dear dear

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「おお、怖い。でもね、ツェン。人々の視線がお前に集まるのも道理だよ。ちょっとは外聞を気にして自重したらどうだい」
 テオバルトは猫のように目を細める。口許は悪戯っぽい笑みに歪んでいるが、彼のまとう空気は瞬時に冷ややかになった。
 クレスツェンツも杯を下ろし、同じくらいに冷たく視線を凍らせて兄を見つめ返す。
 兄妹の間にあった気安さは一瞬にして掻き消え、二人の間で青白い火花が散った。
「だから、兄上には言いたくなかったのです」
 クレスツェンツが呟くや否や、初夏の夕陽が二人を隔てるように居間へ射し込んだ。
 昼が燃え尽きようとしている。色々なことのあった一日が終わる。
 兄との睨み合いをやめ、今は淡い橙色に染まる窓の外を眺めて、クレスツェンツは長い溜め息をついた。
 やめよう。今日は祈らねばならない日だ。若くして命を散らした友人のために。
 自分へ向けられた批難の声に怒ったり嘆いたりしている場合ではない。
「着替えて参ります」
「ん、そうだね。夕食を食べながら飲み直そう」
「いいえ、今日はやめておきます」
 不満げに唇を尖らせる兄を横目に、クレスツェンツは半分ほど杯の中身を減らして立ち上がった。
 自室に戻り、侍女に囲まれながら喪服を脱ぐ。入浴を催促する彼女たちを下がらせると、クレスツェンツはむしゃくしゃした気分を紛らわそうと愛用のクラヴィアの前に座った。
 しっとりとした艶のある鍵盤に指を並べれば、いくらか心の波が静まった。
 指が自然に動き出すほどに弾き込んだ曲、葬送の旋律を、彼女は奏で始める。
 今日はエルナのために。
 永訣を悲しみ、死者の魂が天上で安らぎを得ることを祈ってクラヴィアを弾く一方、彼女は頭の半分で別のことを考えていた。
 外聞を気にしろ、という兄の言葉だ。
 すでに政の世界に関わる兄にとって、姉妹など政略の駒に過ぎない。のびのび育てられたとはいえ、それが貴族の習いであることはクレスツェンツも理解していた。
 そして彼女はその駒として王家へ送り込まれることが決まっている身だった。
 数年のうちにクレスツェンツは王家へ嫁ぐ。即位の翌年に妃を亡くした国王の後妻に内定しているのだ。

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