キリング・セオリー 04
あっさりと始まったウィンターホリデーは特にやることもなく、課題は早々に終わってしまった。研究を続けるやる気も起きないナマエはひとりぼっちの部屋でベッドに寝転んでいる。暇は人を駄目にすると言うが、彼女の場合は静かすぎる部屋が落ち着かなくて何にも集中できていなかった。自分以外に誰もいない部屋を寂しいと感じるのはいつぶりだろうか。少し前まで、ナマエは侯爵家の小間使いで、なんの利用価値もないと思われていた少女だった。どこにも寄る辺はなく、孤独感に苛まれながら生き、それを忘れ去りたくて勉強に身を捧げた。広い屋敷に一人きり。寮の部屋に一人きり。生きていくことだけに必死になっていたあの日々に逆戻りしただけだというのに、どうしてか寂しくてたまらない。我侭息子の身代わりとして入学したに過ぎないナイトレイブンカレッジでこんな痛みを覚えるなんて考えもしなかった彼女は目を閉ざし、か細い息を吐き出した。
暗くて静かな夜は孤独が膨張していくように感じる。どんどん膨れ上がって、ずしりとのしかかってくるように感じる。どこに手を伸ばしても広がるのは掴めもしない暗闇ばかりで、世界に一人取り残されているような錯覚が恐ろしかった。身体ごと夜に侵食されそうで怖いのだ。毛布を頭から被って息を潜めていなければ闇が迫ってきそうで。
「……寒い」
毛布を頭から被っているせいで息苦しいぐらいに暑かった。なのにどうして、寒くて寒くて仕方がないんだろう。
「オクタヴィネルには行かなかっただろうな」
ホリデー明けのクルーウェルの第一声はそれだった。寮に戻ってすぐ、年明けの挨拶もすっ飛ばして言うのであまりの過保護さにナマエは笑った記憶がある。約束通り送られてきたホリデーカードでも「絶対に行くなよ」と念を押していたことを思えば、更に笑えた。
「なんだ、部屋は散らかさなかったか」
「当たり前です。整理整頓くらいできますし」
クルーウェルが帰ってきた途端、後ろ向きだった気持ちが前向きになったのだから自分で思うよりも彼に懐いているのかもしれない。それが少し気恥ずかしくて、そっぽを向いたナマエはかわいげもなく答えてしまった。
「生意気だぞ」
伸びてきた手がナマエの頭に乗り、犬の頭でも撫でているかのようにぐしゃぐしゃと撫で回される。髪を梳かすように優しく撫でてくれていた母の触れ方とはまったく違うのに、懐かしさが込み上げて彼女は目を細めた。
母以外の愛情なんて知らない。母に育てられ、その母さえも失った彼女は男親や男兄弟がどんなものであるかも知らないけれど、クルーウェルは友人のような、父のような、兄のような、そんな存在だった。呼べば仕方なさそうに振り向いてくれるシルバーグレーの瞳が、面倒くさそうに差し伸べられる手が、当たり前のように名前を呼んでくれる声が、すべて大事に抱えていたくなるほど好きだ。この人のそばは心地がいい。そう思える。
「……犬か、お前は」
呟くような声が聞こえて視線を上げると、呆れ顔のクルーウェルが溜息をついていた。家族全員が犬派だとかで、彼は実家で犬を飼っているらしい。いつかの雑談で聞いた話を思い出し、ナマエは「この人が飼い主だなんてその犬も幸せだろうな」と思った。どうでもいい人間からの悪意には百倍返しの悪意を、認めた者からの誠意には相応の誠意を返す人であるから、身に余るほどの愛情を愛犬から向けられれば同じくらいの愛情を返すんだろう。
「夜更かしはほどほどにしろよ」
ナマエの頭から手を離すと、クルーウェルはタオルと着替えだけを持ってバスルームに消えた。夜更かしなんて、今日は聞きたくない言葉だ。ホリデー期間中は一向に進まなかった研究のことを思えば一気に心が重くなり、前向きになっていた気持ちも萎んでいく。
「やるかあ……」
そうは言っても、ただでさえ限りのある時間は悠長に待ってはくれない。クルーウェルの忠告も虚しく、彼女はその晩も夜明けまで起きていたのだった。
◇
ここが男子校ではなくて男女共学制の学校だったなら凄まじい人気者になっていただろうなと考えながら、ナマエは伏せられた長い睫毛を見つめる。陶磁器のような白い肌によく映える艶やかな黒髪が揺れる度、シルバーグレーの瞳を覆い尽くしそうな睫毛がちらりと見えた。ノートに書き込んで実験の解説をしている彼はナマエの視線にも気づかず、ペンをすらすらと走らせている。ひとつ躓けば容赦なく見捨てるような冷たそうな先輩であるが、そんなイメージとは裏腹に逐一確認を取って躓いたところから解説してくれる面倒見のよさは目を見張るものがある。先生っぽい。ナマエはクルーウェルを見ながら思った。
「先輩って先生向いてそうですね」
「は?」
しまった、と思ったときにはもうクルーウェルの低い声が鼓膜を震わせていた。無意識に言ってしまったとはいえ、彼は話の腰を折られるのをいたく嫌う。そもそも、教えを乞うている立場であるにも関わらず無関係な話をしたナマエが悪いのだからその怒りも当然だ。だからと言ってクルーウェルの説教を真っ向から受けたいと思うはずもなく、これ以上機嫌を損ねてしまう前に謝ろうと口を開いた直後、なんとも言えない表情の彼が目に入って首を傾げた。怒っているというより、驚いているように見える。
「……そうか」
居心地の悪そうな口調はほんの僅かに嬉しそうで、ナマエもいよいよ得心がいく。思い返してみれば、彼女はクルーウェルの夢を聞いたことはない。けれどこの表情を見れば、どんなに鈍い人間でもわかるだろう。
「なんだその顔は」
「いえ別に」
「今すぐやめろ。腹が立つな」
変な顔をしているつもりはない。眉をひそめてナマエを睨みつけたクルーウェルは彼女を小突くと、やはり居心地が悪そうに首裏を掻いて、もう一度だけ彼女の額を指先で弾いた。
「わかった。お前は一人で勉強しろ」
「……無慈悲すぎる」
「俺を笑ったんだ。そのくらいできるだろう。ああ、そういえばお前は農民チームだったな。うっかり怪物にやられても泣きべそかくなよ」
「怪物は反撃しないですよ」
数日後に迫るハッピービーンズデーは農民役の生徒が怪物役の生徒に豆をぶつけて終わる至極平和的な学校行事だ。揃いも揃って癖が強い教師陣の中では比較的温和な担任は「大きなトラブルもなく終わるからそんなに気負わないでくださいね」と言っていたし、そもそも、農民が怪物に襲われてしまってはツイステッドワンダーランドに古くからある言い伝えも形無しである。
「どうだろうな」
どうだろうなって、なんだ。ナマエはクルーウェルの言葉に引っかかりを覚えつつも、深くは考えないで聞き流した。聞き流して、含みのあるその言葉を忘れ去ってしまったことをハッピービーンズデー当日に後悔した。
大前提として、生徒側にやる気がないのでイベント自体は例年可もなく不可もなく終わるらしい。教師や上級生が口を揃えてそう言うから、ナマエもそういうものだと思っていた。ハッピービーンズデー当日を迎えるまで――いや、怪物役の生徒たちに魔法で攻撃されるそのときまで彼女は「楽なイベント」だと思い込んでいたのである。それがただの思い込みに過ぎなかったと知るのは、怪物たちにやられたあとのことだった。クルーウェルとの会話を思い出しながらナマエは青空を見上げ、楽なイベントであってほしかったとこの期に及んで考えている。
「どいつもこいつも、俺が反撃しないと思い込んで豆を投げつける」
「……そうですね」
学園指定の運動着に身を包み、額に青筋を浮かべているクルーウェルからは彼に似つかわしくない泥の匂いが僅かに漂った。紫のTシャツは所々汚れ、汗をかいているのか襟足の髪が湿っている。草むらで待ち伏せするクルーウェルに見つかったときは「終わった」と思ったが、彼は怪物チームの声が遠くから聞こえてくるなり眉をひそめてナマエを引っ張り込んだ。ボロボロの後輩を哀れに思って助けてくれたんだろう。そう思うと、ナマエは感謝の気持ちよりも自分自身への不甲斐なさを覚えてしまっていた。
「乱闘騒ぎを起こしたのってやっぱり先輩なんですね」
「俺じゃない」
このとんでもない乱闘騒ぎを起こしたのは、白々しくしらばっくれた目の前の男でまず間違いないだろう。ナマエの記憶が正しければ、「二年のクルーウェルが魔法で反撃しているらしいから逃げろ」という通告がついさっきなされたばかりである。
農民チームの生徒は散り散りに逃げているが、今やそこかしこで決闘が繰り広げられ、耳をつんざく轟音が響いていた。魔法が弾ける音や生徒たちの絶叫に加えて、木の一本や二本でも折られたのか数分前には大きな地響きが大地を揺らした。ナマエとクルーウェルが腰を落ち着けている場所の向こうでも農民役と怪物役の生徒同士が魔法をぶつけ合い、日頃のストレスを発散させるかのように互いを罵り合っている。
「その様子じゃ、お前もやられたか」
「えげつない攻撃食らっちゃって」
農民チームに振り分けられた生徒が怪物役の生徒たちに見つかって無事で済むはずがない。追いかけてくる怪物たちの攻撃をなんとか躱しながら命からがら逃げてきたナマエの髪には木の葉や枝が絡まっていた。
「情けない有様だな」クルーウェルの目がナマエを見る。
「仕方ないじゃないですか。三人に囲まれたんですよ?」
「こういうときはやられる前にやれ」
涼しげな顔で笑っているクルーウェルはほとんど無傷で、自分との格の違いに情けなさと悔しさを感じる。なぜこんなにも余裕綽々な表情で飄々としていられるんだろうか。何人もの敵に囲まれたとしても挑発的な笑みを崩さず、一人残らず徹底敵に返り討ちにできるであろう強さと頭脳を持っているクルーウェルが羨ましい。
葉っぱの取り残しがないように髪に触れると、痩せ細った小枝が取れて更に気分が沈む。逃げ回った挙句、傷だらけな姿を他でもないクルーウェルに見られたのがいやだった。
「逃げ惑うだけなんて馬鹿らしい。お前もそう思うだろ?」
楽しげに笑うクルーウェルの姿に背筋が冷える。シルバーグレーの瞳が冷たい光に揺れ、持ち上げられた口角の隙間から覗く鋭利な犬歯がどことなく野性的でナマエは身震いした。理知的な顔立ちには似合わない、獰猛な獣を思わせる笑い方だというのになかなかどうして様になる。牙を剥かれたわけではなくても、底の見えない表情が空恐ろしく感じた。
ナマエたちの目の前で繰り広げられていた農民と怪物の乱闘は相打ちという形で幕を下ろしたらしい。両者ともに地面に倒れ伏し、その近くに転がるマジカルペンの魔法石にはブロットが溜まって澱んでいる。盛大な魔法を乱発したらしく、地面の土は大きく抉れ、付近の木々も焦げていたり濡れていたりと見るに堪えない有様だ。
「……俺、そろそろ逃げますね」
乱闘には巻き込まれなかったものの、他の怪物にいつ見つかるかもわからない。いつまでもクルーウェルのそばで休んでいるわけにもいかないので膝に手をつき立ち上がろうとすると、思わぬ方向から腕を引っ張られた。猫のように思考の読めない目が彼女を見上げている。
「どこに行く?」
「怪物がいなさそうな所に」
「ここにいるだろ。
「え? 助けてくれたんじゃ……」
「馬鹿を言うなよ。お楽しみはこれからじゃないか?」
マジカルペンが首に添えられ、ナマエは目眩を起こしそうだった。助けてくれたと思い込んでいた自分が馬鹿らしくて、情け容赦のない厳しさがクルーウェルらしくて、逆に力が抜ける。酷使した両足が今になってがくがくと震え始め、膝から下に力が入らない。
「どうした、逃げないのか?」
「……どうせ殺されるならここで殺されとこうかと」
「ほう。賢明な判断だな」
「それに、先輩は痛いことしないし」
やさしいと正直に言えば、意地の悪い顔で「どこが」と笑うに決まっている。だけれど、クルーウェルはやさしいのだ。残酷でも、冷淡でも、ナイトレイブンカレッジきっての問題児だとしても、ナマエにとっては頼りになるやさしい兄のような存在なのだ。彼女はクルーウェルを信頼しているし、彼の飼い犬のごとく懐いている。本人には絶対に言わないけれど、その聡い頭脳で彼も察してはいるんだろう。彼女の返答は酷く予想外なものだったのか、一瞬だけ呆気に取られ、しかしすぐに溜息をついたクルーウェルは汗ばんだ前髪を掻き上げてマジカルペンを下ろした。
「さっさと行け。怪物どもと出くわしたら容赦しなくていい。俺のルームメイトらしく、奴らをぶっ潰してやれ」
言うだけ言って、ふいと身体ごと顔を逸らしたクルーウェルはその場から立ち上がると、ナマエを振り返ることもなく「精々頑張れよ」と告げて走り去った。疲れを感じさせない軽やかな足音はあっという間に遠ざかり、やがて風と触れ合う木々のざわめきだけが鼓膜を震わせる。今になって、胸の内側がきゅう、と狭くなった気がした。
「ずる、あの人」
慕っている先輩に頑張れと言われたら嬉しくならないわけがないのに。頬に広がりかけた熱をはたき落とすように両頬を手のひらで叩いたナマエは悲鳴を上げる足を奮い立たせ、クルーウェルが走り去ったほうとは反対の方角へと走った。足を振り上げる度に太ももやふくらはぎの筋肉が痛み、地面に足をつける度に底が抜けて深く沈み込むような錯覚を覚える。過ぎ去る視界の端では様々な色の光線が飛び交い、怒号と悲鳴が深い森の中で共鳴しては獣の咆哮のようにこだましている。息を吸うだけで冷たく冴えた空気が肺に突き刺さるような激痛が走るが、止まったらもう二度と走れなくなる気がしてがむしゃらに足を動かした。何が自分をこんなにも突き動かしているのかなんて、ナマエにもわからない。ただ、今だけは走り回ってこの衝動を飲み込んでしまいたかった。
「おい! 農民いたぞ!」
「げ、クルーウェルの後輩じゃねえか!!」
限りなく限界に近づいている身体に鞭打って走っていると目の前の茂みが音を立て、怪物役の生徒二名が姿を現した。急に立ち止まった両足はみっともなく震え、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。今すぐにでも膝に手をついて休みたい。肺の奥から吐き出された呼気は気管すらも燃やしそうなほどに熱く、息を整えようにも肺が痛すぎてままならない。
「チッ……オレらを恨むなよ」
「俺も、うらみは、ないですけど」
黄色のマジカルペンを構える二人を見据え、ナマエもペンを握り締める。こんなに息を乱していては格好がつかない。けれど、かっこ悪くても、情けなくてダサくても、頑張れと言われたからには力の限りを尽くしてあの言葉に報いたい。
「でも、まけるわけには、いかないんで」
ぶっ潰してやらなければ。
背中を汗が伝い、熱い身体が僅かに冷える。全身に血液を送り出す心臓が絶え間なく脈を打つのは少し前まで走っていたからか、それともこの対戦に緊張しているからか、そのどちらであるかは判別のしようもない。深い紫色の魔法石が濁っていないことを確認し、掻き集めた気力を振り絞ったナマエは勢いよくマジカルペンを振り上げた。
ハッピービーンズデーが終わったあとのことはよく覚えていない。ただひたすらに疲れていて、ただひたすらに休みたかった。
学園長の閉会の言葉は、伝統行事が各学年各寮問わずに入り乱れる大乱闘へと姿を変えてしまったことを嘆くそれだった気がする。今年のハッピービーンズデーは例年よりも遥かに盛り上がり、なんともナイトレイブンカレッジらしいイベントへと相成った。事の発端であるクルーウェルとその他の上級生数名は当然呼び出しを受けたことだろう。
一人で寮に戻ったナマエは汗でべとつく身体をシャワーで洗い流し、早々にベッドに潜り込んだ――というわけでもなく途中で力尽きて磨き抜かれた床に倒れ込んだ。机の上に置きっぱなしにしていたマジカルペンはころりと転がり、気を失いかけている彼女の前に落っこちた。アメジストのような輝きは見る影もなく濁り、内側で真っ黒なインクが滲むように黒ずんでいる。
「……薬……」
薬を飲まなければ、そろそろ効果が切れる。職員室で説教を受けているであろうクルーウェルも帰ってくる頃だろう。引き出しの奥にしまい込んでいる薬を取ろうと手を伸ばすが、筋肉の痛みを訴える下半身は言うことを聞かず、全身が鉛のように重くて動けない。このまま眠りたいという欲望と薬を飲まなければという理性が交互によぎる。しかし、さざ波のように静かに押し寄せる睡魔には抗えず、ナマエはそのままことんと眠りについた。
夢を見ていた気がする。母に髪を梳いてもらっている幸せな夢を。
「おい。ふざけるなよ」
微睡みから引き上げるように、真っ暗な闇の中で誰かのくぐもった声が聞こえた。ナマエは腕の中でその誰かを抱きしめていて、やわらかい髪を梳いている。それは遠い記憶の海に沈んだ在りし日の母の愛情表現の真似で、ナマエにできる唯一の愛情表現だった。
大人びた香水の香りに混じって泥と汗の匂いがする。ちっとも懐かしくないのに落ち着く匂いがするその人をもっと強く抱きしめたら、彼女を引き剥がそうとしていた手がぴたりと動かなくなり、ややあって再び動き始めた大きな手は苛立たしそうな性急な手つきで部屋着の中に潜り込んだ。冷たくて乾いた指の腹がナマエのやわいふくらみに触れる。
「……ん」
お母さんは、隙間なんてないくらいに抱きしめてくれていた。そんなことを思い出したら嬉しくて泣いてしまいそうになる。薄い布を捲り上げられ外気に晒された肌が寒くて両手を伸ばすとすぐに温かい温度に触れ、目の前の誰かは息を呑んだ。胸の中にさらさらとした感触のものがある。ああ、きっと誰かの髪だ。やわらかくて、気持ちがいい。
「おかあ、さん」
涙なんて一滴もこぼれていない目元を指先で撫でられ、舌打ちと一緒にぬくもりは離れた。