家名(16)
「逃げたとは?」
「カイがいじめたのよ」
「違います」
レオノーレにまとわりつかれたまま、カイはすかさずそう返した。
けれども覇気はない。自分の言葉のあとにエリュゼが立ち去ったことを多少は気にしているらしい。
「冗談はさておき。無理強いするつもりはないんだが、エリュゼ――プラネルト伯爵と婚姻を結ぶのはどうかと思って。公爵と本人には話をしたんだ」
からかわれるカイを面白そうに眺めるディルクは、杯を傾けながらそう言った。
ともすれば皆が聞き逃してしまいそうなほど自然な呟きに、ユニカも、レオノーレも大きく目を瞠る。
カイとアルフレートは佇んだままのクリスティアンを見上げたが、その視線の意味するところをユニカ達は知らない。
「伯爵と、誰が? まさかディルク?」
呆然としたままレオノーレが呟くと、ユニカは知らずのうちに肩を強張らせた。
そんな話が、いつの間に。
でも、ユニカが王太子妃の座に座るよりよっぽど現実味がある。
エリュゼはなんといっても王妃を輩出するような大貴族の族(うから)。彼女自身も王妃に仕えていた経験があるから、王族の振るまい方は知っていよう。
何よりユニカは是(うん)≠ニは言わない。
しかし、だとしたら、ユニカが今身に着けている青金の矢車菊はいったい――
うつむけば胸元に並んで見えるサファイアの花。その下がぎゅうっと痛みを訴える。
「俺じゃない。俺じゃなくて、エリュゼと、クリスが」
ところがそれを嘲笑うかのように、ディルクの軽い声が一つ隣の席から聞こえてきた。
「クリスと?」
レオノーレは更なる驚きをあらわにした。彼女の反応が大きいので、ディルクはユニカの様子を気にしてはいないようだ。
ほっとしつつも、ユニカもレオノーレと一緒にディルクを凝視し、思い出したようにそこに立ち尽くしている公国の騎士も見上げてみる。
穏やかで愛想がよいながらも、常に隙のなさを感じさせるクリスティアンが完全に豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
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