天槍アネクドート
ルピナスの迷走(3)
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「ぁぁ、だからぁ……まぁ大丈夫な範囲でなんとかやったのだ。美味しかっただろう? ケーキ」
 クレスツェンツは、じっとりとまとわりついてくる友人の視線から逃れるため、知らずの内にじりじりと後退っていた。そして内心後悔する。以前、アヒムには施療院の資金繰りに関する書類をちらりと見せたことがあった。どうせ彼には帳簿など読めないだろうと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。いや、大きな寄付があったばかりだったので、上機嫌でちょっと解説してしまった記憶とかがあったりする。酒も入っていたので尚更ぺらぺら喋っていた気もする。
 自分の軽薄さも恐ろしいが、もっと恐ろしいのはアヒムがその内容を覚えていたことだ。ねちっこい奴め。そして勘のいい奴め。更に彼は潔癖な性格なので、“バレては”非常にまずい。
「さて後片付けも終えたようだし? わたくしもそろそろ城へ帰るとしよう。陛下にも今日のことをご報告せねばならない。またな友よ」
 もう少し友人と他愛のないお喋りをしてから帰るつもりだったクレスツェンツだが、どうも今日は、彼と“他愛のないお喋り”をするのは難しそうだ。よって、早々に退散するのが宜しかろうと、彼女は方針を改めた。しかし、
「クレスツェンツ様」
 踵を返した彼女は、うっと生唾を飲んで立ち止まった。
 クレスツェンツが王家に嫁いでから、アヒムは彼女のことを名前では呼ばなくなった。当然のことだ。クレスツェンツは、この国の君主の妻、そして共同統治者となったのだ。如何に親しい友人でも、名前を直に呼ぶことなど本当なら許されない。しかしそれでは寂しかったので、せめて周りに気兼ねする者がいない時は名前で呼び合おうとクレスツェンツが言っても、アヒムはそうはしてくれなかった。普段なら。
「座って下さい。どうぞ、そちらに」
「いや、うーんと……」
「お座り下さい、クレスツェンツ様」
「うう……」
 彼がクレスツェンツの名前を呼ぶのは、真剣に話し合いたい時だけだ。他愛のない立ち話のために、彼は王妃の名前を呼んだりはしない。



 一体何がケーキに化けたのかを説明したところ、アヒムは頭を抱えた。クレスツェンツが予想していた反応と多少違う。問答無用で怒られるかと思っていたのだが、彼は頭を抱えて俯いたまま、しばらく何も言ってくれなかった。
「そ、そんなにお前を悩ませることもしていないと思うのだが……というかあんなの、わたくしのポケットマネーの内だよ。な?」
「どこが、ですか!」

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