キリング・セオリー 08


 ナマエは数字が踊るメモ用紙を見下ろした。
 ホリデー前、存外に世話焼きなルームメイトから持たされたメモには彼の携帯の電話番号が記されている。何かあったら使えと別れ際に渡されたそれをポケットに押し込み、大きなキャリーケースを引きずるようにしてホテルを訪れたナマエは豪華絢爛な造りに萎縮しつつ、オーナーであるナイトレイブンカレッジOBと挨拶を交わし、寝泊まりする部屋へとようやく到着した。グレードはかなり下がるため、毎年予約の空きが出やすいらしいその部屋はクイーンサイズのベッドひとつとテーブルと椅子がひとつずつ置かれている。開放感のある大きな窓からは宿泊客用の大きなプールを見下ろすことができ、大通りを挟んだ向こう側にある海も見えた。
 侯爵邸からほとんど出たことがないナマエでも、このホテルがいかに素晴らしい評価を得ているかは知っている。フロントのホテルマンの客への対応や清掃の行き届いた品のいいロビーを目にしただけでも気後れしそうになったというのに、オーダーメイドのスーツやドレスに身を包み、高そうな腕時計やブランド物の靴を身につけている宿泊客たちとすれ違ってしまえば「自分はなんて場違いなんだろう」という思いが頭を占めた。

「それじゃあ、ひと夏よろしくね。魔法を使える子が来てくれて嬉しいよ」

 夏場は特に暑くてバテちゃう子がいるから、と言うオーナーの声がよぎる。客室の清掃とベッドメイキング、そしてアメニティの交換を終えたら一日の仕事は終わりだと言われたものの、何しろ客室の数が膨大だ。他にも正規雇用の清掃員はいるが魔法を使えるのはナマエだけらしく、元気有り余る男子高校生(だと思われている)なのでそのぶん期待されているんだろう。しかも母校の後輩となれば、期待値が更に高まっているのかもしれない。質のいいスーツを着こなしていた彼は闇の鏡を介してナイトレイブンカレッジからやって来たナマエを懐かしそうに見つめ、「僕もポムフィオーレ出身なんだよ」と上品に笑っていた。
 人のよさそうなあのオーナーが用意したであろう一室は低グレードの客室とは思えないほどに広く、眺めもいい。曰く、低層階であるため高層階よりも格安で貸し出している部屋だそうだ。それにしたって綺麗で広い部屋なので、クロウリーからナマエの事情を聞いたオーナーが帰る場所もない後輩を哀れに思って温情をかけたんだろう。
 ナマエは窓ガラスに手をつき、ターコイズブルーの海を見下ろした。賢者の島を囲む海よりも明るい色合いの海は、環状に息づく珊瑚礁がガラス一枚を隔てているだけであるかのようによく見える。受け取った清掃員用の服を備え付けのクローゼットにしまって制服のジャケットをハンガーにかけると、熱い身体が少し冷めた気がした。柔らかいベッドに飛び込んで意味もなくごろごろと身体を転がしてみればリネンの心地いい感触が肌を撫で、眠たくなってくる。仕事は明日からだ。今日は何もしなくていい。だから睡魔に抗う必要なんてどこにもない。泥の中で眠る豚のように幸せそうだな、と薔薇の王国式のユーモラスな皮肉を口にするルームメイトも今はいないのだ。



 シーサイド・コーラルリゾートのチェックアウト時間は大抵のホテルと同じように十二時と決まっている。その時間までは、部屋でゆっくりするも早朝から出て観光を楽しむも宿泊客の自由だ。目を覚ましたナマエがカーテンを開けると、まだ七時前だというのに大通りを走る人や朝焼けできらめく海を砂浜から眺めている人が多かった。小型犬を連れて散歩している少年の、日に焼けた健康的な肌や足元のビーチサンダルがいかにも真夏の光景という感じがする。沿道の植え込みに植えられたヤシの木は太陽に照らされ、白い歩道に落ちる木陰でアイスを食べたり冷たいドリンクを飲んだりと涼む人々がちらほらといた。生まれ故郷でもナイトレイブンカレッジでもなく、自分は異国の地にいるのだという実感が今になって湧いてくる。透き通る海も、雪のように白い砂浜も、入道雲が浮かぶ真っ青な空も、誰かに見せたいくらい綺麗だ。一人だけで楽しむにはあまりにも惜しい。そう思えるような光景は、今は亡き母と見た海以来だった。

「きれい……」

 孤独に響く声があまりにも虚しくて、静かな部屋が作り出す静寂が重苦しい。
 昨日のうちに買っておいたパンを冷蔵庫から出したナマエは、美しい絶景を見ずに過ごすのはもったいないように思えて窓辺から外を眺めながら朝食を食べた。少し油っぽくなった食感と甘い味わいが口内に広がる。学園の購買部でいつも買っているお気に入りのパンであるはずなのにいつもより味気なく感じる理由を、彼女はあえて考えなかった。
 退屈な朝食をさっさと済ませ、屋敷から持ち込んだシャツとスラックスだけを身につけたナマエが各階フロアの中央にあるエレベーターに向かうと、浮き輪を持った子どもたちと鉢合わせた。彼らの幼い手にはビーチボールや砂遊び用のスコップやバケツが握られ、大きな麦わら帽子が小さな頭から滑り落ちそうになっている。色気もなく清掃員の制服だけを持っているナマエとは大違いなその出で立ちは微笑ましく、愛らしい。一番背の低い男の子と手を繋いでいるのは父親だろう。「まだ朝早いから静かにしなさい」と注意する彼の言葉を真面目に聞き入れるような子どもはおらず、一緒に乗り込んだエレベーター内は元気なはしゃぎ声でいっぱいになった。古めかしいデザインのわりにすべらかに動くエレベーターはあっという間に一階に着き、降りる間際にナマエに「やかましくてすみません」と律儀にも謝った父親は半ば引っ張られるようにしてロビーの出入口から出ていった。子を持つ親は大変だ。ナマエは家族なんてものに希望はこれっぽちも抱いていないが、漠然とならそう思っている。癇癪を起こした子どもほど我侭で融通の利かない生き物はいない。少なくとも、侯爵家の我侭息子が癇癪を起こせば聞くに耐えない罵詈雑言が繰り返される。
 彼女はゆっくりと閉じていく出入口の自動ドアから視線を外し、集合場所として指定されているロッカールームを探した。時間はまだ余裕がある。食後の散策がてらゆっくり歩いても構わないだろう。



 男性スタッフ用のロッカールームの前でナマエを待っていた中年の女性は、ふくよかな手を差し出して愛嬌のある笑みを浮かべた。こんがりと焼けた小麦色の肌が海の街の住人らしい。

「一通りの仕事は私が教えるわ。シェルよ、よろしくね」
「ミョウジです。今日はよろしくお願いします」
「こんなに若くてかわいい男の子と働けるなんてラッキーだわ」

 お茶目な笑みを浮かべたシェルはリネン室の場所やアメニティ、バスタオル類の説明を始め、最後には「実際にやってみて覚えましょうか」と締めくくった。清掃員の業務内容は完全にマニュアル化されているらしく、昨日オーナーから渡された説明書とほとんど同じ内容だ。

「大丈夫? 変わりましょうか?」
「……大丈夫です」

 従業員用のロッカルームーで清掃員の服に着替え、リネン室から運び出した大量のシーツと枕カバーをカートに乗せたナマエは重たいそれを押しながら広い廊下を歩いた。
 ドアノブに〈Don't Disturb〉のカードがかけられている部屋は一旦通り過ぎて、一番奥の部屋の前で立ち止まったシェルは扉を四回ノックした。室内から物音はせず、宿泊客の返事もない。近くの観光地に行ったか、チェックアウトを早々に済ませたんだろう。フロントで借りたマスターキーで鍵を開けたシェルが扉を引くとアルコールの臭気が鼻を突き、むわりとした熱気を孕む空気が肌に纏わりついた。昨夜は随分と盛り上がったらしい。テーブルや床には空き瓶や空き缶が転がり、シーツも乱れに乱れている。換気は二十四時間絶え間なくなされているが、部屋自体に匂いが染みついているようだ。「禁煙ルームなだけまだましなのよ」と苦笑いしたシェルを他所に、ワンプッシュでどんな悪臭をも消し去るマジカル消臭スプレー片手に掃除機やゴミ袋とともに突入したナマエは慣れた手つきでゴミを拾い、バスルームを清掃し、シーツを取り替えていく。清掃もベッドメイキングも、侯爵家でしていたこととまるっきり同じだ。もはや身体に染みついていると言っても過言ではない手際のよさは、約一年のブランクがあっても鈍ってはいなかったらしい。
 ナマエの仕事ぶりは長年働いてきたシェルですら口を挟む暇もないほどに素早く、一室の清掃が終わる頃にはナマエはシェルから拍手を送られていた。

「すごいわね、ミョウジ君。私のほうが手伝ってもらっちゃったわ」

 午後二時半、まかないのクリームパスタをフォークに巻きつけたシェルはナマエの働きぶりを褒めそやし、うら若き少女のように純粋な笑顔を向けた。そんな風になんの含みもなく褒められるのは久々で、ナマエはお礼を言えばいいのか謙遜すればいいのかわからないまま曖昧に笑う。割り当てられた仕事は三十分前に終わらせ、遅めの昼食を取っている彼女たちの他には誰もいないスタッフルームはお喋りなシェルの声だけが響いていた。

「貴族のご子息って聞いていたからもっと箱入りなのかと思っていたわ」
「いや……身の回りのことは自分でやれと言われて育ったので」
「立派なご両親に育てられたのね」

 素晴らしいわ、とシェルが笑う。立派。確かに、書類上では立派な父親なのかもしれない。

「ありがとうございます」

 飲み込もうとしたパスタが喉につっかえているようだった。無理やり吐き出した言葉がいやに耳にこびりつく。近くの漁港から直接卸しているらしい新鮮な海の幸がごろごろと入っているパスタは絶品だったが、味はもはやわからなくなっていた。

「ミョウジ君、彼女とかいないの?」
「……いないですね。男子校ですし」
「ハンサムな子は多い?」
「ああ、それなら――」

 やわらかそうな黒髪とシルバーグレーの双眸が脳裏をよぎった。よぎって、一瞬だけ混乱した。時々、こんな風に痛くなる心臓にナマエは困っている。性別転換薬の副作用だろうか。

「ミョウジ君? 大丈夫? 顔色が悪いわ」
「すみません。なんか動悸が……」
「あら……」
「何かの病気なんですかね? たまにあるんですよ」

 診てもらうなら近所の総合病院がいいわよ、と心配げに宣ったシェルはテーブルに置かれている紙ナプキンを一枚取り出し、胸ポケットに挟んでいたペンで病院の名前と住所を書いた。流れるような綺麗な筆記体が白い紙に滲み、最後のLの文字が跳ねる。文字列が僅かに右上がりになるのはシェルの癖なんだろう。

「心臓の病気は怖いから早めに診てもらってね」
「ありがとうございます、シェルさん」
「どういたしまして」

 紙ナプキンを受け取り、ナマエは冷めきったパスタを水で無理やり流し込んだ。開きっぱなしの窓から吹き込む潮風が汗ばんだ肌を撫でる感触が気持ち悪く感じられ、不愉快な寒気が足元から湧き上がる。胃の奥が気持ち悪くて、自分の中に蟠る何かが恐ろしくて、いざというときは頼りになるルームメイトに相談したくてたまらなかった。


 ◇


 ホリデーも後半に差し掛かると、一日の大半が空き時間になったナマエは特にやることもなく海を眺めた。すでに終盤に入った研究は今さら根を詰める必要もなく、大量に出された課題はかなり前に終わらせている。
 結局、クルーウェルに一度も電話をかけることなくホリデーが終わりそうな予感がしながらもナマエは渡された紙を捨てられずにいた。ポケットからの出入りを繰り返したメモ用紙の四隅は擦り切れ、折り目に少し力を加えただけで真っ二つにちぎれそうだ。
 電話をかけたらすぐに出てくれるんだろうか。いつもみたいにかわいげもなく「ちょっと電話してみただけです」と言ったら「仕方ない奴だな」といつもみたいに笑ってくれるんだろうか――馬鹿なことを考えている自覚はある。クルーウェルだって暇ではない。むしろ、家族や地元の友人たちとの付き合いで忙しいくらいだろう。
 オレンジ色の夕日が海の向こうの、地平線へと沈もうとしている。砕けたガラス片を散りばめたかのように輝く海は眩しすぎて霞んでいた。死んだ珊瑚の欠片が散る砂浜に波が寄せては返し、その引き際に小さな小さな銀のあぶくが潰れていく音がする。瞬きをするのも惜しいくらいに綺麗な光景なのに、凪いだ静けさが涙を誘う。母と海辺でサイダーを飲んだとき、「しゅわしゅわしててこの音にそっくり!」と笑った夏の日を覚えている。潮風と波の音、それからいくつも生まれていくつも消えていく泡の音。海は甘いサイダーの音がするのだと自慢げに笑ったあの日、母が浮かべていた表情はもう思い出せない。
 これ以上砂浜に留まっても感傷的になるだけだと判断したナマエは立ち上がり、スラックスについた細かい砂を払い落として大通りに出た。日中よりも人通りが少ない歩道には伸びた影が映り込み、自動車が真横を走り抜ける度に彼女の影は大きな影に消される。何気なく自分の影を見下ろしながら歩いていると、潮の匂いに混じってあの人の匂いがした気がした。彼がここにいるはずもないのに期待して、今さっきすれ違った人を振り返ったナマエは歩みを止めてまで立ち止まったことを後悔し、見なければよかったと心底思った。理由も原因もわからずに早鐘を打つ心臓が、何かに押し潰されているようで息苦しい。
 あ、と小さな声が漏れた。傷んだ黒髪が揺れている。髪質も、背丈も、好みそうな服装も、歩き方も、全部違う。そうであるにも関わらずクルーウェルの姿と重ねてしまうのは、香水が同じだったからだ。同年代の少年が使ったなら背伸びしているように感じられるであろう香りですら似合う彼と、同じ匂いがしたからだ。

「どうかした?」
「んーん、なんでもないわ」

 男性の隣を歩く女性はナマエの消え入りそうな声に気づいたのか怪訝そうに彼女を振り仰ぎ、しかしすぐに前を向いた。流し目が色っぽい綺麗なその女性は男性の肩に頭を預けると、身体を密着させたまま歩いていく。猫が甘えるような声で、恋人に擦り寄って。
 大人びていて頭がいいクルーウェルの隣に立っても釣り合いそうな大人の女性だった。
 そもそも――そもそも、どうして恋人がいないと思っていたんだろう。クルーウェルは口うるさくて厳しい男だとしても女性に対しても同じ態度であるとは限らないし、薔薇の王国は夕焼けの草原と並んでレディファーストの文化が根付いている国だ。大人びた端麗な容姿を持ち、ウィットにも富んでいる男性が身近にいたら女性たちが放っておくわけがない。彼はナマエの知らない誰かとデートをしてキスをしてそれ以上のこともしているだろうか。男子校に在籍しているとはいえ、屋敷の大人たちに囲まれて育ったナマエとは根本から違うのだ。外部に恋人を作るなんてことはナイトレイブンカレッジでは有り触れていて、それはクルーウェルであれば尚さら造作ないことだろう。恋人の有無について思考を巡らせるまでもない。たとえば、そうだ。水の入ったコップを逆さにしたらすべてこぼれ落ちるように、わかりきった答えが見えている。
 ナマエが見下ろした手は骨張り、平均よりも痩せている腕は筋肉質で硬い。自ら選んだこの肉体を否定したくない、過去の選択を後悔したくない。けれど、その覚悟をも揺るがそうとしている混ざりあった感情はこの上なく厄介で、口を閉ざしていなければ弱音が今すぐに飛び出しそうだった。

「……いやだ」

 会いたくないのに会いたい。我が物顔で心臓に居座るもどかしさの正体を見つけてはいけない気がして、ナマエは立ち尽くしたまま手を握り締めた。
 クルーウェルは兄のような存在で、父のような存在だ。それ以上は求めていない。雛鳥が初めて見たものを親だと思い込み餌を求めるように、彼女もまた誰かの愛情を求めているに過ぎない。クルーウェルに入部届を奪われ、サイエンス部への入部が決まったあの日、あのとき、執着心を刷り込まれただけなのだ。わざわざ立ち止まって「何してるんだ、お前は」と声をかけてくれた彼のやさしさに惹かれただけなのだ。
 そう、思い込まなければ。
 母以外の人間がナマエを顧みてくれたのは彼が初めてだったから、他の人間みたいに過ぎ去るとばかり思っていた彼が振り返ってくれたから、この人ならば愛情をくれるとナマエは勘違いしていた。雛鳥が口を開ければ餌を与えてくれる親鳥のように、彼女が求めればやさしさも厳しさも与えてくれたクルーウェルに甘えて――。

「いやだ」

 張りついて剥がれない、寄り添って消えてくれない想いの行先なんて知りたくもない。
 くしゃり、とメモを握り潰す音がした。


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