天槍のユニカ



傷口と鏡の裏U(4)

「お知り合い?」
 じわじわと湧き上がってきた恐怖に青ざめながら、ユニカはほとんど無意識のうちにレオノーレの背に隠れた。彼女の問いには、首を振って答えるのがやっとだ。
「お知り合いではないようね。淑女を暗がりに連れ込むなんて野蛮な男だわ。いったいどこのどなた? 顔を見せて頂ける?」
 レオノーレは金色の柄を軽く握り直し、剣の切っ先を男の仮面の縁に引っかけた。
「自分で取るの? わたくしに取られるの? 選ばせてあげる」
 奔放で明るい普段のレオノーレからは想像も出来ない、どすのきいた声だ。ユニカは息を呑み、レオノーレの後ろから成り行きを見守る。
 いくらか待ったが、男は沈黙を破らない。するとレオノーレはその沈黙を返答と見なし、静かに鼻を鳴らして嗤った。
「あら、そう」
 つつ、と剣の切っ先が滑るように仮面の縁をなぞる。男の肌を一つも傷つけることなく、刃は仮面を留める絹紐に触れた。その繊細な動きは、よほどの手練れにしか出来ないものとユニカは知らない。
 刃が絹紐を押し上げ、滑らかな繊維を断ち切ろうとしたその瞬間。
 ギンッと甲高い音を立てて、レオノーレの剣が弾かれる。振り上げられた男の手には短剣があって、天井から降りる闇に一度姿をくらました刃はすぐさまレオノーレに返って来た。
 危ない――などとユニカが思うだけ無駄だった。レオノーレは手加減無くユニカの身体を後ろ手に突き飛ばし、肩を掠めるすんでの所で男の短剣を避ける。そして退くどころか大きく一歩踏み込み、身長差を逆手にとって男の懐に滑り込んだ。薔薇の花弁のように赤い彼女の髪が、薄闇の中にぱっと広がる。
 勢いのまま鳩尾を殴られた男は低く呻いたが、打撃が弱かったのか倒れなかった。続くレオノーレの突きを辛うじて避け、後ろへ向かってたたらを踏みながら短剣を振り回す。その切っ先が偶然にもレオノーレの前髪を一筋さらい、結果それを避けようとした彼女は大きくバランスを崩した。
「ちっ――!」
 それでもなお一歩踏みとどまり、レオノーレは剣を振るった。細い刃が銀色の閃光をまとって男を襲う。
 ユニカが倒れ、続けてレオノーレが倒れるまでほんのふた呼吸ほど。しかしホールの隅にたむろしていた客が異変に気づくには充分な騒ぎで、折良くレオノーレの騎士も現れた。
「姫さま!」
 騎士が叫ぶと同時に、短剣を握ったまま右手の甲を抑えていた男は踵を返した。彼の姿はそのまま廊下の暗闇に溶け、歌劇場の奥か、或いは裏口かへ駆けていく足音だけが聞こえた。
 その音も徐々に遠ざかった頃、ドサリと人が倒れるような気配が。呆然としていたユニカは我に返り、ホールの中央を振り返った。どうやらレオノーレと一緒に戻ってきて、その場で一部始終を見ていたクレマー伯爵夫人が、気を失って崩れ落ちたらしい。

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