天槍のユニカ



傷口と鏡の裏U(8)

 ふと彼らの背後を見れば、クレマー伯爵夫人がようやく正気に戻ったようで、もう一人の騎士に支えられながら輿に乗っている。大丈夫だろうか。
「伯爵夫人には迎賓館にお泊まり頂くことにします。一晩中お酒を飲みながらわたくしとチェスをしていたということにすると、話し合ってあるの」
「そうですか、それなら……」
 やはり、ディルクには何も言わないつもりにしたのだろうか。どこか威圧的な笑みに気圧されて、訊くに訊けない。どうするのが良いか一番分かっていないのはユニカだろうから、レオノーレに任せることにしようと彼女は思った。一人で行動することはほとんど無いのだから、あんな風に襲われる可能性だって低い。もちろん不安は残るが――
 君が震えずに済むようにしたい、と言ったディルクの声を不意に思い出した。ユニカは足を止め、彼に握られた指先を見つめる。松明に照らされた絹の手袋の上には、小さな雪の結晶が口づけるように落ちてくる。我に返り、結晶を払った。
(平気……)
 平気なはずだ。なんでもかんでも、彼に頼らなくたって。それに、守って貰ってもユニカからディルクに返せるものなど何も無い。彼の求婚に応えることも、政治的な扶けになることも出来ない。
 ちくりと胸が痛んだ。いや、痛んだ気がしただけだ。ユニカは自分にそう言い聞かせ、レオノーレとともに内郭へ戻るための輿に乗り込んだ。


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 眠気に耐えて起きてくれていたディディエンに就寝の準備を手伝ってもらい、ユニカがベッドの中に潜り込めたのは明け方と言ってもいい時刻だった。テーブルの上にディディエンには午前中の休暇を与える旨を書き置きし、ユニカはほとんど意識を失うように眠った。あっという間に陽が顔を出し、ご婦人方とのお付き合いのために身支度を始めることになったが、眠たすぎて彼女たちのおしゃべりに耳を傾けていられる自信がない。
 あくびを噛み殺しつつ軽めの朝食をとって、迎えに来た騎士たちに守られながら外郭へ降りる。今日の集合場所は、とある庭園の真ん中に建てられた小さな館だった。八角形をした平屋の建物で、部屋は一つ。東屋の代わりなので本当に小さい。部屋の真ん中にあるストーブを囲んでおしゃべり出来るくらいだ。扉がある面を除いて広い窓から七方向を見渡せるが、庭は雪に埋まっていて見るものもない。水場も調理場もないのでお茶会には不便そうだ。しかし余計な人間の気配がなくてユニカにとっては過ごしやすい場所だった。
 ユニカが中に入ると、すでにエルツェ公爵夫人をはじめ、今日集められた四人の婦人が席についていた。もう何度か顔を合わせた女性が二人、あと二人は新顔だったので、あらかじめ渡されていた彼女らのプロフィールを思い出しながら順番に挨拶を交わす。
 レオノーレは……今日も勝手に参加するのだと思っていたが、来ていない。眠いのだろう。自分だけ寝ているなんてずるい、と思ったが、当人がいてもいなくても恨み言を言えるわけもなく、ユニカは瞼が落ちそうになるのを堪えてどうにか口許を微笑ませる。ユニカが王の主催する昼食会へ呼ばれているので、このおしゃべり会は早めに切り上げられるはずだ。我慢、我慢……もっとも、そのあとはさらなる緊張を強いられることになるだろうが、今は考えないでおく。

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