キリング・セオリー 05


 小鳥のさえずりに起こされたナマエは閉じかける瞼を擦り、筋肉痛で痛む身体をなんとか起き上がらせた。足腰だけではなく背中までも痛い。日頃の運動不足を反省しながら背伸びをすると、腕の動きに合わせて胸がささやかながら揺れ――揺れた?

「さいあくだ」

 するりとこぼれた掠れ声は少女らしく、見下ろした手のひらや体躯はいつもより華奢だった。昨夜のことを思い出そうと断片的な記憶を掻き集めるが、疲労困憊かつ満身創痍のナマエは寮でシャワーを浴びたあとの記憶がとんとない。
 ツイステッドワンダーランドの魔法士にとって、身の丈に合わない急激な魔力消費は体調不良を引き起こす一因になる。昨夜、ナマエの魔法石にあれだけのブロットが溜まっていたのは相応に魔力を消費していたからで、心身ともに限界を迎えていた彼女が気絶するかのように力尽きて倒れ込んだのも、ただ眠たかったからではなく身体が危険信号を出していたからだろう。調子に乗って魔法を使いすぎた昨日の自分を恨んだところでこの状況は変わらないとわかっていても、やはり後悔せずにはいられなかった。ベッドまで自力で歩いた記憶はない。ルームメイトであるクルーウェルが運んでくれたか、仮にそうでなくてもこの姿を見られた可能性は十分にあるのだ。能力も弁えずに暴れた自分を殴りたくなって当然である。
 カーテンに指を引っかけ、僅かに開いた隙間から恐る恐るクルーウェルのベッドを見やると天蓋から垂れるカーテンは開きっぱなしで、マットレスの上はもぬけの殻だった。物音ひとつしないのでバスルームにいるわけでもなさそうだ。
 枕元の時計は午前三時半を指し示している。窓の外には夜明け前の暗闇が広がっていて、朝日もまだ顔を出していない。朝の散歩にはまだ早い時間帯だろう。学園内で一番勉強が捗りそうな図書室はまだ開いていないし、寮の朝食の時間は六時半からだ。存外に寝起きは機嫌が悪くなるクルーウェルがこんな時間にどこかに行っているとは思えなくてベッドから抜け出すと、随分と緩くなったハーフパンツが腰からずり落ちて躓いた。
 そうだ、まずは薬を飲まなければならなかった。思ったより慌てていたらしいことに苦笑いし、引き出しに隠しておいた小瓶を手に取ると、ナマエはひと呼吸置いてから一気に煽った。鼻を突く刺激臭に空っぽの胃がひっくり返りそうになり、呻くような声が漏れる。臭いのあとに遅れて味覚が味を拾い、ヘドロのように喉にへばりつく生ゴミのような風味を我慢しながら嚥下したものの、饐えた生臭い肉のような後味に吐き気がして口元を押さえた。最低最悪な悪臭と不味すぎるその味のせいで舌と喉がぴりぴりと痺れて痛い。

「いっ……あ!!」

 何度か咳き込み、空気を吸い込むと全身の骨が軋み始め、内蔵をぐちゃぐちゃと掻き回されているかのような痛みが走る。こんなに痛いなら気を失ったほうがマシだ。なのに気を失うことは叶わず、内臓を押し上げ圧迫されるような激痛に耐えなければならない。意識が遠のく度に耐え難い痛みに襲われ、荒い呼吸ばかりが唇から吐き出される。

「い、う゛……っ、あ……ッ!」

 骨の一本一本を丁寧に折っていったら、これと似たような痛みを味わえるだろう。生きるための呼吸をすることすら痛くて苦しくて、ナマエの瞳から涙がこぼれた。
 性別転換薬服用時の痛みは出産の痛みによくたとえられる。魔法薬や医療技術の発展により無痛分娩が主流になった昨今ではその比喩も廃れつつあるが、異なる性別の身体へと作り変えることで生じる副作用は母子がともに命をかける妊娠出産のリスクに比類する。けれど、この薬は出産とは違って何も得るものがない。むしろ奪うだけの代物だ。

「ッはあ……はあ……っ!!」

 強く握り締めていた手のひらには血が滲み、歯が軋むほどに噛み締めていたせいで口の中も鉄の味がした。ようやく変化が終わり床に手をついたナマエは流れる涙を拭い、ふらふらとした足取りで立ち上がる。床に落ちた汗や涙の水滴を手のひらで雑に拭い取ると、痛みから開放された彼女の唇から安堵の息が自然と漏れた。
 身体が少年らしいそれになっているか、節が目立つ指や薄っぺらくなった胸を確認したナマエは上着を羽織ると部屋から出て静かな廊下を歩いた。どれだけ足音を忍ばせてもスリッパの音が反響し、美術館のような静謐の美が彼女を迎える。内外の温度差によって曇った窓ガラスは触れただけで指先が凍りそうなほどに冷たく、指でなぞった跡が残った。学園の妖精たちが温度を一定に保ってくれているとしても、二月の夜は底冷えする。こんな寒い夜にクルーウェルはどこに行ってしまったんだろうか。長い廊下を抜けてあたりを見渡すもそれらしき姿は見当たらず、姿がないだけで心配になってくる。

「あ」

 クルーウェルは談話室のソファの上に横たわっていた。ブランケットからちょこんと飛び出た頭は肘置きの部分に乗せられ、ソファからはみ出た長い脚はそのまま放り出されている。たいらな胸元が穏やかに上下し、顔を隠すようにして乗せられた読みかけの小説本が今にも滑り落ちそうだった。有名な作家が書いたものではない。確か、サイエンス・フィクションとミステリーが融合した現代風の作品だったはずだ。世界的な賞を受賞した文学作品や流行りの恋愛小説ではなく、知る人ぞ知る隠れた名作を好んで読むところがこだわりの強い彼らしい。
 クルーウェルが自室ではなく談話室で寝ている理由はルームメイトであるナマエにも察せられない。無意味に行動を取る質ではない彼がここで寝るということはよっぽどの事情があるんだろう。クルーウェルはここで寝たくて寝ているのかもしれない。要らぬお節介を焼いてしまってもいいのか考えあぐね、静かに眠る彼を見つめる時間ばかりが刻々と流れた。
 身じろぎひとつしない彼はよく眠っているようだ。しかし、決して大きくはないソファで一晩も過ごしたら身体が冷えるだけではなく、節々が固まってちゃんと休めないだろう。起こすか起こすまいか悩んでいると開きっぱなしの小説が床に落ち、硬い背表紙の部分が大理石にぶつかって耳障りな音が響き渡った。予想以上に大きく響いた音に驚いたナマエは肩をびくつかせて慌てたものの、クルーウェルが起きる気配はない。拾い上げた小説を軽くはたいて近くのローテーブルに置いてもまったく起きそうにない。彼は熟睡しているのか伏せられた睫毛は一切動かず、穏やかで静かな寝顔はいつになく幼く見えた。瞼に浮かぶ細い血管が肌の白さを強調し、珍しくつけっぱなしのピアスが妙に色っぽくてナマエは目を逸らす。ゆっくり眠っているのなら起こしてもきっと怒られる。見なかったことにしよう――そう判断して立ち上がれば、さっきまでは微塵も起きそうになかった彼がナマエの手首を掴み、シルバーグレーの瞳を彼女に向けていた。

「……あ゛?」

 聞いた直後は誰の声かわからなかった。目が合うや否や低い声を出したクルーウェルを信じられないような気持ちで見つめていると、突き飛ばすように手首を振りほどかれ、弾かれて自由になったナマエの手が宙を彷徨った。

「なんの用だ」

 ナマエは未だかつてないほどにすこぶる機嫌が悪いクルーウェルに戸惑った。上半身を起こした彼は立てた片膝に腕を置き、今にも爆発しそうな怒りを孕ませた低い声で問い質す。苦々しく寄せられた眉間には不快感が深く刻み込まれ、細長い指先は高級感のあるソファの生地を腹立たしそうに叩いていた。

「用がないなら部屋に戻れ」
「俺はただ、先輩が部屋にいなかったから心配で……」
「それをお前が言うのか」

 は、と鼻で笑い、目を細めたクルーウェルの地雷を手ずから踏み抜いてしまったであろうことはナマエにもよくわかった。何がいけなかったのか、何が怒りを逆撫でしたのか、何が逆鱗に触れたのか。すべてがわからなくて、目の前の先輩が得体の知れない男のように見えて彼女は恐ろしかった。

「いい加減にしろよ」
「……すみません」

 何が悪いのか考えることもなく謝るのはナマエの悪い癖だ。思考を停止させ、相手の機嫌を取るためだけの、相手を気持ちよくさせるためだけの便利な言葉を吐けば円満に済むと知っているからこその発言だった。だけれど、今のクルーウェルに対しては最低最悪の悪手だっただろう。無意味を厭う彼の頭には無意味な言葉に耳を傾けるための容量なんて小指の先ほどもない。謝ったことを謝らなければ嫌われるだろうか。それとも、もう嫌われてしまった? クルーウェルに嫌われたくなんかない彼女が言葉を探していると、

「……もう戻れ。ただの八つ当たりだ。気にしなくていい」

 クルーウェルは疲れきったような表情で溜息をつき、背もたれにもたれかかって手のひらで顔を覆い隠した。重苦しい沈黙がかすかな音を立てるのも躊躇わせ、布擦れの小さな音がやけに大きく聞こえる。太いみみずのような血管が浮き出た手の甲に残る擦り傷が目につき、ナマエは場違いにも「先輩でも怪我するんだ」と考えた。ハッピービーンズデーでの大乱闘中についたであろうその傷が、ルームメイトとして「頑張れよ」と言ってくれた彼の声をありありと蘇らせる。疲れているからか、今日は異様に口が軽く感じられた。

「褒めてください」

 それはナマエにとっても思いがけない言葉だった。この口から出てきた言葉の意味を理解するよりも先にクルーウェルが「は?」と声を上げ、感情という感情を削ぎ落とした表情で「何言ってるんだこいつ」と言いたげに数回瞬きした。ナマエだってこんなことを口走るつもりはなかったのだ。けれど出てしまった言葉はなかったことにはできないし、褒めてほしいと思っていたのもまた本心なので否定もできない。

「俺、怪物をぶっ潰しました」
「……ああ」
「魔力が尽きて部屋で倒れましたけど……あの、それで」

 背もたれの上部に片腕を投げ出しているクルーウェルは、しどろもどろに説明するナマエを観察するように眺めている。冷たく見える無彩色の瞳は薄い雨雲の下に広がる灰色の海を思わせた。一見凪いでいるようにも見える海は一度潜り込んでみたら冷たくて、溺れそうなほどに荒々しい。そんな海によく似た双眸は恐ろしくて、うつくしくて、冷たかった。

「すみません、聞かなかったことにしてください」

 鈍く光るシルバーグレーを見つめていたら自分自身がくだらない矮小な存在に思えて、言動そのものも馬鹿馬鹿しくなった。加えて、褒めてとねだるなんて小さな子どもみたいで恥ずかしい。慌てて撤回すると、クルーウェルは「お前は犬か」といつか聞いたことのある言葉を口にした。

「……ベッドまで運んでくれたのって先輩ですよね? ありがとうございました」

 気まずさを誤魔化すために話題を変えればクルーウェルはたっぷり十秒ほど黙り込み、ぷいと顔を逸らす。彼が触れられたくなさそうな表情をしているとも知らずに、微塵も悪気がないナマエはもう一度「ありがとうございました」と続けた。

「俺は何もしてない。何も見ていないし触ってもいない。一人で動いたんじゃないのか。俺は知らん」
「本当ですか?」

 舌打ちだけがナマエへの答えだった。忌まわしげに前髪を掻き上げ、心底鬱陶しそうに足を組んだクルーウェルは彼女には見向きもせずに「お前、しばらく俺に近寄るな」と力なく吐き出して首を振った。今ばかりは、双眸よりもピアスのほうが輝いているように見える。

「見るな来るな寄るな。わかったか」

 ともすれば聞き逃してしまいそうな、糸のように細い声はやがて溜息へと変わり、伏せられた長い睫毛がつり目がちな両目を弱々しく見せた。友人や後輩にでさえ弱みや隙を見せることを嫌うクルーウェルが弱り果てている。もはや取り繕えないくらいに途方に暮れ、ナマエにその姿を見せている。「接触禁止だ」と宣うその声や表情に、入学したばかりの頃のような明確な拒絶があるわけではない。彼はただただ困っているようだった。

「俺、何かしましたか」

 じとりとした目が、悲しげに眉を下げたナマエを見上げる。

「……何もしていない。これはただの自己嫌悪だ」

 お前のせいではないと口にしておきながら、その口調には「お前のせいだ」と言外に詰る非難が滲んでいた。しかしそれを指摘すればクルーウェルを怒らせることは目に見えている。ナマエは結局何も言わず、納得できないままに部屋へと戻った。



 クルーウェルとの距離感を見失ってしまった。
 あっという間に過ぎ去った季節は初夏を迎え、茹だるような日差しを浴びる白いシャツが目に眩しい時期がやって来た。空調の効いた室内は過ごしやすいが、一歩でも外に出ればそこは立っているだけで汗が吹き出る灼熱地獄だろう。

「大丈夫か? 最近顔色が悪いぞ」

 サイエンス部の三年生は真っ白な顔で薬品を掻き混ぜるナマエを浮かない面持ちで見下ろした。元から白いナマエの顔は青白く、育ち盛りの年頃だというのに以前よりも痩せたように見える。肉が落ちた頬や実験着の上からでもわかる腕の細さは誰が見ても不健康だと思うはずだ。思案げにこちらを見つめている先輩にナマエは「大丈夫です」と頷いて、次に混ぜる粉末を手に取った。薬草とは思えない生臭い臭いが漂って思わず息を止める。相変わらず鼻が曲がりそうな臭いだ。こんな臭いを間近で嗅いでいればいやでも目が覚め、大食堂で食べたシチューが胃からせり上がってきそうな不快感を覚える。
 夏に差し掛かった今でこそ落ち着いているが、学園内の樹木が鮮やかに色づいていた頃は、この臭いに耐えかね体調不良を訴える獣人の新入生たちで保健室はいっぱいになっていた。人間ですら吐き気を催す悪臭なのだから鼻が利く彼らにはまさしく拷問のそれに等しく、このときばかりは獣人のクラスメイトに対してみんなが優しくなる。親しい友人が数えるほどしかいないナマエも、持参した袋に嘔吐くクラスメイトを見かけたときはその背中を撫でさすり、ポケットに入っていた飴玉をあげたほどだ。

「死にそうな顔してんのによくミスらないな」

 感慨深そうに、褒めているのか貶しているのかわからない様子で先輩が言った。
 人間は習慣に隷属する生き物だ。毎日の睡眠時間が片手の指の本数で足りる程度であっても、一旦慣れてしまえば疲労感も睡眠欲も麻痺していく。薄い霧で満たされているかのように頭の中がぼんやりとしていても、ナマエはいつかのように判断を間違ったり取り乱したりはしない。こればかりはクルーウェルに扱かれた成果でもあるだろう。

「怪しい研究でもしてるのか?」
「……いえ。まさか」

 眠たいらしい先輩は大きな欠伸を噛み殺し、ふうんと怪訝そうにナマエを見やると突然彼女の髪に触れた。指先が頬骨に当たり、ゴム手袋の感触が肌に残る。

「ナマエって本当に女の子みたいだよな。小さいし」
「なわけないじゃないですか」
「魔法薬で男になってたりして」

 一瞬だけ手が止まった。この先輩の言葉はただの戯れで、たわいのない冗談に過ぎない。僅かな動揺を悟られないように何気ない調子で「有り得ないですって」と笑ってわざと眉を下げると、先輩は「だよなあ」と明るく笑い飛ばした。探るような視線がようやく外れ、ナマエは緊張とも安堵とも取れない感情を噛み殺す。おくびにも出さなかった動揺は、相手がクルーウェルだったならば一秒と経たずに看破されるだろう。今さら早鐘を打つ心臓を撫で下ろし、彼女はすり潰した鉱石を沸騰した薬液に入れた。大きな気泡がぽこぽこと沸き上がり、水面の近くで潰れていく。

「デイヴィスが気に入るくらいだから、厄介なもんでも作ってると思ったんだが」

 先輩が口走った見当違いな言葉に自虐的な笑いがこぼれそうだった。あの人は自分を気に入ってなんかない。端からわかりきっていることを思えばこそ、試験管を持つ指先に力が入った。クルーウェルは努力を怠る者に対してはとことん冷酷無比だが、努力を重ねる者に対しては手を差し伸べる。彼は意味もなく叱る無責任な大人たちとは違う。厳しさの中にわかりづらいやさしさがある。だから認めてもらいたい。居心地のいい、それなりに親しい先輩後輩の間柄に戻りたい。ハッピービーンズデーに盛大な喧嘩をしたわけではないし、はっきりと拒絶されたわけではない。それでも、クルーウェルはあの日からずっとナマエを避けている。心の内側を一片たりとも暴かせない彼の肚の中なんてわかりようもないし、露骨に避けられているのだから避ける理由を聞くこともできない。どうすることもできない現状にはナマエもすっかりお手上げで、何よりも寂しかった。一言も交わされない挨拶が、見向きもされない瞳が、彼のやさしさに慣れ始めていたナマエにはどうしようもなく寂しく思えた。雑なあの撫で方が恋しくて、「ここの公式は違う」とノートを指差して指摘する彼が恋しい。歳の近い兄がいたら、あんな感じだったんだろう。
 試験管の中身が薄い水色から綺麗な薄いオレンジ色に変化したのを確認し、スポイトで吸い上げたそれを鉱石入りの薬液に注入すると、宵の空のような液体に朝焼けの色が瞬間的に差して夜明けの北の空に似た色合いを呈す液体がビーカー内でちゃぷんと揺れた。何度目かもわからない試行錯誤の末、ようやく成功したらしい細胞分裂を促す薬は美しい色合いをゆっくりと変化させながら輝いている。あとは瓶に詰めて植物や人工の細胞で実験をしていくだけだ。
 成功した喜びよりもようやく完成したという安心感を覚えながら、新しい瓶を取り出すために戸棚に手を伸ばしたナマエは不意に漂った異臭に気がつき眉を寄せた。何か悪いことが起きる――そんな予感がしたのも、クルーウェルの躾の賜物だろうか。勢いよく顔を上げた目と鼻の先で、補習のために薬学室を借りたいと小一時間前に宣っていた同級生の少年たちがしかめっ面で「本当にこれでいいのか?」「わかんね……変な色になった」と物騒な会話をしていた。彼らが持っている薬品はその性質として熱に非常に弱く、粗熱を取ってから入れなければ突沸を引き起こす危険なものだ。魔法の力で勢いよく燃え盛るアルコールランプに熱されたビーカー内の薬液はぐつぐつと煮え滾り、ナマエが先ほど嗅ぎ取った異臭を醸し出している。あんなものに薬品を入れたら、大怪我は免れないだろう。

「そっちの薬は……!!」

 手を伸ばしただけでは届かない。彼らは切羽詰まった表情で手を伸ばすナマエを不思議そうに見つめるだけで、薬品が入った試験管は傾くばかりだ。

「おい」

 その声が聞こえた途端、もう大丈夫だと思えた。彼らのあいだを縫うように割り込んだ革手袋の手が試験管を掴み、口の部分に親指が覆い被さった。いっそ憎たらしいくらいに優秀な問題児が目の前にいるとなれば一年生は後退りしてしまうものなのか、驚いた拍子に試験管を離した彼らはぽかんと口を開け、上背のあるクルーウェルを見上げた。

「一体どこの駄犬かと思ったが……こんな初歩的なことも理解できていないとは恐れ入る」

 威圧的に咎められた一年生は口ごもり、青ざめた表情で固まっている。クルーウェルの制止がなければ今頃は大惨事になっていたことだろう。

「魔法薬学の基礎知識も危険性も知らない馬鹿は実験着を着るな」
「すんません……」
「いいか。この薬品は――」

 事あるごとに厳しく叱りつけられていた自分も、周囲からはあんな風に見えていたんだろうか。今にも泣き出しそうな一年生を容赦なく罵倒し、かと思えば懇切丁寧に説明を始める面倒見のよさがクルーウェルらしくて微笑ましいのに真っ向から話を聞ける同級生二人が羨ましくて見ていられない。クルーウェルに避けられていなかった頃を思い出し、見苦しいほどの嫉妬が渦を巻いている。「いつからこんなに我侭になっちゃったんだろう」と愕然として、息をか細く吐き出したナマエはしかし、自身の腕に残る違和感に気づいて絶句した。手を伸ばしたときにこぼれてしまったらしい細胞分裂促進薬は彼女の右肩から手首にかけてを濡らし、実験着の内側からは赤色が滲み出ている。腕がやけに熱い。

「ナマエ! 今すぐ脱げ!!」

 異変を察知した三年生が叫んだ。薬学室にいた部員たちの目が一斉にナマエに向き、驚いたり悲鳴を上げたりと様々な反応を示した彼らがわらわらと集まってくる。
 実験着の上から染み込んだ薬液はナマエの皮膚を伝い、薬液に侵された皮膚細胞が驚異的なスピードで分裂を繰り返している。通常はひと月以上かけて生まれ変わる皮膚が一瞬で新しくなり、そしてまた剥がれていく。人間の身体はそんなに丈夫ではない。魔法薬による強制的な細胞分裂についていけなくなった皮膚細胞はどんどん剥がれ落ちて、歯止めも効かないまま真皮まで達し、真っ赤な血液がとめどなく溢れていた。

「これ、洗剤で落ちますかね」
「んなこと悠長に気にしてる場合か!!」
「先生呼んだがよくね!? ヤバい怪我だろこれ!!」

 ぼんやりと腕を見下ろすナマエよりも部員たちのほうが騒いでいる。
 人間は習慣に隷属する生き物だ。こんな痛みはなんともない。性別転換に伴う痛みに慣れていなかった頃はカツアゲで殴られる度に痛みを感じていたが今や何も感じず、「もう変わり始めているのか」と冷静に腕を観察するだけだ。入学から一年しか経っていないにも関わらず、すでに変化し始めている身体にナマエは純粋な驚きを覚えた。

「俺、保健室行ってきます」

 クルーウェルはあんなにかっこよく止めたのに、自分は間抜けな怪我までしてしまった。情けなくてかっこ悪い。こんなのあんまりじゃないかと、誰でもいいから誰かに言いたい。床にこぼした促進薬を魔法で手早く片付けたナマエは、こちらを見ているであろうクルーウェルのほうには見向きもせずに魔法薬学室を出た。血が垂れないように歩くのは難しかった。


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