キリング・セオリー 07


 真っ青な空に入道雲が浮かぶ夏であるのに、その男は春のような人だった。春の、あたたかい風にそよぐ木漏れ日のような優しい雰囲気は若々しい印象を受ける。白髪混じりのライトブラウンの髪を後ろに撫でつけ、カラーレンズの眼鏡をかけている彼は柔らかい笑みを浮かべると、ナマエが抱えている紙袋を受け取った。紙袋には溢れんばかりのオレンジが入っている。重みから解放された腕に残る疲労感を紛らわそうと腕を回したナマエは、筋力も肉もない貧相な身体に溜息をつきたくなった。

「すまないね。ありがとう、助かったよ」
「いえ。俺もこっちに用がありましたし」

 この紳士がオレンジをフルーツショップの前でぶちまけたのは十分ほど前のことだ。両手に大きな鞄を持つ彼は、転がっていくオレンジをどうすることもできずに慌てていた。目の前で困っている人を無視するわけにもいかず拾うのを手伝ったところ、偶然にもナマエと彼の目的地が一緒だったので「それならそこまで持っていきますよ」ということでともに薬屋を訪れたのである。彼の両手を塞いでいた大荷物は薬屋のオーナーに渡す予定のものだったらしく、今は店番の少女に預けられている。

「君はナイトレイブンカレッジの生徒さんかな」

 首を傾げた彼との視線は交わらない。薄い色のついたレンズの向こうにある両目は閉ざされ、その瞳が何色をしているのかはわからない。ナマエは確かにナイトレイブンカレッジの制服を着用しているが、彼はおそらく一度も目を開いていない。ナマエと同年代の島民はそれなりにいるし、賢者の島にはライバル校のロイヤルソードアカデミーもある。声だけでナマエがナイトレイブンカレッジ生だと判断するのはさすがに難しいだろう。訝しむ彼女に気づいたらしい彼は「私の目は特別仕様でね」と言うと、悪戯っぽく口元を緩ませた。

「ついつい買い込んでしまった。お礼と言ってはなんだが、君もどうぞ」

 開きっぱなしの扉から生ぬるい海風が吹き抜けて、オレンジの甘酸っぱい爽やかな匂いが漂った。半ば強引に持たされた果実は太陽の光をそのまま吸収したかのように鮮やかに色づき、表面はつるつるとしていてすべらかだ。

「味は保証するよ」
「でも……本当にもらっちゃってもいいんですか?」
「もちろん」

 結局、彼の厚意を無下にはできなかったナマエがお礼を告げると彼はいっそう相好を崩して紙袋を大切そうに抱え直した。それほどにオレンジが大好物なのか、ただ単純に笑顔が多い人なのかはわからない。ナイトレイブンカレッジ生のほうがよっぽど素直じゃない、ということだけはナマエにもわかる。

「私はこの島に来る前からオレンジが好きでね」

 温和な口調で話し始めた紳士の、左手薬指の指輪にはめ込まれた魔法石は彼が魔法士だということを示す証拠だ。賢者の島は他国に出向くにはあらゆる交通機関を駆使しなければならない辺鄙な孤島であれど、美しい海に囲まれている。自然を求めた魔法士が田舎や未開の地に腰を落ち着けるという話は珍しくもなんともない。魔法の強さは想像力や感受性の豊かさに直結し、自然に囲まれた土地は魔力や魔法力を一気に高めるとされている。賢者の島がツイステッドワンダーランドの双璧をなす名門校を二つも有しているのも、この島で店を構えて薬草や魔道具を販売する魔法士たちがそれなりにいるのも、そういった理由があるからだ。この紳士もまた、自然を求めて移住したのかもしれない。

「君は薬草を買いに?」
「あ、はい。サマーホリデー前に欲しいものがあって」
「へえ、そうなのかい」

 言わなくてもいいことだったかもしれないと考え直してしまうのは、間違いなくあのルームメイトのせいだ。見ず知らずの人間とあまり親しくするな、と再三忠告していたクルーウェルの姿が頭をよぎる。ナマエを世間知らずのお坊ちゃんだと思っている彼の、幼い子どもに言い含めるような言葉は少し不満に思う。気を取り直して「今は先輩いないし大丈夫」と自分自身に言い聞かせたナマエは夥しい数の薬瓶が並ぶ店内を見渡した。目当てのものがあるか探すも、如何せん品揃えがいいのでなかなか見つからない。紳士も紳士で、めぼしい商品がないか薬品棚を物色しているようだ。

「ヴェロニカ、この商品だけど――あれ」

 瓶に貼られたラベルを逐一確認していると、不意にレジ奥の扉が開いた。そこから顔を出した男はオレンジ入りの紙袋と薬瓶を器用に持っている紳士に気づくなり「すみません、先生。もういらっしゃっていたとは」と至極申し訳なさそうに謝り、レジカウンターの隅に置かれている鞄を手に取ると先生と呼ばれた紳士を連れ立って再び奥に消えた。おそらく、あの男がこの店のオーナーなんだろう。店自体は年季の入った趣のある造りなのでてっきりオーナーはもう少し年嵩かと思っていたが、そうではなかったらしい。
 ナマエは閉ざされた扉を見つめ、それとなく視線を巡らせた。今このとき、店内にはナマエと店番の少女しかいない。

「あの、ウェヌスの茎とマルスの葉ってありますか?」
「……確か、あったと思います。満月と新月の夜にしか花を咲かせない薬草ですよね?」

 ウェヌスは満月の夜に、マルスは新月の夜に花を咲かせる比較的安価な魔法植物だ。薬草オタクしか知らないようなマニアックな植物でもあるため、その特徴と効果は世間的にはあまり知られていない。そもそも、教科書にすら乗っていないのだ。普通の学生ならば名前すら知らないだろう。アク抜きに時間がかかるウェヌスと取り扱うには癖が強いマルスは非効率を嫌う学生や学者からの評価はそう高くなく、「他で代用できるなら代用してしまえ」という風潮がかねてよりあった。そんな折に一人の優秀な学者が、これら二つを使用しなくても多種多様の薬草を用いて調合すれば同等、もしくはそれ以上の効果を期待できるという魔法薬を開発し、それがウェヌスとマルスを人々から忘れ去らせる駄目押しとなってこれら二つはマニアックで安価な薬草へと変貌したのである。
 どうやら、少女はナマエが求めている薬草の効果までは知らないらしい。もしもこの場にオーナーや先ほどの紳士がいれば、間違いなく怪しまれただろう。胸を撫で下ろしたナマエに気づかないまま立ち上がった少女はある薬品棚の前まで行くと、背伸びをして一番上の段に手を伸ばした。宵闇草や暁天草などのポピュラーな薬草とは違い、片隅にそっと並べられているようだ。

「こちらでいいですか?」

 ナマエに確認を求める少女の手には、それぞれ黄色と赤色の花が入った二つの瓶が握られている。妖精の鱗粉のようにきらきらと輝く花粉が花びらを覆い、瓶底にも花粉が落ちていた。



 暑い日差しが地面に照り返し、陽炎が揺れている。真夏の蒸し暑さに干からびそうになりながらナイトレイブンカレッジに戻ったナマエは寮に辿り着くやシャワーを浴び、空調の効いた部屋で溶けた。ルームメイトの呆れたような溜息が聞こえた気がしないでもないが、大抵は部屋で過ごしている彼女にはこの暑さは耐えられない。

「帰ってきたかと思えば……」

 書き込んでいたノートを机の引き出しにしまったクルーウェルは小言をこぼすと、ミネラルウォーターを口に含んだ。ペキ、とペットボトルが心許ない音を立てる。

「もう少し運動しろ。不健康すぎる」

 彼に励まされたあの日以来、避けられることはなくなったものの以前にも増して説教が増えたように思う。それこそ、年下の弟の世話を焼いている兄のような。
 ナマエにも彼の言わんとすることはわかっているし、どうにかしなければとも思っている。シャツ越しでも肋骨が浮いているのがわかる身体は不健康そのものだ。ベッドに横たわるナマエを一瞥したクルーウェルは空のペットボトルを自身の机に置くと、ライ麦パンが入った袋を彼女に投げた。食べろ、ということだろう。

「お前は痩せすぎだ。入学してから体重もかなり落ちただろ」
「……」
「不満そうな顔だな?」
「いや、先輩ってお兄ちゃんみたいだなって」

 あ、と思ったときには手遅れだった。ナマエの言葉をしっかり聞き届けたらしいクルーウェルはにこりと穏やかに笑ったかと思えば、次の瞬間にはその笑顔を一変させて悪役顔負けの悪どい表情を浮かべていた。さっと肝を冷やすナマエの心情を知ってか知らずか、彼は間を置かずに口を開く。

「俺がお前の兄貴なら食育でもしてやろうか。兄貴らしくな」
「すみません、冗談です」
「俺は別に怒っていないが?」

 一見すれば何かを企んでいるように見えるクルーウェルのこの表情は、悪ノリしているときのそれだ。椅子から立ち上がった彼はナマエに近寄り、先ほど投げたパンを拾い上げた。先輩は立ったまま話しているのに後輩であるナマエが寝そべったままでいるわけにもいかない。起き上がった彼女はクルーウェルを見上げ、嫌みっぽく緩められた薄い唇をなんとも言えない気持ちで見つめた。

「お兄ちゃんが食べさせてやるか?」
「……怖すぎる……」
「失礼な奴だな」

 クルーウェルは袋からパンを半分取り出してちぎると、袋に入ったままの半分はナマエに押しつけた。そこでふと、麓の街で出会った紳士からもらったオレンジの存在を思い出した彼女はベッド脇に置いていた鞄を開けた。

「オレンジ、食べます?」
「なんで鞄にそんなものが入ってるんだ」
「人助けしたらくれたんです。美味しそうじゃないですか?」
「人からものをもらうな」
「でも、いい人そうでしたし」
「お前な……そいつが善人だとも限らないだろ。毒物を使った無差別殺人を忘れたのか。とにかくこれは食べるな」

 ナマエからオレンジを奪い取ったクルーウェルは気難しそうな表情のままベッドの端に座った。オレンジを左手に持ったまま、ちぎったライ麦パンを食べる姿でさえ一枚の人物画のように洗練された雰囲気を持っている。そういえば、とナマエはとある絵画の存在を思い出した。薔薇の王国の王立博物館には、ベッドに腰掛けた男が林檎を齧る様を描いた絵画があったはずだ。本物は見たことはないけれど、公爵家の屋敷には『世界の名画百選』という本があって、彼女はそれに載っているあの絵画を見たことがある。若年期から男女間の愛憎を描き続け、しかしながら生前に作品を評価されることなくこの世を去った悲劇の天才画家リウィウスが描いた遺作は誰もが知る名画だ。
 林檎はしばしば、愛と美、そして性愛と知識の象徴とされる果実であることから、あの絵画に登場する美男子が食す林檎は恋人と一夜を過ごしたこと≠暗に示しているらしい。絵画の美男子のシャツは皺が寄り、ひとつふたつボタンをかけ違えていた。伏せられた両目の気怠そうな色気と乱されたシーツが目も当てられぬほどに艶っぽくてすぐに本を閉ざした覚えがある。年端のいかぬ幼い少女が男女間にある愛憎を知るにはまだ早かったんだろう。
 片やクルーウェルが着ているシャツは皺ひとつなく、細い鎖骨が見えるだけだ。何気なく見つめていると、彼の骨格はやはり少し幼くて少年の域を出ようとしている青年のそれなのだと気づかされる。

「人の顔をジロジロ見るな。見物料を取るぞ」

 パンを食べ終え、鬱陶しそうに顔をしかめたクルーウェルはナマエに鋭い視線を向けた。彼は「言いたいことがあるなら言え」と続け、手持ち無沙汰にオレンジを弄り始めた。

「『夜明け』って絵画があるんですけど、それに先輩のポーズと構図が似てるなあって」
「……」
「男の人が林檎を持ってる絵で」
「あれは結ばれない運命にある男女の悲恋を描いたものだろう」
「そうなんですか……?」
「リウィウスの晩年の手記にはそう書いてあった。あの青年のモデルは自分自身であると」

 クルーウェルが博識多才であることは重々承知であれど、予想以上の返答が返ってきたことにナマエは驚いた。そんな彼女には見向きもしないクルーウェルはオレンジを放り上げてはキャッチして、また放り上げて遊んでいる。

「結ばれないってことは……政略結婚ですかね」
「だろうな。恋人は貴族の娘だったらしい」

 あの絵画が描かれた時代は政略結婚が普通だった。自分の親よりも年上の老人や、望まぬ相手との結婚は当たり前だった時代だ。老人と若い女をテーマにした皮肉的な絵画が数多く残されているように、美貌や名誉のための欲望渦巻く結婚がほとんどだった。中には、地位も名誉も富もすべてを投げ打って愛を選んだ人々もいたらしいけれど。

「詳しいですね」
「エレメンタリースクールやミドルスクールの学外活動といえば王立の博物館に行くかカードゲームの調べ物をするかの二択だったからな。何度も行っていればいやでも覚える」
「先輩って薔薇の王国出身でしたっけ?」
「ああ」
「いいなあ。観光名所たくさんありますよね」

 ホリデーにはマナーのない観光客で溢れかえるけどな、とうんざりしたような表情で宣ったクルーウェルは不意にナマエを見やった。

「お前は家には帰らないんだろ。どうするんだ」
「やなこと聞きますね……。学園長が探してくれたホテルに泊まりますよ」

 ホリデーに帰る場所がないナマエを危惧していたらしいクロウリーに「ここのOBがオーナーを務めているホテルに宿泊してはいかがですか」と提案されたのは数日前のことだ。一度は「君がいいのなら」と身を引いた彼であったが、やはり教育者として放っておけなかったんだろう。最初はナマエもかなり渋ったものの、泊めさせてもらう代わりにバイトを手伝うということで最終的に合意したのだ。

「戸締りはしっかりしろよ。オートロックだからと警戒を怠るな」
「俺のこといくつだと思ってんですか」
「さあ。お兄ちゃん離れできない子どもなのは確かだな」
「うわそれいつまで引っ張るんですか、もうやめてください」

 クルーウェルはナマエがいやそうにすればするほど楽しげに笑う。子ども扱いされてからかわれるのはいやなはずなのに気の抜けた笑い方も、思いのほかやわらかく緩められるシルバーグレーも、ナマエはそばにいてもいいのだと言われているようで嬉しくなるから困る。

「オレンジが象徴するものは何か知ってるか」

 クルーウェルの横顔を盗み見ても、その真意は推し量れそうにない。暇を持て余しすぎたらしい彼がオレンジの皮に爪を立て、オレンジ色の皮の下から白い内皮が姿を現した。白い、誰にも触れられていなかった内皮から透明な果汁が滲んでいる。それまで傷ひとつなかったオレンジは引っ掻かれて傷がつき、ナマエは食べられもせずに弄ばれるだけのそれが哀れに思えた。彼の匂いに柑橘類特有の香りが混じり、ナマエから漂うシャンプーやボディソープの匂いが薄れて侵されていく。

「……太陽?」
「まあそれでも正解だな。形そのままだが」
「他に何かあるんですか?」
「……さあな。俺は知らない」
「先輩でも知らないことってあるんですね」
「何に感心してるんだ、お前は……」

 呆れられたかと思えば大きな手がナマエの頭に乗り、乱雑に撫で回された。頭ごと揺さぶられるようなやさしくない触れ方だ。犬とか、それこそ弟の頭を撫でているみたいな。クルーウェルのこのスキンシップを、今までだって一度もいやだと思ったことはない。だけれど、なぜか、なぜかどうしても肋骨の奥が重い感情に支配されることがある。感情そのままに言えば、ただ不満だったんだろう。なんにも理解できていないのに悲しくなって泣きたくなって、涙の代わりに力のない声が漏れた。

「子どもじゃないんですけど……」

 唐突に手を動かすのをやめたクルーウェルはしばらく何も言わなかった。彼は「そろそろ夕食の時間だな」とだけ言って立ち上がると、そんなことは知っていると言わんばかりに、幼い子どもに言い聞かせるように、そして自嘲するかのように呟いた。

「知ってるさ」

 ナマエに背を向けている彼の顔は見えなくて、部屋から出ていった彼が扉を閉める音だけが耳に残った。


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