」

 誰でもいいから縋りたくて、誰かの声を聞きたかっただけだ。会うつもりは少しもなかった。いつか本当に困ったときに電話をしてみようと思っていただけで、それだけなのに、恐ろしいほどのトントン拍子で事は進んでいる。ツー、ツー、と鳴り続ける受話器を片手に、困り果てた少女は雪が降りしきる曇天をガラス越しに見上げた。道を行き交う人々はマフラーに顔を埋め、早足で過ぎ去っていく。彼女が吐き出した息はやはり白く、黒く冷たい受話器を握り締める指先は赤く痺れていた。
 おそらく、父は察しているのだ。少女がかつての恋人と彼のあいだに生まれたたった一人の娘であることを。



 休日の王立博物館は混んでいる。獣人族の家族連れ、手を繋いで歩く恋人たち、限定チュロス片手に広場を駆け回る子どもたち――そんな中で一人、ナマエは正門前の階段の隅っこに腰掛けていた。認識阻害魔法は便利だ。スラックスの裾を捲り、部屋着用のパーカーしか身につけていない彼女は目立つということもなく上手く紛れている。「やる」と渡された暖かそうなコートは滞在中のオンボロホテルに置いてきた。彼女が薄着で外出していると知ったら、クルーウェルは怒るだろう。
 女性の身体は冷えやすい。白い息を吐き出して、改めてそう感じる。
 一日中本来の姿で過ごすのは随分と久々だ。男の身体になってしまったら避妊薬を飲んだ意味がなくなるらしく、「最低七日間は転換薬を飲むな」と言ったクルーウェルの真剣な眼差しを思い出した彼女は寒さを和らげようと指先を動かした。冷えて血流の悪くなった血管に僅かながら熱が広がり、白い指先がびりびりと痺れる。指先に息を吐いて擦り合わせていると、パーカーのポケットの中で小さな紙が音を立てた。

「かけられるわけないのに」

 その独り言は誰かに聞かれることもなく消えていった。昨日の夜、家に帰ったクルーウェルに握らされたメモ用紙にはいつか見た十一桁の番号が踊っている。サマーホリデーに何度も見たから覚えているとは口が裂けても言えず、突き返すこともできないまま受け取ってしまったのだ。
 きっと、電話をかけなければ二人が再び会うことはないだろう。それが一番いいとわかっている。クルーウェルはまだ学生で、ナマエはこれから根無し草だ。一昔前の純文学の登場人物ならば駆け落ちしてでも結ばれたのかもしれないが、十代の少年少女には明らかに向いていない逃避行だ。戸籍を改竄されたままのナマエは普通の恋なんてものは到底望んでいないし、まして校則を破って男子校に入学した身である。明確な将来の夢を――いつか教師になるという夢を持っているクルーウェルに相応しくない。
 考える時間が欲しかった。誰かに聞いてほしかった。これから先は身ひとつで生きていかなければならないのに、この苦しみを誰かに気づいてほしくて、共有してほしかった。けれど頼れる人はどこにもおらず、いかに宙ぶらりんな存在なのか痛感する。そんなときに思い出したのが顔を見たこともない父親の存在だった。本当に来てくれるかもわからない。そもそも彼が本当に父親とも限らない。それでもナマエは律儀に待った。
 所々欠けている石段を何気なく見下ろしていると足元に黒い影が差し、認識阻害魔法が誰かに解除されたことを悟る。冷たい風がやんでいた。考えるまでもなく、目の前に()が立っているからだ。

「待たせたかな」

 白髪混じりのライトブラウンの髪を後ろに撫でつけ、カラーレンズの眼鏡をかけている彼は瞠目するナマエの前にしゃがんだ。春のような笑みは記憶に違わず優しく、目元の小さな皺がより穏やかに寄る。

「こんにちは、坊や」
「どうして……」

 広大な海に突然放り出されたような、或いは、伝説上の架空の生き物を前にしたような、途方に暮れるほどの驚きが迸る。頬を抓れば目の前の彼も幻のように消えるのではないかとさえ思えて、ナマエは目を疑った。握り締めた指に力が入って手のひらに爪の跡が残る。そこでようやく、これは幻でも夢でもないのだと思えた。

「はじめましてのほうがよかったかな? お嬢さん」

 ナマエは二度しか会ったことがない人物の声と受話器越しの声を一致させられなかった。賢者の島では、公国の人間特有のアクセントや発音にならないように話していたんだろうか。混乱し、首をもたげたまま動けない。瞬きもできず、乾燥した風に晒されている両目が痛い。老若男女の異国語が入り乱れ、子どもたちが元気な声を上げている正門前の喧騒は透明な壁の向こうに追いやられたかのごとく遠のいている。開きっぱなしの目が染み、ナマエはようやく瞬きをしたが、賢者の島で出会ったはずのオレンジの紳士から目を逸らすことはできなかった。そんな反応も織り込み済みらしい紳士は彼女の手を取ると、立ち上がって柔らかく笑った。

「ここは冷える。館内に入ろう」

 吹きつけた風が頬を掠めた。隙間なく建てられている煉瓦造りの建物のあいだから太陽の日差しが差し込み、広場の青い芝生に光る朝露をきらきらと照らしている。目を瞑ったまま器用に階段を上がった紳士は入口付近の券売機で購入したチケットのうちの一枚をナマエに持たせると、「お礼は結構」と口元に笑みを浮かべたままホールを見渡した。

「薔薇の王国に来たとき、ここにも立ち寄ってね。あの頃はまだ目が見えていた」
「……そうなんですね」
「君のお母さんは聡明だった。僕よりもずっと外の世界のことを知っていて、穏やかだった。彼女と離れてからの二十年近く、何かが物足りなかったよ」

 ロイヤルソードアカデミーの教師らしい甘やかな言葉だった。ナイトレイブンカレッジの生徒が聞いたなら砂を吐いて野次を飛ばしそうな気障ったらしい言葉すら、彼にはよく似合っている。階段を上り、大理石の床を迷いなく歩く彼はおもむろにある絵画の前で立ち止まり、絵画横の解説パネルに手を伸ばした。二日前、ナマエもクルーウェルと一緒に読んだものだ。

「お嬢さんはこの絵画の意味をご存知かな」
「はい」
「そう。……僕はこうはなるまいと、心に決めていた。なのに僕は彼女から離れた」

 悲しい記憶にそっと触れて撫でるような静かな声だ。
 リウィウスの最高傑作『夜明け』には静かなる激情が渦を巻き、林檎を齧る美男子の瞳からは今にも涙がこぼれて、キャンバスから滲み出そうな生々しさがあった。貧しい家の生まれであったリウィウスと貴族の家に生まれた高貴な身分の恋人。時代の流れが、愛し合う二人を残酷に翻弄し引き裂くのは当然のことだった。
 立場は逆だけれど、と前置きした彼は解説パネルの点字に触れながら口を開く。

「僕はある国の貴族の長男だった。彼女はその家の侍女で、魔法が使えた彼女は僕の父に気に入られていたんだ」
「え……?」
「十八年前に魔力型突発性視覚障害になってね。目が見えないならば跡を継がせることはできないと追い出された。弟は僕を酷く嫌っていた。だからだろう」

 聞き覚えのある話だった。二十年近く前、優秀でありながら侯爵家から追い出された侯爵家の長男はすべての権利を剥奪されたと。その長男はロイヤルソードアカデミーを優秀な成績で卒業したものの、当主就任という重圧に耐えかね、臆病風に吹かれて姿を消したと――他でもない侯爵本人が高らかに話していたのだ。

「身ひとつで投げ出された僕は彼女を連れていけなかった。いや、連れていかなかったんだ。この先にあるのは茨の道だろうとわかっていた。最愛の人に苦しみを味わわせてしまうのならと、泣いて悲しむ彼女に別れを告げた」

 紳士の手は震えていた。悔しさや悲しさ、怒りが声に滲み、固く両目を瞑っている彼は心を落ち着かせるように息を吐いた。

「僕は、彼女のお腹に僕の子どもがいるとも知らずにあの家を去った。あのときは、彼女本人も気づいていなかったらしいけれど」

 一拍遅れて彼の言葉を理解した頭が急速に回り始める。妙に冷静な思考が点と点を結び、事の輪郭を浮かび上がらせていく。母がナマエに父の名前を教えようとしなかったのは、父を毛嫌いしている侯爵からナマエを守るためだったんだろう。使用人がひとつミスを犯せばすぐに厳罰を下す侯爵を恐れ、父親の正体を誰にも言わなかったのだ。事実、憎くて堪らない実兄の娘がナマエだと知れば、あの男は容赦なく幼い少女を母親から取り上げて無情にも捨てたに違いない。有り得ない話ではない。むしろ納得できる。ならば、ナマエの父親は。彼女が生まれる前に追放された哀れな長男だということになる。

「この数ヶ月、君のことを調べた。君と君のお母さんの魂の色はよく似ていて初めて会ったときはとても驚いたよ。女性でありながら男子校にいるのは何か特別な理由があるのだろうと思いながらも、君を案じない日はなかった」

 私はぼんやりとだが、物や生き物の輪郭が見える。ときには魂の色までも。カフェでそう宣った彼を思い出し、ナマエは閉ざされたまま涙を流す両目を見上げた。

「十七歳になっていたなんて」

 ナマエへと伸びた彼の左手は彼女に触れることなく下ろされた。

「この十八年、生きた心地がしなかった。何か欠けている気がして、虚しかった。教え子たちを見る度に、もしも僕と彼女に子どもがいたらこんなに大きくなっていただろうかと……君と、彼女とともに生きられたらどんなに」

 どんなに、幸せだったか。嗚咽混じりの掠れた声がナマエの耳に届く。知らないところで知らない誰かにこんなにも愛されていたのだと唐突に気づかされた彼女の薄い瞼は熱を持ち、涙が瞳の縁に溜まっていく。感情や心は無色透明で形すらないのに、今にも心臓を破裂させそうな痛みや苦しみをもたらす。胸の奥からせり上がるこの感情をナマエはよく知っている。クルーウェルを想うそれと少し似ている、言葉だけでは決して言い表せない泣きたくなるほどかなしい感情を。

「おとうさん」

 嗚呼、と感嘆を漏らした彼はナマエを強く抱きしめ、人目も憚らずに涙をこぼす。淡く香る香水の匂いは優しく、もう思い出せない母の匂いに似ている気がして心が震える。ナマエは目を閉じ、ゆっくりと鳴り響く心臓の鼓動に身を預けた。



 手を伸ばしたら掴んでくれる手があることをナマエに教えたのはクルーウェルだった。「おとうさん」と呼ぶのも、おかしなくらいに怖くない。どうせ誰も助けてくれないと斜に構えていたあの頃だったならば、父親に電話すらしなかっただろう。

「取り乱してすまなかったね」

 博物館に併設されているカフェでコーヒーカップを傾けた父の目元は赤く、気まずげに笑ってカップを置いた。とうに冷めているのか、白い湯気は立っていない。淹れたてのコーヒーそっちのけでナマエが歩んできた人生について耳を傾けていた彼は先ほどまで号泣していた。子どものように泣き叫んでいたわけではないが、大の大人が泣いていては悪目立ちしすぎるので今は認識阻害魔法と防音魔法を周囲に展開している。

「君はすべてを捨てる覚悟でナイトレイブンカレッジを辞めたのだろう」
「……はい」
「その覚悟を否定するわけではないよ。でも、そうだな愛する人と離れるというのは、身を裂くような苦しみを伴うものだから」

 見透かすような瞳は穏やかで、寂しげだった。

「まるで昔の僕たちを見ているようだ。右も左もわからず、自分で見つけ出した答えだけが正解だと思っている」

 カップの縁を指先で撫で、肩を竦めた彼は冗談めかして笑った。揺蕩うコーヒーは水面鏡のように、星座を象った天井の装飾を映し出している。窓際の席からは広々とした広場を見下ろすことができ、寒空の下で身を寄せ合う恋人たちの姿が目立った。三階にあるこのカフェにまで笑い声が聞こえてきそうな、幸福に満ちた光景だ。窓から父へと目を動かすと、テーブル上で手を組んでいる彼はナマエに微笑んだ。

「喜怒哀楽は魂を燃え上がらせ、そして弱々しくもする。けれど恋だけは違う。恋をすると、人の魂には他の色が混ざるんだ。相手の色だろう」

 心臓がうるさかった。ティーカップを持つナマエの手が震え、ソーサーにぶつかって甲高い音が響く。泡立ったミルクがたっぷりと注がれたミルクティーがちゃぷんと揺れ、カップの内側に飴色の泡が残った。

「君の魂がどんな色をしているか、知りたいかい」

 手のひらに汗が滲んで、喉の奥がきゅうっと狭まった。魂にどんな色がちらついているのか、聞かなくてもなんとなくわかった気がしたのだ。
 それほどに愛しているということかと自嘲して、父の言葉から逃げるように両目を伏せる。筒抜けになっているらしいこの想いは、賢者の島のカフェで話したときにはすでに知られていたんだろう。
 瞼の裏に浮かんだシルバーグレーがナマエの心臓に鋭く突き刺さる。袖の隙間から見えた、治りきっていない醜い怪我があの夜を思い出させる。胸が塞がれるような苦しさだった。そばにいなくてもこんなに好きだと思えるのに、理屈じみた思考が邪魔をして、同じ場所で何度も立ち止まる。首を傾げた父は懐かしそうにゆっくりと目を細め、左手の薬指を撫でた。そこにはめられた指輪に埋まる魔法石はナマエの母が実際に使用していたものらしい。

「離れ難いほど好きな人がいるなら言葉を交わしなさい。僕のようになりたくなければね」


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