dear dear

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 声をかけようと思ったが、話し込むふたりは何やら剣呑な様子である。もしや今日の視察の評価をまとめているところか。だとしたら、その反応はあまり芳しくないように見えた。
 いても立ってもいられず、クレスツェンツは大股で歩き出していた。兄が余計なことを言っているに決まっている。あいつを追い払って陛下と二人で話をしよう。
 廊下の角を一回、二回と曲がる内にクレスツェンツの表情はどんどん険しくなり、ほどなくして王と兄は石床を打つ高らかな足音に気がついた。
 彼らは肩を怒らせて現れた姫君を驚きに満ちた目で凝視したあと――王はついと顔を背ける。その肩がかすかに震えた気がするが……もしかして笑った?
「――――ツェン!! まったくお前は、そのはしたない格好で陛……殿の御前に!」
(格好? 格好――あ)
 不可解な王の反応に毒気を抜かれたのも束の間、兄が怒鳴るので彼女は思い出した。病気とは思えないやんちゃ坊主の患者に、スープを引っかけられたエプロンを着けたままだったのだ。
「ああもう、こっちに来なさい!」
「脱ぎます! ちゃんと脱ぎますから!」
「そういう問題じゃないっ!」
 今度は兄が邪悪な妖精もかくやという形相でクレスツェンツのほうへ迫ってきた。
 捕まったら馬車に乗せられて屋敷へ強制送還される。王の手前、さっとエプロンをはずして居住まいを正したいところだったが、ふわふわの髪に引っかかってひとりでは脱げないので、クレスツェンツはまず逃げることを優先した。
 こんなこともあろうかと(単に作業がしやすいようにと)かかとの低い靴を履いているのである。多少は走れる。
 兄が伸ばした腕から逃れるため、クレスツェンツがきびすを返した瞬間――
「テオ、よい」
 低く落ち着いた、心地のよい声が廊下に響いた。
「姫と話をする」
「しかし……」
 王を振り返った兄がどんな顔をしたのかは分からない。だが、王の目配せひとつで彼は引き下がらざるを得なくなったのは分かった。
 ああ、この方は本当にこの国の主なのだ。他者にこうべを垂れることなどない兄がしずしずと叩頭する。

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