天槍アネクドート
麗しきあめの下(2)
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「じゃあ、十一時に出発ですから。支度をしてくださいね、伯爵様」
 姉の言葉をほとんど無視し、ディディエンはとことこと軽い足音を立てて出ていった。
 言い置かれた時刻をそばにあった置き時計で確かめると、エリュゼは思わず椅子を蹴倒して立ち上がる。もう三十分しかない。
 大切なユニカのお土産録を抽斗にしまい、エルツェ家の女中を一人捕まえて大急ぎで着替えを手伝って貰う。日傘の代わりにつばの広い帽子を引っ掴んで玄関へ向かったが、馬車はいなかった。
 いたのは愛馬を従えたクリスティアンだけだ。ディディエンの姿もない。
「あの、妹は?」
「ディディエン殿も一緒に行かれるのですか?」
 帽子を被りながらエリュゼが尋ねると、クリスティアンからは素朴な質問が返ってきた。
 エリュゼはぽかんと口を開けて彼の顔を見つめ返し、数呼吸ののちに妹に謀られたことを悟った。


 
 クリスティアンは、エリュゼからの誘いだとディディエンに言われたらしい。
 エリュゼが聞いた話ではクリスティアンからの誘いだった。そして、よくよく思い出せば三人で出掛けるとも言われていない。
「申しわけありません、あの子ったら、こんなしょうもない嘘を……」
「いいえ。ちょうどよかったと思います。伯爵のお母上には改めてご挨拶せねばならないことですし」
 すっかり出掛ける用意をしながら取りやめるのはさらに間抜けに思えたので、結局クリスティアンの愛馬に苦労して貰うことになり、二人は白馬に揺られながら村へと続く森の中の道をのんびり歩き始めた。
 行く手の左には涙の湖≠ェ開けており、そのほとりの淡い木立の中には無数の木漏れ日が揺れていた。いつもより水の香りが濃密に感じられる気がする。エリュゼと同じように湖を見遣ったクリスティアンは、不意に大きく息を吸い込んで言った。
「雨が降りそうですね」
「そうですか?」
 彼の言葉につられて上を見る。初夏の森の枝葉は分厚く陽射しを遮っているが、時折覗く緑の切れ目にある空は浅い水色。雲はないように見えた。
「風向きが変わって空気が冷たくなっています。湿った匂いもするし、風が吹いてくる方にあれがあるので間違いないでしょう」
 あれ≠ニ言いながらクリスティアンが指さしたのは、湖の向こうにあるポラノ山の上にかかった白い雲だ。村からそう遠くないところにある。都育ちのエリュゼにはその雲が雨雲なのか通りすがりの雲なのかは分からなかった。
「引き返したほうがいいでしょうか?」
「風はそう強くないので、午後まで保つとは思いますが」

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