獅子雷王伝 02


「なんの用だ。どうでもいい用件だったら食い殺す」

 夕食を済ませ、各々が自由に過ごしている時間帯に部屋を尋ねたラズに、レオナは唸った。肉食獣らしい唸りを間近で聞いた彼女の身体は強ばり、処刑寸前の罪人のような表情がなんとも言えず哀愁を誘う。
 真っ赤な太陽は沈み、透明度のある藍色の夜空には星が瞬いている。頬に触れるように過ぎていく夜風は心地よく、故郷の匂いがする。遥か彼方にあるアカシアの木を一瞥し、びくびくと震えている彼女に視線を戻すと縋るような瞳と目が合った。
 怯えながらも、男に対する警戒心はどこかに置いてきたらしい。年齢よりも幼く見えるこの子どもから魔導具を奪って服を剥ぎ取るなど狩りよりも容易い。今は少年に見えていても、魔導具がなければ少女に戻る。それを理解していて、レオナを前にして安心しているのだろうか。無自覚のうちにレオナに気を許しているのなら、あまりにも愚かだ。
 ――レオナが卒業したら、他の寮生が寮長になる。そうなったとき、クロウリーは新しい寮長にも彼女の性別を教えるだろう。その男が、彼女を襲わない保証はどこにもない。

「あの、戦略をお聞きしたくて」
「はあ?」
「キングスカラー……寮長は、城を攻め落とすとしたらどんな作戦を立てますか?」

 いや、おい。予想外すぎる質問に数秒前までの思考は締め出され、レオナは思わずラズを凝視した。一年生の頃にそういった授業を受けた記憶はなく、レポートを提出した記憶もない。そもそも、城を攻め落とす云々は魔法士養成学校の領分ではない。多くの場合は士官学校やその道の大学で学ぶことだ。

「たとえば山がちの土地に城があって、深い森に囲まれているとしたら」
「……今の時代、わざわざ戦争を起こす馬鹿はいねぇ。先進国ならなおさらな。世論の反戦ムードには王様も勝てねぇよ」
「仮定の話です。寮長ならばどんな戦略を立てますか?」
「どんな趣味してんだ、お前」

 上半身を起こし、机上のチェス盤をしばらく見つめていたレオナはキングの駒を手に取り、王冠の部分を撫でた。幼い頃のレオナは魔導書の他にも、あらゆる国、あらゆる時代の戦略が記された歴史書などを好んで読んでいた。多少の脚色や美化が入っているとしても、奇策や奇襲など、歴史に名を刻む名将たちの伝説は物語として十分に興味深く感じたからだ。

「先進国か?」
「貧しい国です。インフラは整備されていて、魔法を使える国民は少ない土地です」
「軍事力はどのくらいだ」

 黒くつるりとした駒の表面を弄びながら、レオナは質問を重ねていく。ある種のシュミレーションゲームのようなものだ。敵の心理を読み解き、策略を巡らせるチェスに通ずるところがある。最初は気乗りしなかったが、こういったゲームは嫌いではない。

「……内戦か? 外戦か?」
「それは……」

 契機は、突然訪れた。やけに返事が遅い。訝しんだレオナが彼女を横目に見ると、血の気の失せた唇が震えているように見えた。いや、一瞬のことだ、見間違いだったかもしれない。

「……いいえ、やっぱり聞かなかったことにしてください。申し訳ありません」
「面白くねぇなァ。俺の時間をなんだと思ってやがる」

 軽口を叩きつつ、レオナは監視の目を緩めない。あの質問で、明らかに動揺していた。何かを掴む取っ掛りにはなりそうだ。
 ラズ。どんな理由で、その偽名を名乗ったのか。いっそ、隠している魔導具を引っ剥がしてやるか。キングの駒を盤上に戻したレオナは、気まずそうに俯く彼女を観察し、匂いを嗅いだ。やはりおかしな匂いはせず、魔導具の魔力も感じられない。得体の知れない未知の生き物だが、初歩的な魔法だけでも、むしろ魔法なしでも仕留められるだろう。生来の魔力量と類稀なる頭脳を危惧され、王宮の魔術師や呪術師に疎まれていたレオナからすれば、彼女は生まれたての仔猫も同然なのだ。

「お前の本当の名前はなんだ。どんな目的があってここにいる」

 振り回されてばかりでは性に合わない。働きに釣り合った報酬は不可欠だ。魔法士の生命線とも言えるマジカルペンを抜きもせずに問うたレオナの雰囲気は、支配者然としていて、背筋を凍てつかせるような凄みがあった。答えるわけが、答えられるわけがない。レオナ自身、無意味に怖がらせている自覚はあった。
 睨みつけられた少女は拳を握り、薄く開いていた唇を閉ざした。まぶたや白目の部分が徐々に赤くなり、大きな目に水の膜が張る。

「……」
「……」

 負けた。負けだ。そう思った。
 レオナの優れた視力は些細な変化も見逃さない。生まれ故郷のサバンナではあんなに重宝していたというのに、どんな変化をも見つける目が、そして結局折れてしまう己が憎い。

「……部屋に戻れ。防衛魔法の復習でもしてろ」

 レオナが先に折れたことは彼女にも察せられたはずだ。悪い子どもを咎める教師のような口調になったのは致し方ない。なんとも思っていなさそうな素振りでベッドに寝転び、レオナは眠たくもないのに目を閉じた。
 閉じたまぶたの奥に月の光が入り込む。乾いた風が頬を流れ、肩のあたりまで伸びた髪に覆われている首裏に落ちてくる。夜は、そろそろブラインドを下ろさなければ寒い時期になってきた。妖精の力によって過ごしやすい環境が整えられている学園の寮でも、夜はいくらか冷える。

「あの、寮長」

 そのうち勝手に出ていくだろうと考えていたレオナの期待を裏切り、彼女は恐る恐るといった調子で声をかけてきた。ベッドに手をついたり無闇に近づこうとしないところは褒めてやってもいいが、見逃されたとわかっていながら逃げようとしないその魂胆を理解できない。

「僕にできることならなんでもします。雑用でもお世話でも、なんだって。だから、僕に防衛魔法以外の魔法も教えてください」

 救いようのない馬鹿だ。同じ台詞を他の男に言ってみろ。いいように利用されて、身も心もズタボロにされるだけだ。忠告ぐらいしてやろうと寝返りを打ったレオナの目に、不相応に強がっている少年が映る。その両目にはもう、弱さは滲んでいなかった。

「いつか、僕の名前も目的もお教えします。でも、まだ……まだ駄目なんです。なんでもします。僕に力をお貸しください、お願いします」

 彼女の瞳は死にかけの獣の瞳に似ていた。死にたくない、生きていたいと願い、足掻く獣の。

「はっ。お前の仕事が、俺の労力に見合うか? 俺が時間を割いてやるだけの価値がお前にあるか?」
「……なんでもします」
「そのなんでもってのは失うもんが何もない奴が言う言葉だ。一人じゃ生きてけねぇお前には――」

 レオナの頭が揺れた。胸倉を掴まれている。この、ヒエラルキーの最下層にいる子どもに。
 音を拾おうとピンと立った耳が過敏に音を拾いすぎているせいで、頭の中がぐらぐらと揺れている。レオナは理解できなかった。牙も爪もない小動物に乗り上げられているこの状況が信じ難い。夢だと言われたほうがまだ納得できる。

「もうすべて失いました……!! わたしは何をされても構いません!! これ以上、失うものなんてない!! だから!! だからッ……お願いします……あなた様の力をお貸しください……」

 最初の勢いは事切れて、啜り泣く声に変わっていた。悲しみと苦しみが形になってラピスラズリのような瞳からあふれ出る。言葉もなく見上げるレオナの頬に涙の雨が降り、染み入ることすらせずに流れていく。懐かしい涙の匂いがした。レオナはもう何年も泣いていないから、そう感じるだけなのかもしれない。
 無理に泣きやもうとして、声がしゃくり上げている。赤く火照ったまぶたと、目の下に浮かぶ濃いくまが痛々しく見えた。

「すみ、ません。こんなこと……罰ならなんでも受けます」
「……とっとと失せろ」

 冷静さを取り戻した彼女の顔色は最悪だった。
 レオナの命令に大人しく従った彼女の、部屋を出る間際に見せた申し訳なさそうな表情が頭から離れない。



 夕焼けの草原で生きる獣人の女たちは自立している。
 ある旅人は言った。「夕焼けの草原の女は気が強すぎる」夕焼けの草原の女は言った。「他所の国の男は弱々しすぎる」
 夕焼けの草原と他国のあいだに横たわる価値観の違いを、皮肉を交えて例にとった有名な話だ。本能を色濃く残す彼女たちは同族同士で助け合うことはあっても依存することはなく、男たちをも従えながら生きていく。そういった生き方や価値観は、今よりも低く弱い立場にあった女性たちにとって希望の光であり憧れの的でもあった。一時期流行ったサバナスタイルと呼ばれるファッションのジャンルも、夕焼けの草原の女性たちへの憧憬とリスペクトが根底にあることを示す好例だろう。
 獣人の女は、肉体的にも精神的にも強い。それを世界に知らしめるほど、彼女たちは強かで美しかった。

「捕らえよ!! 逆賊である!!」

 髪に未だ斑模様の交じる幼獣だった頃、逃げ出した罪人が近衛兵によって捕らえられる様子をレオナは間近で見たことがある。張り上げられた声に重なる唸りと、長槍が激しくぶつかり合う甲高い音は幼ながらに恐ろしく、レオナは小ぶりな耳をぺしゃんと倒し、逆立つ尻尾を身体に巻き付けた。いつの間にやら駆けつけていたらしい兄の背に隠されたはいいが、あの光景は幼いレオナの脳裏に焦げ付き、しばらくのあいだは夢にも見た。肉食獣たちに群がられ、血だらけの有様で顔中を赤黒く変色させた罪人。細腕からは想像もできない重い一撃が肉体を叩きつける音。それらが一気に蘇る夢は悪夢以外の何ものでもない。
 武を極めた精鋭たちに囲まれて育ったレオナが、女には無闇に近づかないでおこう、と心に決めるのは早かった。そうでなくても、並外れた魔法センスと大人にも引けを取らない頭脳を持って生まれたレオナは成長に伴って疎ましがられるようになり、自ら近づかなくとも誰も寄り付かなくなった。
 あの大きな箱庭で、彼は嫌われ者だった。
 第二王子の肩書きとレオナ自身の見目に惹かれて身体を売る女はまあまあいたが、時に残酷に、時に狡賢く振る舞える彼女たちは男よりもよっぽど嘘が上手かった。事実、どの女の「愛している」も見事に感情がこもっていて、涙ながらの愛の告白には素直に感心したほどだ。
 複雑に絡み合った思惑や欲望が入り乱れる王室で育ったレオナは、並の大人たちよりも人の汚さや本質を見てきた。地位と富を欲したキツネに、快楽に狂ったウサギ、他人の才能や見識に嫉妬したヘビ――例を上げればきりがない。だから本心や本性を隠して近づいてくる者はすべてを引きずり出してやった。自分に手を出せばどうなるかわからせてやった。何もかも、わからないことなんて一つもなかった。
 だからこそ思う。本心も本性も透けてこないあの女はなんだ、と。弱いだけの、言い換えてしまえばそこらにいそうな子どもはレオナの胸倉を掴み、悲痛に泣き叫んだ。いくら思考を放棄しようとも、あの叫びが、涙が、何を意味するのか考える頭がひどく重い。
 すべてを失った? 誇張しているようには見えなかった。言葉そのままの意味ならば、家や家族、友人を失ったのかもしれない。十代の少年少女の世界は大抵、己を取り巻く身の回りのことだけで完結している。ああいう、大事にされて育ったであろう子どもが親兄弟や友人を失ったのなら、すべて失ったと絶望してもなんらおかしくはないだろう。
 心身ともに強い獣人の女たちしか知らないレオナは、ラズの脆さを腹立たしいとさえ思う。けれど結局はその弱さと脆さばかりに目を向け、油断して、喉笛に噛み付かれた。レオナに歯向かうだけの勇気はある。裏を返せば、無謀、考えなし、浅はか、でもある。
 頬を伝った涙はもうない。乾いている。指先で頬に触れ、レオナは舌打ちする。

「めんどくせぇ」

 なぜ俺が。考えれば考えるほど理不尽なこの状況に憤りが蓄積し、クロウリーへの不信感が募っていく。彼女のことはクロウリーとレオナだけの秘密らしいが、胡散臭い野郎と秘密を共有する趣味はレオナにはない。面倒事を嫌うクロウリーが率先して面倒事を引き入れ、そして彼の同僚である教師陣にさえ何も知らせていないということは、必ず裏がある。

 ――残念ながら、彼女は君が考えているような人間との繋がりはありませんよ。私も、王室からの不興は買いたくありませんので。

 彼女に裏との繋がりはない。クロウリーのその言葉だけは信じてもいいだろう。危険な吊り橋を無策で渡るほど、あの男は無能ではない。
 探るか、放置すべきか、選択によってはレオナが痛い目を見る。第二王子としての確固たる身分はあっても、十八歳の学生に過ぎないレオナが手をつけられない――手をつけてはならないタブーが、この世には存在するのだ。どこかの国の大統領が暗殺されようと、小さな島で子どもたちが億万長者に売り買いされようと、世界がひっくり返るようなタブーからは誰もが目を逸らし、忘れていく。
 放置すべきだ。俺には関係ねぇことだと割り切って、いつも通りに昼寝して、授業をサボって、何事もなかったかのようにナイトレイブンカレッジを卒業すべきだ。

「おや、これは珍しいお客さんだ。どんな本をお探しで?」
「いい。自分で探す」
「左様ですか。どうぞごゆっくり」

 放置すべきだったと、頭ではわかっている。
 珍しい来客に破顔した司書の男は、頭に乗せていたアンティーク調の眼鏡をかけ直し、カウンターに積み上げられた本の一冊を取った。機嫌よく動き出した本は「ここを読んでくれ」と言わんばかりにあるページを開いて、司書の膝に乗った。
 魔導書専門の司書になるには、国際的な試験を突破しなければならない。本を愛し、本に愛されていなければ合格は難しい試験だ。それを一発でパスして司書の座についた目の前の男は、学生時代はスカラビアの副寮長を務めていたらしい。クラスメイトが口にしていた噂話をなんとなく思い出しながら、レオナは階段を上がった。木製の階段が軋み、古臭い本の匂いが満ちる空間にかすかに響く。バニラの甘い香りに似ている気もするが、古ぼけた紙の黴臭さが鼻について知らず知らずのうちに息が詰まり、レオナの機嫌は著しく悪くなった。
 図書室に他の生徒の気配はない。それもそのはず、今は授業中なのだ。ちょうど一限目が始まった頃合いで、レオナのクラスメイトたちは古代呪文語の授業を受けているだろう。図書室の主たる司書の男は、教師にも生徒にも肩入れせず、基本的には無関心を貫く。この時間帯に、明らかにサボりのていで図書室を訪れたレオナを快く迎え入れたのも、どんな生徒にも「退学するも留年するも自己責任ですからね」とにこやかに笑う男であるからだ。もちろん、教師陣には嫌われているようだが。

「ロスト・マジック……か」

 本棚に隙間なく詰まっている本の背表紙を目で辿り、手がかりになそうなタイトルの本を手当り次第めくってみる。
〈失われた魔法の謎〉
 つまらない学者が書いたつまらない本だ。
〈ロスト・マジックはどこに消えたか〉
 眉唾ものの都市伝説を集めてまとめただけの本だ。
〈ヘンリーとロスト・ワールドの冒険〉
 手応えはない。そもそも児童書である。
 本を手に取ってはページをめくり、戻しては本棚を凝視する。その行為を繰り返すだけの単純作業に嫌気が差してきた。すでに二時間は突っ立っている。手すりに寄りかかったレオナは凝り固まった首を回し、微塵も役に立たなかった本棚を睨みつけた。量が、ジャンルが、膨大すぎるのだ。この調子では、丸一日かけても見つけられないだろう。
 一般的な魔法士養成学校の数十倍の蔵書数を誇るナイトレイブンカレッジの図書室には、深く踏み込んだ専門書や世間には流通していない魔導書が保管されている。教師の許可さえあれば二級から三級までの禁書を閲覧することも可能で、それらを基にレポートを提出したり研究したりすることもできるのだが、いかんせん量が多すぎて目当ての本を探すにも苦労する。そのため、読書を好むレオナであっても図書室の本を利用する課題は嫌いだった。

「何をお探しですか? 禁書? 魔導書?」
「……気配を消すな」

 ぬらりと、影のように姿を現した司書の男は悪びれもなく笑った。獣人のレオナに気取られないよう、特殊な魔法を使ったのだろう。何を考えているのかまったく読めないヘーゼル色の瞳を見下ろすと、男は形だけの謝罪を口にした。

「すみませんね。君が全然下りてこないものだから気になって」
「フン。そりゃあ親切なこった」
「どうやら、ロスト・マジックのことを調べたいようで」

 魔導書専門の司書は本に残った読者の魔力を感知できる。本が語りかけてくるらしいが、本と仲良くするつもりもないレオナには関心も興味も湧かない。
「君が求めるものはこちらですよ」いらっしゃい、と振り向きざまに告げた男は得意げに口角をつり上げ、禁書が並ぶ一角に足を踏み入れた。男の手に提げられたカンテラの明かりが薄暗いそこをぼんやりと照らし、タイトルも書かれていない背表紙がオレンジ色に染まる。

「禁書というのは、魔術の黎明期に作られたものばかりです。彼らは、人工の明かりを嫌う」
「……俺を入れちまっていいのか。クルーウェルにどやされても知らねぇぞ」
「あの坊やも、僕に禁書をせがんだものですよ」
「……テメェはいくつなんだよ」

 さあ。トレイン先生よりは年上とだけ。
 教師の許可があっても、司書の権限なしでは禁書が置かれているエリアには入れない。悪戯っぽく笑った男はレオナを見上げ、カンテラを持ち上げた。ゆらゆらと、不死鳥の尾のように揺れる炎が本を照らす。

「キングスカラーくん。緑の獅子の逸話はご存知で?」

 背表紙に指を這わせながら、男は聞いた。愛しい恋人に触れるような、優しい手つきだった。

「太陽を食らう緑の獅子――錬金術における暗号だ」
「エクセレント。正解です。君ならば、錬金術師たちが暗号を作った理由もご存知ですね?」

 錬金術師。彼らはかつて、大賢者ではなく異端者だった。魔法を使える者とそうでない者が分断され、戦火が燻り始めた暗黒時代、魔法士が生まれる割合が低い土地では非魔法士たちによる魔女狩りが横行していた。「飢餓や疫病、自然災害の原因は魔女や魔法使いたちにあるに違いない」そう決めつけた人々は次から次へと魔法士たちを処刑し、大地を赤く染めたのだ。
 それが時代の流れだった。残酷で、悲惨だった。
 知識を持つ者はことごとく排除されるならばと、当時の魔法士たちは考えた。

「研究を秘匿するためだ。悪用されるのを防ぐためでもあったらしいが」

 暗号を用い、意味が伝わらないようにする。そうすることで、彼らは彼ら自身の命と家族を守った。レオナの言葉を受けて、素晴らしい、と再び口にした司書の男はひょろりと長い腕を伸ばし、分厚い本に指をかけた。華美な装飾もなく、タイトルもない本は放置されていたわりには埃を被っていない。

「ここにある一級禁書のほとんどは、その時代に生まれた賢者が命を賭して作ったものです。内容は魔法によって隠され、選ばれし者にしか解読できないとまで言われています」
「……」
「たった一冊の本のために、賢者は魂と生涯をかけたと言っても過言ではない。ゆえに、この子たちには魂が宿っている」
「……それはロスト・マジックと関係あんのか」
「ええ、おそらく。君は僕に聞きましたね。俺を入れちまっていいのか、と。君がその答えを望むのならば、僕はこう答えましょう」

 カンテラがキィキィと音を立てた。
 無題の本を押し付けられ、レオナは困惑気味に受け取った。封じ込められた魔力がレオナの魔力に反応して小さな火花を上げ、暗がりの中で静かに散っていく。

「一級禁書と呼ばれる書物には僕たちと同じように魂があります。僕たちが彼らを選ぶのではありません。彼らが読む者を選ぶ(、、、、、、、、、)のです」

 背筋が冷えるような感覚だった。耳や尻尾の毛が逆立ち、手袋の下で汗が滲む。レオナを誘うようにゆらゆらと揺らめくカンテラの炎が、先ほどまではなかったはずの文字を照らし出している。

「……噂は本当だったのか」
「僕も驚きましたよ。最初は気のせいだと思いましたが……まさか、生きているうちにお目にかかれるとは」

 レオナは浮かび上がった黄金の文字を見下ろし、指でなぞった。金に彩られた文字はなめらかで、表紙を飾る星図は緻密に描かれている。
 本が読み手を選ぶなど、童話などの創作の物語でしか聞いたことのない話だ。

「君に読まれ、君の知識の糧となることを、この子が望んでいます。珍しいこともあるものだ……。何か、特別な宿命を背負っているのかもしれません」
「まるでフィクションの導入だな。俺に英雄にでもなれってか」
「かもしれませんね。もしくは救世主とか」

 そんなわけねぇだろうが。有り得ないことを口走る司書を鼻で笑ったが、気になるものは気になる。この際、ロスト・マジックやラズのことはどうでもいい。面白そうな本を易々と手放すレオナではないのだ。

「先生方には秘密にしておきますので持ち帰っていただいて構いませんよ。いつかは返却してもらわないと困りますが」

 という司書の言葉に甘え、借りを作ってしまったのは痛手であったものの、好奇心の前では瑣末事であろう。
 図書室の次に訪れた植物園はひとけがなく、温室らしい生温い空気が微睡みを誘う。いつもの定位置に腰掛けたレオナは大木の幹にもたれかかり、本を開いた。予想通り古代呪文語で記されているようだが、見たところ簡単な単語しか並んでいないようだ。目次はなく、著者名も書かれていない。

「……黄金の土地? これも暗号か……?」

 すべての言葉や単語が本来の意味で使われているとは限らない。一見、支離滅裂に思える内容にもキーとなる何かが隠されていてもおかしくない。
 ――黄金の土地にて守護の使徒が蘇り、後継者の血潮により安寧が訪れる。星座は導く。気高き黎明へと。
 禁術を記した禁断の書というより神話に近いのだろうか、抽象的な表現が目立ち、よくわからない絵や図形が描き込まれている。序盤ではレオナが求めるロスト・マジックの記述はないようだが、ただの建国神話にしては引っかかる部分が多い。本に込められている膨大な魔力が、そう思わせているのかもしれない。
 頭をひねらせていると、革靴の足音が響いた。空腹を刺激する肉の匂いと、甘い血の匂いがする。めんどくせぇ奴が来たな、と顔を上げれば、両腕に大量のパンを抱えたラズが立っていた。

「……あ、あの」
「謝ったら食い殺すぞ。わざわざ言いに来たのかよ」
「違います。なんでもするって言ったから……それで、寮長の好きなものを買ってきたんです」
「食いもんで俺を釣ろうってか? つーか、誰から聞いた」
「寮長のクラスメイトの方々からお聞きしました」
「……俺は女に奢らせる趣味はねぇ」

 女、とレオナが言った瞬間、彼女は身体を跳ね上がらせ、こんがりと焼けたパンをばらばらと落とした。

「あ……す、すみません……。新しいの買ってきます」

 今のは失言だった。それは認める。自身の気の抜けように舌打ちをこぼしたレオナは立ち上がり、真っ青な顔でパンを拾い集めている彼女の前に立った。日光が透けるほどに傷んだ髪は指通りが悪そうで、夕焼けの草原の王宮にいた女たちの艶やかな髪を意味もなく思い出した。
 レオナを頑なに見ようとしない彼女は泣くのを耐えている。泣かれても面倒だが、レオナが面倒くさがって鬱陶しがるとわかっているからこそ泣くのを我慢されるのはさすがに心に刺さる。彼女が拾い損ねた、地面に落ちたままのデラックスメンチカツサンドを取り上げて、レオナは先ほどまで座っていた場所に再度腰掛けた。

「あの、買い直してきます。王族の方に落ちたものを召し上がっていただくわけには――」
「いい。汚れてなけりゃ問題ねぇ」
「でも……」
「俺がいいって言ってんだ。テメェは大人しく飯を食え。……ここで食いたきゃ好きにしろ」

 カツサンドに食らいつく前にレオナがぶっきらぼうに言うと、彼女はレオナから一メートルほど離れた位置に座った。やはり、レオナに対しての危機感がないように見える。唯一の、性別を知られている相手だからと気を許しているわけではなさそうだが。
 彼女に泣かれると、どうも痛い。レオナの機嫌を損ねないようにと控えめに行動する健気さも、弱肉強食の世界に慣れているレオナには新鮮すぎて対処に困る。
 ザクザクとした食感の衣に包まれたジューシーなメンチカツを咀嚼し、レオナは青々とした木々をなんの気なしに見上げた。ガラス張りの天井の向こうには曇り空が広がり、地響きのような雷鳴がどこからともなく聞こえてくる。これは一雨ありそうだ。雨の匂いが強まるごとに、午後の授業くらいは出るつもりだったレオナのやる気が萎れていく。

「……さま……お恵に……」

 空を見上げていたレオナの耳が震え、ぼそぼそとした小さな声を拾った。かすかな音を辿ると、指を組んで祈りを捧げている彼女の姿が視界に入った。信仰心そのものがない獣人とは違い、ヒトの社会には宗教が存在する。レオナも知識としては知っているが、改めて目にすると不可思議なもののように思えてならない。
 彼女と目が合う前に目を逸らして、レオナは残りのカツサンドを頬張った。


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