家名(24)
「よければ、踊ってもらえないか。一曲だけ」
その遠慮がちな願いに、ユニカは戸惑った。
ディルクは命令も無理強いもせず、ユニカの許しがあるのを待っている。『俺から君に触れることはしない』。本気なのだ。
今度こそ繰り返さないと、ディルクの視線は訴えてきた。
しかしそれをどう受け止めたらいいのか分からず、ユニカはすぐに頷いたり、彼の手を取ることが出来なかった。
私が手を取ったら、ディルクはそれをどう解釈するのだろう。私にとっても、それはどういう意味を持つのだろう。
許すということになるのか? あの夜のことを。身も心も踏みにじられそうになったことを。
でも、許さないのだとしたらいったいいつまで?
いつまでこの一歩≠ヘ埋まらないの?
そう思うと、自然に右手が持ち上がった。
耳の奥に心臓の脈打つ音がどくどくと響く。
が、ユニカの決意は少し遅かったらしい。
ディルクがそっと手を引こうとしたのと、ユニカの手が持ち上がったことに気がついたのは、わずかの差で前者が早かった。
「……」
二人の指先は触れ合わないまま、奇妙な沈黙とともに宙に浮いた。
離れたところから音程を確かめるために平坦に歌うフィドルの音色が聞こえてくる。
クリスティアンが無事フィドルを借りられたようだ。
「踊ってもらえるのかな」
そう尋ねてくるディルクの目には明らかな期待と喜色がにじんでいた。
あまりにも無邪気なその表情に、ユニカは何故か気恥ずかしくなった。
「……っ、……、」
だから「はい」と頷く一言が出ない。
代わりに、おずおずと手を差し出す。薄い絹の手套にくるまれた爪の先が、かすかにディルクの指先に触れる。
それが精一杯だった。自分からディルクの手にこの手を預けることは出来なかった。
自ら彼の手をとってはいけない。だって彼の未来とユニカの未来は、決して交わらないのだから。
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