キリング・セオリー 13


 こわくて、あつかった。
 彼の犬歯は時おり、挑発するためだけに持ち上げられる口角の隙間から覗いていた。余裕綽々といった表情で、「何も知りませんが?」と言わんばかりにしれっとした顔でわざと逆鱗に触れて相手の精神を逆撫でする。そのときはいつだって品よく口を閉ざして悪魔のように笑うものだから、ナマエは彼の口内にある鋭い犬歯を滅多に見たことがなかった。
 だからこわかった。どうしようもなく、こわかったのだ。

「せんぱい」

 まず手始めに手や腕を齧られた。まだ完全には治っていない、見るに堪えないほどに醜い右腕も舐められて齧られた。おそらくそれは彼にとっては愛撫やキスの延長でしかなかっただろう。ナマエも魔物や魔獣の獲物のように物理的に丸呑みになんてされないとわかっていた。それでも、皮膚に沈み込む鋭い歯が「食べられてしまうかもしれない」という恐怖心をナマエに植え付ける。食いちぎられて血を啜られるとか、骨の髄まで食べられるとか、そんなことを心配していたわけではない。常の彼とはあまりにも様子が違っていたから恐ろしくなっただけだ。
 ナマエはデイヴィス・クルーウェルという、少年だか青年だかの狭間にいる先輩のことを本当の意味で理解できていなかったのだ。
 ナマエだって男性の生理現象くらいは知識として知っている。建物だけは立派な侯爵邸には男女数人が淫蕩にふけるという些か情熱的すぎる文学作品などが当たり前のように置かれていたので、今よりもずっと知識に飢えていた彼女は性をそういうもの(、、、、、、)として受け入れ、衝撃的なその本を読破した。当時はとんでもないものを読んでしまったと思っていたが、世の中にはより過激で刺激の強いものが存在する。ナイトレイブンカレッジに入学したばかりの頃のナマエは、かの淫蕩小説よりも過激な妄想をする青少年たちをそういう生き物≠ニして理解し、彼らの全裸や容赦のない下ネタには早い段階で慣れた。性別を隠して男子校に入学する、それはつまり年齢の近い少年たちと生活をともにするということで、その環境に適応し彼らの常識に従わなければ生きていけないということだ。グラビア雑誌を机の上で広げられ「どの子がタイプ?」と聞かれたときはいつも右端の女性を指差し、要りもしないポルノ雑誌をサバナクローの同級生から押しつけられたときは途方に暮れ、その場では「ありがとう」と笑って見せた。
 男という性別に適応し、のらりくらりと過ごしながら馴染ませる。要領がいいナマエには簡単なことだった。しかし、彼女は肝心なところで間抜けだった。
 今しがた彼女自身を喰らおうとしているクルーウェルをそういう生き物≠ニして認識していなかったのである。少年であろうと青年であろうと、子どもと大人の曖昧な線に立っている学生であろうと、彼が男という性別を持って生まれたことに変わりはない。彼女は、そんなこともわかっていなかった。
 ナマエはクルーウェルを尊敬するあまり神聖視しすぎている。恋人がいそうだなと思っていながらも、かつてルームメイトだった男は下世話な話をする質ではなく、女性関係の話をこぼしたことは一度だってなかった。結果として、それがナマエの思い込みと勘違いに拍車をかけ、完全な無意識下で、クルーウェルと他の生徒を区別させていたんだろう。この人は静かで、そういう欲は抱かないと。学園にいた頃だって、女性に興味なんてなさそうだった。学園が一般客に向けて開かれるマジフト大会やハロウィーンで女性たちに声をかけられても余所行きの顔でさらりと躱していた。だから、手荒に服を剥ぎ取られて触れられて、こんな表情をされるとは微塵も、夢にも思わない。

「……つらくないか」

 紙の上での知識はしょせんは紙切れ一枚のインクの染みでしかないのだと理解したときにはもう、ベッドの上に転がされていた。二人ぶんの体重を受け止めているベッドが今にも壊れそうな悲鳴を上げている。クルーウェルの、見たこともない苦しげでつらそうな表情が哀れだった。電灯ひとつしかない薄暗い部屋でピアスが光り、白い歯のあいだからちらつく真っ赤な舌が肌を這う。
 こわくて、あつかった。このひとに、今からひとつ残らず喰われるのだと悟った。
 少しも暖かくないはずの部屋は熱砂の太陽に焼かれているかのように暑く、寒暖差で曇った窓ガラスが室内に差し込む月光を鈍らせている。当たり前のように手袋が外された両手はナマエに触れ、やさしく「つらくないか」と問うわりにはシルバーグレーの双眸はちっともやさしくなくて、むしろ痛烈な光を湛えていた。



 身体の芯からぞっと冷え込むような寒さに目を覚ましたナマエは、窓から入り込んだ太陽の光の眩しさに目を細めた。眩しさに慣れ始めた頃、薄汚れた壁が視界に飛び込んでくる。隅が剥がれかけている壁紙にはコーヒーか紅茶でもぶちまけたような染みが沈着し、可憐な花柄を台無しにしていた。
 刺されるような頭痛に、四肢や背中の筋肉に残る強い痛み。頭が少しも回らない。まだ微睡みに浸かっている。どうにか起き上がってベッドに手をつくと、ずり落ちた袖が手の甲を覆った。着慣れた白ではなく、濃いめのグレーのシャツからは大人びた匂いがふわりと漂う。ナマエが着ているそれは間違いなくあの男のシャツだった。

「……あ……」

 なんで、どうして、という疑問が頭をもたげる前に昨夜のことを思い出したナマエの顔から瞬く間に血の気が引いていく。元から冷えていた指先が震え、足の爪先は氷水にでも突っ込んでいるかのように冷たかった。身体は冷たい。なのに全身を巡る血液は酷く熱い。凍りついた手のひらに心臓を思いきり掴まれて、無理やり鼓動を刻まされているような心地だった。
 逃げなくては。どこに?
 消えなくては。どうやって?
 脳内に響くその声が誰のものかもわからず、ナマエは耳を塞いで幼子のように丸くなった。冬の風が窓を叩きつける音は遠のき、代わりに呼吸音と激しい鼓動が身体の中で響く。視界が白くぼやけ、血の気の失せた青白い頬を涙が伝った。あの夢は夢ではなかったのだ。下腹部に残る違和感や四肢の筋肉痛は、すべてが現実だとナマエに突きつけている。
 ブランケットの上に重ねてかけられているコートとポムフィオーレの腕章がついたままのジャケットは彼のもので、ナマエがこの部屋で凍えないようにというやさしさが垣間見えた。思えば、闇の鏡を通ってこの国に来たとき、彼がコートを頑なに着ようとしなかったのは防寒着を一着も持っていないナマエのためだったのかもしれない。
 何があってもやさしさを言葉にはしない彼への罪悪感と後悔で押し潰されそうだった。大事なあの人にこんな酷いことをさせたかったわけではない。ただ笑って、さようならと言えたらそれだけで幸せだった。まだ嘘を真実として貫き通せるだろうか。まだ嫌わないでいてくれるだろうか。ナマエには何もわからず確かめる術もない。昨日の晩に彼女を抱いた彼はこの部屋のどこにもいないのだから。
 嗚咽を押し殺し、重い身体を引きずって立ち上がると立ちくらみがした。彼の――クルーウェルの匂いが染みついた身体が傾いて、両膝が薄汚れた床につく。跪いたまま立ち上がれない自分が無様で、がくがくと震えている膝が情けない。
 だが、床の上で大人しくしている暇はないことはナマエにもわかっていた。クルーウェルがここに戻ってくる前に身綺麗にして少しでもいつも通りにしておかなければならない。まだ、性別のことがバレたと決まったわけではないのだ。謝って許してもらえるのならば、一番望んだ形で「さようなら」と言えるのならばいつも通りに振る舞える。

「……まだ大丈夫……大丈夫だから」

 言い聞かせないと平常心を保てそうにない。ナマエの現実逃避(希望的観測)を嗤う者はおらず、現実的で理論的な思考が「もう無理だ」と囁いていても彼女は一切耳を傾けなかった。力が入らない震える足で立ち上がり、壁に手をつきながら一歩ずつ進む。何度かふらつきそうになったものの、どうにか辿り着いたバスルームは部屋以上に黴臭くカルキの臭いが強かった。床や壁が乾燥しきれずに濡れているということは、クルーウェルも数時間前に使ったんだろう。タイルに残る水滴をなぞると、やるせない気持ちが益々強くなる。
 一体、彼はどんな気持ちでシャワーを浴びたんだろうか。
 錆びついたシャワーヘッドから勢いよく出てくる水に打たれながら、ナマエはクルーウェルに触れられた痕跡を消すために、匂いを消すために、たった一夜でもたった数時間でも愛されたらしい肌を擦る。彼のことが好きだからこそ、迷惑をかけてお情けまでかけてもらったこの身体が許せなかった。手を動かす度に水が跳ね、散っていく。排水溝へと流れていく水は透明なはずなのに、泥水のように濁って見えた。
 ずっと水の中にいるような苦しさのせいで上手く息ができない。他のことを考えようとしても思考自体が真っ白になって停止してしまう。気持ち悪がられたらどうしよう。許してもらえなかったらどうしよう。そんな不安が堂々巡りを繰り返すうちに両膝からまた力が抜け、ナマエは身体を支えるためにカーテンをなんとか掴んだ。するとカーテンを引っかけていた突っ張り棒が壁から滑り落ち、驚いてバランスを取る余裕もなかった彼女も尻もちをついて頭を壁に強かに打ちつけた。手には濡れたカーテンに、痛みを訴える後頭部。悲鳴もなくただ呆然とする。ああ、どうしてこんなに間抜けなんだろう。彼女は両目がじわりと熱くなるのを感じた。今日に限って涙腺が緩んでいるのは精神的にかなり参っているからだろうと考えつつ、しばらく立ち上がれそうにないので大人しく泣くのを耐えていると、バスルームの扉が壊れそうな勢いで開き、ドアノブが壁に当たったのか大きな音が響いた。築三十年以上は経っているであろう建物は、乱暴な行動に抗議するかのように僅かに揺れている。

「大丈夫か!」

 反射的にカーテンで身体を隠したナマエを切羽詰まった瞳が見下ろしたかと思えば、いきなり入ってきたクルーウェルは彼女の無事を確認するなり一気に脱力して壁に手をついた。戻ってきたばかりなのか、鼻先や耳が赤くて外の匂いがする。

「いや……俺が悪いな。これは」

 あまりの出来事に言葉を失うナマエから目を逸らしたクルーウェルはマジカルペンを振って短い呪文を唱えると、びしょ濡れだった彼女に服を着せた。ご丁寧に髪まで乾かされ、水が滴ることもない。はく、と音にもならない呼吸が漏れ、ナマエは指一本動かさぬまま掴んだままのカーテンを見つめた。指が震えている。単純に真冬に水を浴びすぎたせいで冷えたのか、予期せぬ人物の乱入に怯えているからか。或いはどちらも正解なのかもしれない。

「立てるか」
「……ごめんなさい」
「触るからな」

 カーテンを握り締める指に力が入ったのを知ってか知らずか、クルーウェルはナマエが返事をする前に手を伸ばした。当然、彼女は拒絶する。しかしそんなの知るかとばかりに軽々と抱き上げたクルーウェルはまた呪文を唱えると、彼女が座り込んでいたことで濡れていた服を手早く乾かした。服を着込んでも、ナマエの身体は冷えきっている。指先や爪先は赤を通り越して真っ白になり、血色がいいはずの唇は血の気が引いていた。クルーウェルと密着していても身体が温まるはずもなく、小刻みな震えは止まらない。彼とてそれには気づいているのか、物悲しい表情を浮かべながらも何も言わずに彼女をベッドに座らせた。

「薬を買ってきた」

 クルーウェルは小さな丸椅子に腰掛け、シャツのポケットから茶色い小瓶を取り出した。市販品らしく、ラベルにはバーコードもある。外の世界のことには疎いナマエにはどんな商品かわからず、瓶の中で揺れる液体をただ見上げるしかなかった。
 数秒のあいだ、シルバーグレーと目が合う。
 謝らなければ、自分は男だと主張しなければ。そう思えば思うほど喉が渇いて口の中がからからに乾いた。どうしよう。その一言ばかりが頭を埋めつくして思考から最適解を締め出している。心臓が肋骨を突き破って飛び出しそうだった。今すぐ逃げたいのに足は震えるばかりで使いものになりそうもない。ミョウジ、と低い声が呼ぶ。ナマエはまだ落ち着いておらず、喋れないと察したらしいクルーウェルが先に口を開いた。その視線から逃げるようにナマエが手元を見下ろしても、彼は日頃と同じように咎めはしなかった。

「避妊薬だ」

 なにをいわれたのかりかいできなかった。
 ナマエは、ツイステッドワンダーランドで一般的に利用されている避妊薬を知らない。通常は性交前の服用を推奨されている、魔法薬の一種であるその薬の存在を知らなかった。もはや知っていたか否かなどどうでもいい。避妊薬という代物を差し出されたこと――クルーウェルの行動そのもののほうが重要だった。

「……なんで……」

 ようやく出た声は酷く掠れていた。吹き荒れる砂嵐のような音が耳元で鳴り、それはただの耳鳴りだと気づく。理解できていないナマエを置いてけぼりにして、小さく息を吸ったクルーウェルは口を開いた。

「俺は避妊をしなかったしお前のなかに出した」
「だい、じょぶです……俺、男なので妊娠なんて、」
「……俺のせいだろう」
「先輩の、やさしさはうれしいです、けど」
「ミョウジ」
「大丈夫です、ほんとに……おれ、おとこだから。飲まなくても平気です」
「頼むから」
「いやです、おれ、いらないです。飲みたくない……!!」

 クルーウェルは何も言わなかった。幼子のように首を振るナマエをただ見つめている。

「頼むから、飲んでくれ」

 弱りきった顔が、困り果てたような声が。この人はすべて知っているのだと思い知る。ナマエはクルーウェルにお願いなんてされたこともない。そんな彼が「頼むから」と懇願するほど、本気で困っている。この人を困らせているのは自分だと、秘密も嘘も何もかもバレているのだと、理解した途端に喉の奥がひりついた。心を守るものがまた一枚、また一枚と剥がれて粉々に割れていく。限界だった。息を詰めれば吸い込んだ冷気が肺を刺し、息を吐けば唇が震える。絶望的な現実が荒々しくナマエを呑み込み、理性を根こそぎ奪う。

「俺はあなたを騙したかったわけじゃない。うそついて、こんなことまでさせて……。ゆるしてください、ごめんなさ……ごめんなさい、ごめんなさい先輩」

 かなしい。くるしい。つらい。いたい。
 何も聞きたくなくて両手で塞いだ耳は彼女自身の言葉のみを拾う。クルーウェルの表情を伺うのも、声を聞くのも恐ろしい。嘘をついていたと、偽っていたと、一番知られたくない人に知られてしまった。身体が麻痺して寒いのか暑いのかわからない。ナマエは小さくなった身体を抱きしめてようやく寒さに凍えていることに気がついて、けれどどうしようもないまま嗚咽を漏らした。

「もう、もういやだ、いやだ……なんで、なんで?」

 絶望と後悔と悲しみとその他のよくわからない感情が形もなく混ざり、引きつるような笑い声が出てくる。ナマエは笑いながら泣いていた。見えもしない心臓からどくどくと血が溢れているような気がする。吐き出す言葉は負の感情に呑まれ、頭が痛くて堪らない。

「ごめんなさい」
「……謝るな」
「うそついてごめんなさい」
「謝るな。やめろ」

 眉をかつてないほどに寄せ、立ち上がったクルーウェルは他者干渉を防ぐ強力な防衛魔法を扉にかけてナマエの隣に腰掛けた。整った顔を痛ましそうに歪めている彼は涙が伝う白い頬を掴み上げ、蓋を開けた薬瓶を一口ぶん煽り、そのまましょっぱい唇に押しつける。薬をすべて吐き出しそうになっている口を手で押さえ、ナマエがちゃんと飲み込んだことを確認したクルーウェルは再び瓶を煽った。何をされるか察したナマエは今度は顔ごと逸らしたが、こんな抵抗は仔犬の甘噛みよりもよほど躾け甲斐がないらしい。鼻で笑うだけに留めた彼の唇はいとも簡単に獲物を捕らえ、こじ開けた口内に甘ったるい液体を流し込む。

「吐くな。全部飲め」
「ん」
「いい子だ」

 どろどろしていて甘い薬が喉に張りつきながら胃の中に落ちていく。その気持ち悪さに顔をしかめ、咳き込みながら嘔吐くナマエの背中を大きな手がさする。そのやさしさに、温度に、心臓を突き刺されているようだった。ナマエがクルーウェルから逃げようとすると、クルーウェルは追いかけるように彼女の腕を掴んで引き寄せ、震えている肩にブランケットをかけた。その重みすらも疲労困憊のナマエには重く感じられる。ごわごわとした肌触りは獣の毛並みのようで、強すぎる洗剤の匂いに紛れてクルーウェルの匂いがした。

「……まずは俺から話そう」

 ベッドから離れた彼は丸椅子に座り直すと、膝の上で長い指を組んだ。

「俺は最初からお前が女性だと知っていた。知った上で手を出したし、こうなることもある程度は予測できていた」

 思わず目を上げた先、シルバーグレーの瞳は自嘲気味に揺れながらもナマエを見つめていた。黒い髪が白い頬にかかって憂鬱な影を落とし、引き結ばれた唇は強ばっている。窓の外から枯葉が地面を転がる音すらも聞こえ、痛みを伴うような沈黙が流れた。いつ? どうやって? どうして知っている? その答えが自問自答だけで見つかるはずもない。泣かないようにと唇を噛んだナマエはブランケットの端を握り締め、逃げることもできずに続く言葉を待った。

「お前が入学した頃、研究内容を見たことがあった。ある薬の材料が書かれていたが……俺はそれを見て疑った。本当は女性なんじゃないかと」

 思い出そうとするまでもないのか、クルーウェルは目を動かすこともなく淡々と話す。わざとらしいほどに起伏の感じられない声は、感情を出さないようにと意図的に押さえつけられたものなのかもしれない。一際強い風が窓を叩く。どこかのネジが緩んでいるのか窓ガラスが揺れる音は大きく、滞りなく移りゆく世界に置き去りにされているような気分になった。
 話の半分も理解できていないナマエを置いて、クルーウェルは感情を削ぎ落としたような声を重ねていく。濁流のように押し寄せる情報をひとつずつ処理しようと必死に彼の声を聞き取ろうとするも、頭が追いつかなくて半分も理解できていない。

「最初は、俺の態度に耐えきれなくなったお前がいつ学園を辞めるかと他の奴らと賭けた。だがお前は少しも譲らなくて、俺のほうが――」
「ごめんなさ」
「ごめんもすみませんも必要ない。いつの間にか俺のほうが絆されていた。らしくもなく見守りたいと……いや、それは今はどうでもいい。とにかく、最低なのは俺だろう。月の魔力にかこつけてお前を抱いた」

 クルーウェルに抱かれた。ナマエは女として彼のすべてを受け入れた。その事実がクルーウェルの口から語られた瞬間にナマエの瞳に溜まっていた涙が落ちた。ひとつ落ちると次は容易く、大きな粒が頬を滑ることもなくひとつひとつ落ちていく。

「最後まで先輩として送り出すつもりだった。……すまない。本当にすまなかった」

 苦しそうな、死にそうな声だった。ナマエの涙を見つめるシルバーグレーの瞳は揺らぎ、今にも脆く壊れてしまいそうに見えた。膝に肘をついたまま俯いたクルーウェルの顔は見えず、声と仕草だけが彼の絶望と後悔を示している。いつだって強気な彼は他人に対して弱みを見せず、よっぽどのことがない限り絶対に謝らない。その根幹を切り崩してしまうほどのことが起きているのだと、妙に冷静な頭で考えたナマエはやわらかそうな髪を見つめた。

「俺はお前が好きだった」

 思わずナマエの涙が止まる。ようやく覗いた無彩色の眼光に心ごと身体を射抜かれた気がして、あれほど冷えて痛かった指先に熱い血液が流れ込んで熱を持つ。もう耐えられないとばかりに、血を吐くようにして何度も何度も苦しそうに吐き出される声が鼓膜を震わせ、投げかけられる言葉が心臓に纏わりつく。

「馬鹿らしいよな。俺はお前にとって兄貴分でしかないのに」

 自嘲するクルーウェルと目が合った。その笑みはいつものように皮肉的で、いつもと違って悲しそうだった。ナマエが目を離せずにいると、苦しそうに苦笑した彼から「なんでそんな顔をするんだ」と責められ、思わず目を逸らす。動揺して揺らいだ身体の下で、古臭いベッドが可哀想なくらいに軋んでいた。
 黴臭い部屋に落ちた静寂が何秒程度のものだったか、二人にはわからない。変わらず外は冷たい風が吹いている。ねずみ色の空から真っ白な雪が降り、くるくると旋回する花びらのように舞っていた。

「逃げろよ」

 伸びてきた手が、逃げてほしくなさそうな縋るような目が、ナマエを捕まえた。クルーウェルの右手が肩に触れ、手のひらの熱がまるい肩を包み込む。こんなときに、こんなにも性別の違いを突きつけられる。ナマエ、と甘く呼ばれて心が震えた。彼はいつもずるい。ベッドでは一度だって呼ばなかった名前を今になって囁くのだ。人を惑わす悪魔のように判断力をぐずぐずにとかして鈍らせて、主導権は一切くれない。

「まって、先輩」

 シーツに溺れる女みたいな、期待しているような声が出る。快楽に呑まれる声と熱に浮かされこぼれた涙の温度を、彼女を抱いたクルーウェルは知っているだろう。同じ表情をしていた。夜明け前にナマエを喰い尽くした男と、同じ。名前を囁きながら噛みついた彼の、赤くなまめかしい唇から覗く鋭い歯はやはりこわくて、何度も噛みついてくる唇はあつくてきもちがよかった。口を塞がれて息もできないのに、ようやく息継ぎができた気がした。

「時間、ください」
「……時間なんて」
「ちゃんと、考えないと」

 名残惜しそうに離れ、赤く濡れた唇をクルーウェルの指先が撫でた。後頭部に添えられていた手に引き寄せられ、彼の真新しいシャツにナマエの顔が沈む。肺の中に隙間なく満ちていく匂いに安堵して全身から力が抜けていった。涙が彼のシャツに染み込み、広がるように濡れていく。クルーウェルの心臓の音が近い。こんなに白くて薄い胸板の向こうで激しく鼓動する心臓があると思うと不思議で、生きるを刻む音が生々しかった。
 理屈も理論も殺して、この人のそばにいられたらいいのに。


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