LEFT BEHIND 16
マジカルシフト大会を前に、怪我人が奇妙なほどに増えている。
元気な少年たちが集団で生活しているんだからまあそういうこともあるよね、と片付けられるような軽い案件ではないらしく、クロウリーの要請により監督生と協力せざるを得なくなったナマエは肩を落とした。監督生に非はない。ナマエが勝手に疎外感を覚えて、勝手に悲しくなっただけだ。たったそれだけのことで監督生を邪険にするなんてできっこないし、ましてクロウリーからの依頼を拒否することもできない。
生徒たちの目撃情報によれば、監督生は慌てた様子のデュースに連れられてハーツラビュル寮に向かったらしい。おそらく、デュースはトレイの怪我のことを知らせるためにオンボロ寮までやって来たのだろう。決して薄情になれないところがデュースらしくて、それが彼の持つ美徳でもあると思う。
真面目そうな、大人びた顔立ちをしていても中身はまだまだ幼いデュースのことを思い出し、ナマエの口元に笑みが広がる。彼の、クルーウェルのモノマネはなかなか完成度が高い。思い出す度に笑ってしまいそうになる。
思い出し笑いはあまり他人に見られたくない。ナマエは素早く表情を取り繕い、生徒が行き交う鏡舎に入った。広々した空間は七つもの鏡が並び、その表面は波打っている。
「あ、ナマエさんじゃん」
ひとまずハーツラビュル寮に向かうと、薔薇を赤く塗っていた一年生が気を利かせて話しかけてくれた。「寮長たちなら談話室にいますよ」あとオンボロ寮の監督生も、と続けた彼は心做しか表情を曇らせた。頼りになる副寮長が怪我をしたとなれば、気分も落ち込むものなのだろう。
「教えてくれてありがとう。わたしも入っていいとも思う?」
「いいと思いますよ〜。他寮の人らもズカズカ入ってるし。寮長もルール守れば怒らなくなったし」
そうなの、と首を傾げて、ナマエは前を向いた。どちらにしろ、監督生とは協力すべきだ。ここで二の足を踏んでいたって大した時間稼ぎにはならない。
扉を開け、以前訪れたときと同じように談話室を目指す。曲がった床や不思議な装飾品は変わったものばかりだ。内装を見るためにここに来たんじゃないんだから、と言い聞かせて廊下を歩く。つい魅入ってしまっていた自分自身に呆れつつ、扉に手をかけた。
ナマエが開ける前に、扉は勝手に開いた。
「あれ、ナマエちゃん」
「なにかあったのかい?」
ケイトとリドルは両者ともにまったく違った反応でナマエを出迎えた。彼らのうしろには監督生とグリム、エースとデュースの見慣れた顔ぶれが揃っている。これからどこかに行く予定らしい。
「キミ、なにも言わずにいなくなるから心配したじゃないか」
少し機嫌が悪いらしいリドルの言葉は僅かに刺々しく、ナマエの心にちくりと突き刺さる。
「ありがとうも言わせてくれないなんて……」
「そんなのいいのに」
「トレイだってキミのこと心配――ああ。もしかして、学園で多発してる事件のことでここに来たのかい?」
リドルの推測は当たっている。雑用係であるナマエが学生寮を訪れるのはきちんと理由があるときだけだ。加えて、学園内で謎の傷害事件が多発しているこのタイミング。頭の回転が早いリドルにわからないはずがない。
「ええ、そうなの。手伝えることはある?」
「う〜ん、でも今回は危ないんじゃない?」
ナマエの答えに難色を示したのはケイトだった。顔の横に垂れた髪を指先でいじりながら気まずげに視線を落とした彼は、苦笑を浮かべている。リドルもケイトと同意見らしく、細い腕を組んだまま頷いた。
「怪我人も出ているからね。ナマエは確かに魔法を使えるけれど、それでも危険だ。キミを危険な目に遭わせたくない」
真剣な眼差しでナマエを見つめるリドルを茶化す者は一人としていなかった。ケイトですら真面目に頷いていて、エースもデュースも一切反対しない。おとぎ話に出てくる王子様も真っ青な過保護っぷりにさすがのナマエも驚いてしまう。
「……前々から思っていたけど、あなたたちって女性に甘いのね。弱いとでも思ってる?」
監督生とグリム以外のメンツが不思議そうに瞬きを繰り返すなか、ハイ、と馬鹿正直に答えた男がいる。デュースだ。歯に衣着せない物言いを日頃からしているエースならともかく、デュースが真っ先に頷くとは思いもしない。当たり前じゃないか、とも言い出しそうな、至極平然とした口調にナマエのほうが後ずさりしてしまう。
いや確かに。確かに、生徒に絡まれて困っていたところをデュースに助けてもらったことはある。けれど、年下の少年に面と向かって「弱いと思ってます」という言葉と同義の反応を示されるなんて、あまりに情けない話だ。
ホグワーツは、気に食わない人間がいれば相手が男であろうと女であろうと、上級生であろうと下級生であろうと攻撃するような生徒が多かった。挙句の果てには教授や寮監に対しても、である。だからどうしても、リドルたちの振る舞いは甘やかされているように感じる。女だからと下に見られているわけではない。ただ、女の子だから守ってあげないと――という思いはひしひしと伝わってきて、今まで生きてきた世界とのギャップに戸惑う。もしかして、ホグワーツのほうが治安が悪いのだろうか。容赦なく《
「わかったわ。お気遣いありがとう」
彼らがナマエを弱いと思っていて、保護の対象だと思っているのなら安易に行動を共にすべきでない。一番に優先すべきは彼ら自身の身の安全と、事件解決。このふたつだ。そこにナマエというイレギュラーが加わって優先順位が変わるなんて、あってはならない。彼らが本領を発揮できなくなっては困る。
冷静な判断ならできる。だけど少し寂しい。彼らに、ナマエを仲間外れにしようという幼稚な意図はない。ないからこそ、不満は口に出せなかった。デュースがハイと頷いたのだって、不良に絡まれて震えていたナマエを知っているからで、そこに侮蔑はない。
本当のことだ。ナマエが弱いのは。
大きな音でなければ聞き取れず、視力も以前よりぐっと落ちた。温度や痛みもわからない。欠落してしまった人間らしさはナマエをより弱くさせていて、魔法すら使えなくなれば魔法を使えない監督生よりもずっと弱くなるだろう。
「どうしたんだ、お前ら。そんなところで」
松葉杖で歩いてきたらしい。振り返ったナマエの目に、片足に重心を傾けてどうにか立っているトレイが映る。治療を施されていると言っても、すぐに治せるほど魔法は万能ではない。ナマエは痛々しいその有様に眉を寄せた。
「トレイ。部屋で安静にとあれほど……」
「まーまー、リドルくん。少し動くぐらいなら問題ないって先生に言われたんでしょ? 少しくらいなら大丈夫だって。あんまり歩き回るのはどうかと思うけどね〜」
ケイトはしかめっ面のリドルを易々と宥めた。そうそう、と頷くトレイをリドルのじっとりとした目が見つめているものの、気づかないふりをしているのか、彼らの目が合うことはない。
「リドルは心配のしすぎだよ。あと、ナマエ」
「わたし?」
「ああ。ちょうどよかった。渡したいものがあるから来てくれないか?」
用事はいいの? とナマエが聞く。わざわざ談話室近くまで来たのなら、なにか用事があったと考えるのが妥当だ。それとも、ナマエのほうを優先しただけだろうか。
「薬まで持ってきてもらって悪いな。適当に座ってくれ」
ベッドに腰掛けるトレイは苦笑いを浮かべると、“姿現わし”たナマエから痛み止めを受け取った。
様々な薬や消毒液などが入った救急セットは談話室に置いてある。リドルたちが寮を出る頃を見計らって入った談話室は誰もおらず、救急セットはトレイの説明通りの場所に置かれていた。
「リドルは今頃勉強してると思って部屋を出たんだが……失敗だったな」
リドルが更に心配すると思って、本人の前では「痛み止めを取りに来た」とは言えなかったらしい。錠剤二錠を水で飲み込み、トレイはベッド横の机にコップを置いた。
「渡したいものって?」
「実はないんだ」
「ない……?」
「監督生がお前を心配そうに見てたから、なにかあったのかと思ってな。なんとなく、あいつらと離してやったほうがいい気がしたんだ」
「そんなこと……」
あとは続かなかった。
「なんでもない。あ、クッキー焼いたの?」
強引に話題を逸らしたナマエを追求することもなく、トレイは「昨日な」と答えた。机の片隅に置かれているクッキーは透明な袋に包まれていて、シンプルな見た目ながらおいしそうだ。プレーン味とココア味のそれは、どれもかわいらしい形をしている。
「食べるか? あー……いや、忘れてくれ。すまない」
「気にしなくていいのに」
失言だと思ったらしいトレイの表情が曇る。今のところ、味がわからなくて困ったことはない。だから心配は無用だ。トレイの優しさや気遣いは有難いが、飢えも渇きもないナマエには、なにかを口にするというのは無意味な行為なのだ。
「あ、でも……」ナマエはオクタヴィネルで食べたケーキを思い出した。あの時はなぜかケーキの甘さがわかって、舌が痺れるような感覚がした。
「フロイドが食べさせてくれたケーキは味がしたわ」
「フロイド? いや、それより、味がしたって」
「わたしもわからないけれど……甘かった気がする」
「……食べてみるか?」
「いや……でも」
渋るナマエの前にクッキーが差し出される。ご丁寧にリボンまで外されて、匂いはわからないのにバターの匂いが漂ってくる気がした。一枚だけならいいかしら。考えて、逡巡する瞳をトレイに向けると、彼はナマエの手のひらに袋を乗せた。クマやウサギ、猫の形のクッキーは愛らしい。
「試してみてもいいと思うぞ」気持ちが揺らぎ始めているところにとどめをさされ、ナマエの指が恐る恐る猫型クッキーを摘んだ。少し驚かせただけでもクッキーを落としてしまいそうなその様子はあまりにも頼りなくて、親の言いつけを破って叱られた子どものようだった。
いや、そこまで慎重にならなくても。
思わず出そうになった言葉を飲み込み、トレイは見守る。小さく、ほんのわずかに開かれた唇がクッキーを食んだ。審査員を前にして、今まさに料理を評価されんとする料理人の気持ちがトレイにもわかった。この緊張感はただ事ではない。クッキーが割れる音に心臓が逸り、手のひらに汗が滲む。
ナマエはなにも言わない。やがて細い喉が震え、飲み込んだことを知る。
「……どうだ?」
しばらく、返答はなかった。これはやっぱりわからなかったか――半分諦めかけたトレイの目に、水滴が落ちていくのが見えた。絶え間なく落ちる雫はナマエのローブを濡らしている。
泣く姿を見るのは二回目だ。そんなに不味かったか、或いは、或いは無理強いをしすぎたか。凄まじい勢いで回転し始めた頭は、目の前の女の子を泣き止ませる有効な方法を教えてくれるわけでもなく、焦りだけが冷たく背中を流れた。
「おいしい……」
「え?」
「おいしい。……おいしい……」
涙がまたこぼれていくのも気に留めず、ナマエは齧りかけのクッキーを口に放り込んだ。噛んで、飲み込んで、ようやく涙を拭った。数秒だけトレイを見つめていた目は恥ずかしそうに逸らされ、居心地が悪そうに伏せられる。
「味がわかるのか?」
「……そうみたい」
おいしい、と小さな声で呟いたナマエはやはり恥ずかしいのか、クッキーの袋を見つめている。
自分が作ったものを心の底からおいしいと言われて、嬉しくならないはずがない。思わず、本意ではないところで、トレイはナマエをかわいいと思ってしまった。恋愛感情ではない。たとえば小さな子どもに向けるそれだ。断言してもいい。彼の心にあるのは親心に似た感情だった。
「なら、それやるよ」
今のでぐっと来ない男を探すほうが難しいだろ、と言い訳をしながら、トレイはいつものように笑った。
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう。嬉しい」
ナマエはトレイからリボンを受け取ると、袋に結びつけた。いきなり味がわかるようになった理由はナマエにもわからないが、トレイの作ったクッキーはオクタヴィネルで食べたケーキよりも甘くて、バターの味がした。匂いや風味まではわからなくとも、クッキーはちゃんとクッキーの味がして、驚くほど甘くて、ただおいしい。
クッキーを、こんなにもおいしいと思ったこともないだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫。恥ずかしいからあまり見ないで」
甘くて優しい味が舌に広がった途端、懐かしさと嬉しさが涙になって込み上げ、感動のあまりトレイがいることも忘れて恥ずかしいところを見せてしまった。トレイとは同い年のはずだ。なのに、妹を見るような目で見守られている気がして恥ずかしい。