天槍アネクドート
ルピナスの迷走(6)
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 彼女はドレスの裾が捲れるのも構わず机によじ登り、向かいの席に座るアヒムの胸ぐらを掴む。
「お前ぇぇ! わたくしがっ寝ずにっ、あちこち省ける無駄を探して! でもどうしても足りないしわたくしに自由に出来る金など王家にはないし! ちょっと誇大解釈して宝石を売るのがどれだけ後ろめたかったか分かるか!? それでも幼気な少女とお前の約束を破らせてはいけないと思って……! このっこのっ! 紛らわしい発言をするな阿呆!!」
「ち、ちょっと待って下さい! いたたっ」
「だいたい前からムカつくと思っていたのだ! なんだこの女みたいにツヤツヤな黒髪は! わたくしの赤毛と交換しろ!」
「痛い! 子供みたいな癇癪を起こさないで下さい! 髪色なんて今関係ないし……うわ! 脚! 瓶を蹴らないで下さい! というか机から降りて!」
 前髪をひっつかんできたクレスツェンツの手を懸命に剥がそうとしていたが、やがて彼女の勢いに負けたアヒムは、押し倒されるまま椅子から転げ落ちた。



「いいですか。陛下のお耳に入っていてもいなくても、一度は宝石を売ってしまったことを正直にお話しするんですよ」
「お前に謝ろうという気は少しも無いのか」
「どのあたりに僕が謝らなければいけない理由があるのか、説明していただきたいものですが」
「勘違いを招くお前の発言がすべての元凶だと言うことをまだ分かっていないようだな」
「勘違いしたまま張り切って、一人でみんなを喜ばせようと突っ走るからこうなるのです。確認するなり相談するなりして下さればいいのに……」
 アヒムはクレスツェンツの額に出来た瘤に軟膏を塗りながら、内心は冷や冷やしていた。彼女のこの怪我の理由が明るみに出たら、自分が処刑されるばかりか故郷の父や同じ“グラウン”を名乗る同胞たちにも迷惑がかかりかねない。
 が、彼女はそのことでアヒムを脅迫しようとはちっとも思っていないようで助かる。怪我をした経緯もうまく誤魔化してくれよう。もともと、怪我についての責任は絶対にクレスツェンツにあるのだから。
「だって、お前もこのところ忙しそうだったんだもの。本当に導師になるつもりなのか? 修行に入るのは、大学院を出てからでもいいのでは」
 今度はクレスツェンツがアヒムの額に薬をすり付けながらぼやいた。
「卒業したら、村へ帰るというのが父との約束です。それまでに祝詞の歌い方や主要な儀式の手順は覚えておかないと……」
 ふぅんと相づちを打つクレスツェンツの声は、どうしても沈む。
 彼女の友人は、この春から大教会堂の導師の下につき、大学院の授業と施療院の手伝いの合間を縫って僧侶になるための修行を始めてしまった。今回のケーキ騒動は、あの菓子が子供の頃からの好物であるというアヒムの労をねぎらう意味も、実はちょっとだけあった。

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