LEFT BEHIND 15


「トレイ……!」

 騒然とする空気の中、焦りを滲ませた声はナマエの耳にも届いていた。星図を届けるために早歩きになっていた歩みを緩め、手すりから身を乗り出している生徒たちが興味ありげに視線を送る方向を彼女もそれとなく見やったが、騒ぎの中心にいる二人を視界に入れた途端に駆け出した。渦中の人物は、ナマエもよく知るトレイ・クローバーとリドル・ローズハートであったからだ。
 先ほど、自身にも聞こえていた声はリドルのものだったのだと気づくと同時に、踊り場でうずくまって右足を両手で押さえているトレイの姿に肝が冷える。彼が足を痛めたことは誰の目から見ても明白だった。
 トレイのそばにしゃがみ、その顔を覗き込んでいるリドルは怪我をしたらしいトレイよりも顔を青くさせていた。そんなリドルに対してトレイはいつもの笑顔を浮かべ、大丈夫だと言おうとしていたが、上手く取り繕うことを得意とする彼が思いきり顔をしかめ、今も立ち上がれずに身動きを取れていない。その時点で、彼の言葉は信用するに値しなかった。それは耐え難い痛みを感じているという、なによりの証拠なのだから。
 己を庇ったトレイが怪我をしたというのに、手当もせずに大人しく引き下がるなんて、付き合いが長いリドルにできるはずもない。しかし、彼よりもかなり上背がある怪我人を連れて保健室に向かうのも難しい──と、考えて、小柄な体躯を恨めしく思いながら眉を寄せていた彼の名前を、男子校には似つかわしくない高い声が呼んだ。
 顔を上げると、常にぼんやりしている、つい一ヶ月ほど前に異世界からやって来た不思議な魔女はトレイと同じくらい顔を青くさせて、星図を抱えて走っていた。
 ナマエ、と呟くリドルとトレイの声が綺麗に重なる。騒ぎを聞き付け、野次馬と化していた周りの生徒たちは身体をずらして彼女に道を譲るが、さすがに一人一人に礼を言うほどの余裕はなく、彼女は二人のほうに視線を向けたまま「ありがとう」とだけ告げた。
 その前髪は走ったことでうしろに流れ、丸く白い額が丸見えになっている。ナイトレイブンカレッジの生徒よりもいくつか大人びているナマエがいつもより幼く見えて、トレイは「意外と幼いな」と場違いなことを考えた。

「怪我をしたの?」
「いや……大した怪我じゃないさ」
「保健室に行きましょう。立てる?」
「ボクも手伝うよ」

 幼馴染であるリドルだけではなくナマエまで加わってしまえば、逃げ道があるわけもない。そもそも、少々強引なところがあるナマエの申し出を断るとおかしな魔法──身体を浮かせる浮遊呪文なり、口答えさえできなくなる失神呪文なり──で強制連行される可能性が高い。そうであるならば、恥を晒しながら保健室まで向かうよりも従っておいたほうが賢明である。
 リドルの手を借りながらなんとか立ち上がったトレイに、彼女は手を差し出した。リドルが首を傾げる一方で、彼女がなにをしようとしているのか察したトレイは少しばかり苦笑いを浮かべ、その指先にちょこんと手を重ねた。異性に思いきり触れられても嫌だろう、という配慮が半分、他の生徒に関係を勘違いされてしまったら申し訳ない、という思いが半分だ。

「これじゃあ危ないわ」
「危ない?」

 彼女が頻繁に行使する“姿現わし”は、術者に掴まることで“姿現わし”を使えない者も移動ができる便利なものだ。けれど裏を返せば、いわゆる“付き添い姿くらまし”は術者にしっかりと掴まっていなければ身体がばらけてしまう危険もある。ナマエとてトレイの思いやりは理解していたものの、指先と指先が触れ合うだけでは些か頼りなく、最悪の場合、彼の身体の一部がその場に残ってしまう。彼女とて、恋人ではない異性の手を無遠慮に触るなんて申し訳なく思うが、怪我を診てもらうために保健室まで行くというのに身体がばらけてしまっては元も子もない。ごめんなさい、と小声で口にした彼女は大きな手をしっかりと握り直し、肩をかすかに揺らした彼に頼りない笑みを向けた。
 そんな二人の様子を観察するばかりで一向に触れようとしないリドルに、ナマエが口を開く。

「リドルも腕を掴んで? 歩くよりこっち(、、、)のほうが早いわ」
「こっち……? なるほど、キミの移動魔法は術者に触れることで他の者も移動できるのか」

 トレイとナマエのやり取りから、リドルは彼女が行使しようとしている魔法に当たりをつけていた。
 瞬間移動のような異世界の魔法──“姿現わし”を何度か間近で見ていたために特に抵抗感を覚えることもなく「失礼するよ」と告げてその腕に掴まった。すると、バシッという大きな音と身体を巡る奇妙な感覚が力を緩ませる。けれど、力が緩んだのも一瞬のことで、思わずナマエの腕を掴み直した頃には保健室にいた。

「び、びっくりした。どこから来たんだい、君ら」
「驚かせてすみません、先生」
「いや、それは構わないが……怪我人は君かな?」
「はい」

 いきなり姿を現した三人に腰を抜かしたらしい養護教諭は頭に浮かんだ疑問を口にしながらも、それ以上の答えは求めず、足を引きずっているトレイに肩を貸して近くの椅子に座らせた。ああこりゃ結構酷いね、と、触診しながらぶつぶつと言う彼にリドルの顔がまた不安げに翳る。しかし、診察の邪魔をするわけにもいかない。口を噤む彼の表情は、どこか子どもっぽい、泣きそうなそれだった。
 ナマエが知っているのは、トレイが怪我をしてしまったという事実だけだ。トレイは足を滑らせるような青年ではないとわかっているし、なにがあったのかはそれとなく予想できているけれど、明らかに顔色が悪いリドルに無闇に声をかけるのも気が引ける。

「……」

 元々、彼女は口数が多いほうではない。このまま保健室にいたって、リドルを元気づけられる言葉は思いつかないだろうとわかっているからこそ、口下手なこの性格を恨みがましく思う。エースやデュース、そして監督生のように、彼らと気兼ねなく言葉を交わせるほど親しいわけでもない。そうであるなら、なにも告げずに消えたほうがいい気がした。
 上手く話せない自分とは違って親しく笑い合える彼らを、一歩引いたところから見つめては疎外感を覚えることはある。しかし、どうしても越えられないラインはずっとあるのだ。あの日、あの場所で、味覚がないことをトレイやケイト、デュースに知られてしまったとしても、彼ら三人の前で涙を見せたとしても、両者のあいだには埋められようもないほどに深く大きな隔たりがあるのだ。
 だって、死んでいるのだから。ちゃんと生きている彼らとは根本的に違うのだから。この世界にやって来る直前に、普通ではなくなったのだから。
 
 ──この者の魂は死んでいる。形も、色も、温もりもない。一切の無である。

 闇の鏡はそう言った。けれど、ナマエは思う。魂が死んでいると言うのなら、ここで生きている肉体はいつ死ぬのだろうか。
 どこに行っても一人ぼっちになる気がして恐ろしくなり、生きているのか死んでいるのかもわからないこの状況で現実逃避ばかりしている自分が愚かしかった。
 もう、家族には一生会えないであろうことはわかっているくせに、いつかは元通りの生活が送れるのではないかと心のどこかで思っている。もしかしたら、死んだことも今感じている不安も、全部悪い夢が見せる幻なのではないかと、偶像的で無意味な希望を抱いている。
 だけど、現実は残酷だ。ナマエの五感には異常が生じている。食事や睡眠、排泄といった、生命が生きる上で必要な機能は、死んだあの日から一切途絶えている。
 食べなくても生きていけるなんて、まるで化け物のようだと彼女自身でさえそう思う。他の人間からすれば殊更おかしく映るであろう重大なその欠陥は、あまりにも現実離れしている現実だった。

 ナマエ・ミョウジは確かに死んだ。
 イギリスで、1998年の5月2日に。本来ならば今頃、生まれ故郷のほど近く、ディストワープ通り23番地からそう遠くはない墓地で眠っているはずだっただろう。

 優しい母は泣き、真面目な父は途方に暮れ、生意気な弟は寂しがっているだろう。そんなこともわかっているのに、現実と向き合えない薄情な弱さが胸の内にずっとある。
 もう一度死ぬことはきっと怖くない。だけれど、いつかは訪れるかもしれない彼らとの別れを考えると冷たい血の流れる身体がいっそう冷たくなる気がした。

「……」

 結局なにも言わないまま、ナマエの姿は消えた。星図を教師に届けなければならない──そんな言い訳を添えて、彼女は保健室から姿をくらました。


  ◇


 黒。
 見事な羽が揺らいだ。

「おや、ここにいましたか。探しましたよ」
「……クロウリー先生」
「貴方にお願いがあったのですが。ふむ、どうやら元気がないようで」
「少し考え事をしていただけです」

 おやおや、そうですか、若者は悩むものですからねえ。
 なにを考えているのかもわからないマスクの向こうで笑う気配がしたが、ナマエも愛想笑いを返し、ベンチから立ち上がった。クロウリーがわざわざ「探した」と言うことは、それほどに彼女に任せたい仕事があったのだろう。
 彼女の下手くそな笑顔を気にもとめず、血色が悪くも見える唇は舞台上の道化師のごとく緩やかに弧を描く。
 誘い、迷い子の手を引くように。
 黒い羽は相変わらず揺れている。

「ひとつ、監督生くんと調べていただきたいことがあるのです。ミス・ミョウジもいれば彼らの力になるでしょう」


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