キリング・セオリー 06


「抗生剤と再生を早める薬出しておくね」
「ありがとうございます」
「皮膚が落ち着くまでは定期的に包帯を取り替えること。夏場は不清潔な状態にするとすぐ腐れるから。蛆が沸いた腕なんて見たくないでしょ?」

 比較的年若い養護教諭はなんともグロテスクな言い回しをした。皮膚を食い破る蛆虫を見たがる物好きは世界中を探し回っても滅多にいないだろう。
 ナマエは包帯が巻つけられた腕を見下ろし、すでに蒸れ始めている中身の惨状を想像して辟易する。ただでさえ暑い時期であるにも関わらず、暑苦しくて仕方ないこの包帯とは長い付き合いになりそうで気が滅入った。腐敗だけではなく汗疹ができないように気をつけたほうがいいかもしれない。

「今はまだ綺麗じゃないけどいずれは綺麗に治るよ」

 魔法医術士の国家資格を持つ彼によって治療され、じくじくと熱を持つ腕の出血は止まっている。仮の皮膚を無理やり作ったらしいが、高度な専門知識を要する魔法らしいので魔法薬学のみに特化しているナマエにはまったく理解できなかった。

「さ、帰った帰った。学生はご飯の時間だよ」

 抗生剤や皮膚再生薬が入った紙袋をナマエに押しつけた彼はゆっくり立ち上がると、保健室の扉を開けて「どうぞ」と廊下側に手を向けた。彼の言う通り、部活を終わらせた生徒たちは各々寮に戻って夕食を食べている頃合だろう。ひとけのない廊下は水を打ったように静かで、むわりとした纏わりつくような空気が袖を捲った腕を包む。

「ミョウジは素直なもんだ」

 今回の怪我は十代の少年には耐え難いものだと思ったのか、彼は慰めるようにナマエの背中を軽く叩いた。優しい励ましが肉体的にも精神的にも疲れ果てている身に染みて、あの失敗を嘆いて沈んでいた心がじわりと温かくなる。せっかくの成功作が駄目になってしまったのは悲しいけれど、こぼれたミルクをいつまでも嘆いていても仕方がない。どんなに骨の折れる作業であっても一から作り直すしかないのだ。時には潔い諦めも大事だろう。

「ありがとうございました」
「はいよ。お大事に」

 養護教諭に礼を告げたナマエは薄暗い廊下を突き進み、塵ひとつ落ちていない階段を一段ずつ下りた。立派な壁や磨き抜かれた床に跳ね返る革靴の乾いた音を誰もいない校舎の静けさが押し潰し、完全な静寂が取り戻される前に足音が再び響く。

「ミョウジくん。ここにいましたか。探しましたよ」

 鴉の黒い羽が舞うようだった。特別授業と称して時おり授業に姿を見せる彼の登場はいつだって唐突で、開けてみないことにはわからないびっくり箱のようだ。道化師やペテン師のような胡散臭い笑みを貼り付けている男――ディア・クロウリーはナマエの目の前に降り立つと血の気のない艶やかな唇に笑みを乗せ、ポケットから取り出した白い封筒を彼女に差し出した。見るからに質のいい封筒だ。胃のあたりがキリリと痛む。

「ミョウジくんのお父様からですよ」

 鋭い爪が並ぶ手袋でよく摘めるなと考えながら封筒を受け取ったナマエは「お父様」という単語に片眉を上げ、なんの変哲もないそれを見つめる。差出人の住所も名前も、確かに侯爵のものだ。どうしていきなり。知らず、顔をしかめてしまう。わざわざレターオープナーを使って丁寧に開ける手間も惜しくて破くと、綺麗な文字がびっしりと綴られた手紙が目に入って意味もなく心臓がきゅっと締めつけられる。字を追う眼球が目まぐるしく動き、終わりに近づくごとに白い紙を握り締める指に力が入った。
 あの男ならいかにもやりそうなことじゃないかと妙に納得してしまう。すべて読み終わる頃には半開きの唇から嘲笑が漏れていて、クロウリーに見られているとわかっていても笑わずにはいられなかった。お父様はなんと? と、少しも楽しくなさそうな表情で笑うナマエのただならない様子に首を傾げたクロウリーが口を開く。

「『金は出してやるからサマーホリデーは絶対に帰ってくるな』と」
「それは……困りましたね」

 秋に入学式が執り行われるナイトレイブンカレッジではサマーホリデー中に寮や校舎、その他設備の大規模な点検作業を行うために全生徒は保護者のいる家へと帰らなければならない。ウィンターホリデーのように「帰るも残るも自由」というわけにはいかず、自由を尊重する校風のナイトレイブンカレッジであってもこればかりは譲れないらしく、決定事項として校則に定められている。よほどの事情がない限り、帰る家がないなんてことは有り得ない。まして、貴族の子息が実父から「絶対に帰ってくるな」と冷たくあしらわれるなんて。クロウリーも学園に届いた手紙がまさかそんな内容だとは思っていなかったらしい。表情を汲み取りづらいマスク越しでも考えあぐねている気配は伝わってきた。

「どうでもいいです。こういう人なので」

 どこまでいってもお前は不要な存在であると突きつける手紙はまだ幼いナマエにはあまりにも残酷だった。聞き分けよく諦めたほうがずっと楽だとわかっていても、いつだって割り切れない。

「ですが、学生がホリデー期間に一人きりだなんて見過ごせませんよ」

 思案げに指先を細い顎に当てると、クロウリーは悩ましそうに頭を捻らせて「う〜ん」と唸った。彼がこんなに気にかけてくれるのは、相手が由緒正しき侯爵家の嫡男だと思い込んでいるからだろうかと斜に構える自分にナマエはうんざりした。本当の彼女を知る人間はここにはいないのだから、貴族の子息として大事にされるのは致し方ないことだ。受け入れなければならない。我慢しなければならない。なのに、どんなに納得しようとしてもそんな肩書きに苦しめられて縛り付けられている。
 侯爵が我が子とナマエの戸籍を改竄したあの日から彼女のラストネームはミョウジになり、侯爵家を継ぐ一人息子になった。ナマエが実の息子の代わりにナイトレイブンカレッジに入学することを望んだくせに、戸籍の性別を変えた途端にやって来た学園御用達の黒い馬車を見るや憎々しげに彼女を睨んだ侯爵は「かわいげのない小娘」と罵った。

「大丈夫です、本当に。心配してくださってありがとうございます」
「君がそう言うのなら口出しはしませんが……」

 早く一人になりたかった。ぐしゃぐしゃに折れ曲がった手紙をポケットに押し込み、クロウリーの言葉を最後まで聞くことなく階段を駆け下りる。寮には戻りたくない。かと言って校舎にもいたくない。踊り場に差し掛かったところで、いるはずもない人物が視界に入りナマエはとうとう泣きたくなった。U字型の折り返し階段は見通しがよく、階下へと続く階段の壁に背を預けて腕を組んでいるクルーウェルの姿がよく見えた。
 どうしてこんなときばかり近くにいるの。
 責めてもどうにもならないとわかっているナマエは逃げるように階段を駆け下りたが、クルーウェルは彼女が走り去る間際にその指を掴んで引き止めた。いつものように腕や肩を掴もうとしなかったのは怪我の酷さを知っているからだろう。

「ナマエ・ミョウジ」
「……」
「おい、ナマエ・ミョウジ」

 この次は「この俺を無視するとはいい度胸だな」と続くはずだ。いつもの大人びた勝気な笑顔で、どうやっていじめ抜いてやろうかと悪巧みする表情で、綺麗なシルバーグレーを揺らめかせて、言うはずだ。ナマエが知っている彼はそういう先輩だった。

「ミョウジ」

 だからどうしても、今だけは中途半端なやさしさを向けてほしくはなかった。いつもと変わらないクルーウェルならば、口うるさくて厳しいクルーウェルならば、同情なんかしない。クロウリーとの会話を聞いていたであろう彼にナマエは同情なんかしてほしくなかった。

「ほっといてください」

 ナマエは初めてクルーウェルの手を振り払った。自分から逃げておいて、身体を蝕む罪悪感は彼を振り返ることを許さなかった。



 どうしてあんなことをしてしまったのかと後悔するくらいなら最初から言わなければよかったのだ。あんなの子どもの癇癪と同じだ。
 ならされていない砂場のようにでこぼこになっている腕を見つめ、ナマエは溜息をついた。斑模様に赤みを帯びた皮膚はなかなかグロテスクで、動かす度に引っ張られるような突っ張り感が腕全体に広がる。改めて見てみると結構な怪我を負ったということを実感するも、怪我よりも何よりも、彼女は先ほどから一向に帰ってこないルームメイトを思って頭を悩ませていた。クルーウェルのことにサマーホリデーのこと。あらゆることが憂鬱すぎて何も考えたくない。考えたくないのに決断を迫られている。
 落ち着いて考えてみれば、ナマエはクルーウェルに対して失礼な行動しか取っていない。彼が未だ戻らないのも、手を振り払って拒絶したことに怒っているからなのかもしれない。

「……先輩」

 情けない、声とも言えないような音が喉から出て唇を噛む。シャワーを済ませたナマエがバスルームから出ると、肩にタオルをかけて濡れ髪を拭いているクルーウェルがいた。ラフな格好をしている彼は寮生全員が使用できる共用のシャワールームを使ったらしく、いつもと違うシャンプーの匂いがした。彼にはあまり似合わない甘い匂いだ。

「謝るなよ。お前が出るのを待ちくたびれてあっちを使ったんじゃない」
「でも」
「くどい。それより腕を見せろ」

 言うが早いか、ナマエの左手を掴んだクルーウェルは彼女をベッドに座らせると赤く爛れている右腕を見下ろした。肌を撫でる指の感触が擽ったい。久々に間近で見るシルバーグレーが濡れた前髪のあいだで光っている。ちょっと前の出来事なんて微塵も気にしていなさそうな態度に呆気に取られたものの、途中でハッとしたナマエは腕を背中側に隠した。クルーウェルの冷たく整った人形のような顔が一気にしかめられ、唇が不快そうに歪む。

「こんなの見ないほうがいいです。気持ち悪いし」
「黙れ。誰がそう言った」
「……」
「腕を出せ」

 間髪入れずに命令され、ナマエは口を噤んだ。クルーウェルにこの腕を見られたくない。認めてほしい相手に情けない姿を見られただけでも消えてしまいたいくらいなのに、今以上の劣等感は抱えたくなかった。低くて聞き取りやすい声に、短く簡潔に呼ばれる。無理だった。酷い顔をしているとわかりきっているのに、彼の顔なんて見れるはずがない。

「いやです。先輩だって見てたでしょう。勝手にドジって勝手に怪我して本当にダサい。せっかく作った魔法薬もぶちまけて……何やってんですかね。やっぱり俺なんかじゃ――」

 それ以上は言葉が出てこなかった。転換薬の研究は上手くいかず、慕っている先輩には避けられ、サマーホリデーには帰る家すらもない。いやなことばかりが山のように積み重なって、処理しようにもナマエの頭はもうパンク寸前だった。

「先輩に、見られたくなかった」

 言葉にすればたったそれだけの意地だ。嫌われたくなかった。厭われたくなかった。
 一瞬両目を見張ったクルーウェルはナマエの隣に腰掛けると彼女の頭を一頻り撫で、少年にしては華奢なその肩に長い腕を回した。同性の気の置けない友人にするそれのように肩を組んだ彼の、濡れてもやわらかい髪が頬に触れる。

「お前は俺が何を言っても『気を遣わせてしまった』と思うだろう」

 変なところで素直じゃないからな、と呆れ返るような声で宣うと、クルーウェルはナマエの頬を掴んで強引に目を合わせさせた。

「俺を信頼しているなら俺の言葉も信じろ」
「……先輩を疑ったことなんて……」
「どうだかな」

 鈍い光を放つ双眸は抜き身のナイフのような鋭さでナマエを切り込もうとしている。やさしさや穏やかさなど欠片も感じられない冷たい色の瞳であるはずなのに、ずっと見つめられれば胸の奥から溜め込んだ感情がせり上がってきそうで恐ろしかった。

「ミョウジ。お前はよくやっている」

 クルーウェルの手を引き剥がそうと手首を掴んだが、彼の手は少しも揺るがず、動かなかった。ひびが入って蒸発しそうになっていた心に水滴が落ちて広がっていく。それは、手のひらを空に向けたら落ちてくる慈雨のようにやさしいのに、傷口に染み入るには痛すぎるくらいだった。

「『自分なんか』と卑下するのはやめろ。自分で自分を信じてやらなくてどうする」

 ナマエの瞳に水の膜が張ったことに気づいたのか、先ほどまでの馬鹿力が嘘であるかのように呆気なく彼女の頬を手放したクルーウェルは傷跡の残る右腕を掴んで視線をそちらに移した。やはり力は強く、ナマエがどれだけ腕を振ってもびくともしない。肩を組んでいるせいもあってこれといった身動きも取れず、「無駄な抵抗はよせ」と言いたげに更に力を入れられれば逃げられるわけもなく、彼女はついに抵抗を諦めた。

「再生薬は飲んだか」
「……はい」
「痛みは」
「ないです」
「お前、痛くないのか」

 腑に落ちないといった調子で問うクルーウェルの片眉がつり上げられる。

「痛みを感じないなんて異常だぞ。薬を被ったときも妙に冷静だと思っていたが……」
「痛み止めを飲んだんです」
「お前の机には空の瓶と抗生剤の錠剤しかなかった。鎮痛剤なんて見当たらなかったが?」
「……見たんですか」
「目に入ったんだ。見られたくないなら隠すべきじゃないか? 大体、お前は隙がありすぎるんだ。最初の頃も――」

 最初の頃も、のあとに続く言葉はなく、クルーウェルは口元を手のひらで覆い隠した。彼にとっては失言だったんだろう。おそらく言うつもりはなかったのだ。それを暗に仄めかす表情や仕草が、言いたいことは包み隠さずに言う彼らしくなくて不安がよぎる。しかし、ナマエが口を開く前に「ミョウジ」と被せられ、問い質す暇はわざと与えなかったであろう彼にあっさりと黙殺された。彼女の右腕を掴んでいる大きな手はシャワーを浴びたあとだからか、汗ばみそうなほどに熱い。

「お前はこれでいいのか」

 質問の意図がわからない。ナマエがクルーウェルを見上げると、目の前にあるシルバーグレーが痛ましそうに細められた気がした。

「痛覚に異常があるならば、今後もなんらかの異常を来すかもしれない。本来なら医療機関に行くべきだ」

 心配されているのだと思う。先輩として、ルームメイトとして、クルーウェルはナマエを心配している。彼がナマエのことなど歯牙にもかけていなかった頃を思えば、過去の彼女はこんな言葉をかけてもらえるようになるとは考えもしないだろう。

「大丈夫です」

 クルーウェルの飾り気のない言葉は嬉しい。けれど、ナイトレイブンカレッジに入学した意義を、過去を捨てたあの日の覚悟を、必ず本懐を遂げてみせるという決意を、こんな怪我で台無しにするつもりは毛頭ない。ナマエは彼の体温から逃れるようにしてベッドから立ち上がると、醜く成り果てた右腕が見えないように服で隠した。見た目も肌触りも最悪な肌だ。見ていて気分のいいものではない。

「このままでいいのか」

 クルーウェルの声は確認を取るようなそれだった。いいに決まっているとナマエは内心で独り言をこぼして、やさしい彼を安心させるために穏やかに笑った。

「大丈夫ですよ、俺は」


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