天槍アネクドート
ルピナスの迷走(7)
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 彼と出会ったときから、彼がそう遠くない内に都を去ることは知っていたが、まるでこれ見よがしにそのための準備を始められたようで面白くない。いや、彼は紛れもなく帰り支度を始めたのだ。七年あまりを過ごした、この都を去るための準備を。それはまだ、数年先のことではあるけれど。今までともに過ごした年月を思えば、この先の数年も同じようにあっという間だろう。
 彼が都を去るまでに、自分はどこまで進めるだろうか。彼が、この先もクレスツェンツの傍で、クレスツェンツの夢を支えていきたいと思えるほどの姿に、施療院を変えられるだろうか。
 ああ、こういう考え方はずるい。彼が憂いを残すことなく都を去れるように、と思わなくては。
「急がなくてはな……」
 薬を塗ったアヒムの額に綿布を押し当て、クレスツェンツは大きく息を吐いた。
「急ぐって、何をです?」
「宝石を売ったことがバレる前に陛下に白状し、怒られ、ついでにちょっと議論してくる。法を作るにはどうしたらいいのだろう。わたくしも王妃歴二年だからな、政治のことは、まだ必要最低限の知識があるばかりだ。ここはやはり、国の父を味方に付けるのがよい」
 軟膏で濡れた自分の額も綿布で押さえ、クレスツェンツはにたりと笑う。
「陛下が理解を示して下されば何よりです。これ以上ない後ろ盾になります」
 笑い返すアヒムが、どことなく寂しげだったことに王妃は気がつかなかった。自分を呼ぶ侍女長の声が聞こえてきたので、びくりと肩を震わせ振り返る。
「うう、侍女長め、怒っているぞ……」
「早く行ってあげて下さい。彼女もお仕事なんですから」
 一緒に額を押さえている姿を見られるのは何となくまずい気がするので、クレスツェンツは仕方なく先に席を立った。
「では、またな」
「ええ、また」
 素っ気ないほどの挨拶を互いに交わすと、彼女は踵を返し調合室を出る。明日か、明後日か、五日後か、それでも「また」と言うだけで、この友には会うことが出来る。
 いずれ惜しみに惜しんで彼を都から送り出す日が来たとき、やっぱり彼が、都を離れ難いと思ってくれればいい。
 それも、クレスツェンツを突き動かす思いの一つであることは確かだった。





(20131204)

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