dear dear

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 クレスツェンツの周りからあらゆる音が遠ざかった。
 なぜここへ来たんだっけ。彼女は思い出そうとした。
 アヒムから手紙が来たからだ。手紙には、村の大変な様子が書いてあって。
 彼をどうしても助けねばならない。いや、助けたい。そう思ったからだ。
 身体中から力が抜け、ふわふわと浮き上がりそうな心地だった。
 ああ、夢中になってここまで来てしまったが、たったひとりの友人を救いに行くなんて、王族としてやってはいけないことをした。しかも、間に合わなかったなんて。
 今更になって、夫や貴族達がクレスツェンツの南部行きを反対した理由が身に沁みてくる。
 クレスツェンツが動くときには、一緒に大勢の人間が動く。王都から連れてきた医師、侍女、騎士たち。こんな辺境にまで同行させて、それも手遅れだったとなれば、なぜ彼らにこれほどの危険を冒させたのか分からない。
 何をしに来たのだろう、わたしは。
 クレスツェンツは、もう一度アヒムの頬を撫でた。安らかに眠るような最期の顔だが、彼はこの故郷の村で壮絶な恐怖と戦っていたはずだ。
 その証拠が、彼が背に敷いている血溜まりの跡だった。
 アヒムは疫病で死んだのではない。
 殺されたのだ。
 ふつり、と胸の奥深くで何かが切れ、クレスツェンツの思考は途端に醒めていく。
 村には外から大勢の人間が押しかけていた。目的はアヒムの手紙に書かれていなかったが、恐らくユニカの血≠セ。
 古くの噂を知っていた者や、導師が刺殺されかけたにも関わらず一命を取り留めたという事件の噂を聞いた者が、救いを求めてやって来た。
 アヒムはそうやってユニカの力を求めてきた者たちに、決して娘を差し出さなかっただろう。代わりに同胞を呼び寄せ、村を治療拠点とすることで押し寄せる人々を平等に看護し、彼らの心を宥めようとした。
 しかし、いつまでも上手くゆくはずがない。アヒムらが必死に看病しても、死ぬ者は死ぬ。それもかなりの確率で、苦しみ抜いた末に。
 正気を保てなくなる者もいるだろう。そうした者がいつかユニカを力ずくで奪おうとしたら――アヒムの流した血を見るに、クレスツェンツが恐れたとおりの事態が起こった可能性が高い。

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