天槍のユニカ



傷口と鏡の裏U(5)

 倒れた貴婦人も、レオノーレも騎士も、今起きたことの証人。夢や幻ではなかったのだ。ユニカは掴まれた手首をさすりながらごくりと唾を飲んだ。
「追わなくていい!」
 直後響いたレオノーレの鋭い声に、ユニカは再びはっとなる。男を追おうとしていた騎士に向けた言葉だった。
「しかし……!」
 騎士は剣の柄に手を掛けたまま、憤りを露わにしてホールに踏みとどまっている。
「こちらは無勢よ。仲間がいたらどうするの。そんなことよりあたしたちを助け起こさず行こうとするなんてどういうこと?」
 騎士は気まずそうに息を呑み、レオノーレの前に跪いた。主のドレスの裾をわずかに取り上げて詫びの口づけをすると、彼女を引っ張り起こす。次いでユニカを抱え起こして、ホールに倒れていた伯爵夫人を助けに行った。心配して彼女に群がっていた庶民の客を追い払い、すっかり正体を失った夫人を抱えて騎士は戻ってくる。
「こんな靴じゃなかったらしとめてやったのに。待ち伏せされていないかよく確認して。急いで帰るわよ」
 レオノーレはそう吐き捨て、剣の先についた血をためらいもせずレースのハンカチで拭った。


 行きの楽しい雰囲気とは打って変わって、帰りの馬車の中はぴりぴりしている。気絶した伯爵夫人は全速力で駆ける馬車の振動などものともせずに気を失ったままだ。ぐったりした彼女の身体が座席から投げ出されないよう抱えているように、とレオノーレに命じられ、ユニカは大人しくそれに従った。
 向かいに座るレオノーレは剣を抱え、窓の外を窺い眉間にしわを寄せている。この速さと夜の闇の中で何が見えるのだろうかと疑問に思ったが、彼女の顔つきはまるで武人で、ユニカには分からないものの気配を探ろうと集中しているようだった。
「以前にもこういうことが?」
 そのレオノーレが、カーテンの隙間から窓の外を見ながら呟いた。石畳を転がる車輪と騎士が駆る馬蹄の音にかき消され、危うく聞き逃しそうなほど低い声だった。内から輝いているようにさえ見える青い瞳が鋭く視線を投げかけてこなければ、きっと問いかけられたことに気がつかなかっただろう。
「あるには、あります。でも……」
 年が改まる前の話だ。ユニカの命を狙ってきたチーゼル前外務卿は現在囚われの身であるし、彼を中心としたユニカを排除しようとする一派は、ユニカに王家の身分が与えられたことにより身動きが取れなくなっているはず、とディルクから聞いた。連中が動けないでいる内に、順次王城から淘汰する、とも。
「でも、今は襲われる可能性は低いって言うことね。そりゃそうよね、あなたは王族だけど王位継承に絡める立場じゃないし、もう王家を出ていく身だもの。命を狙う理由がないわ」
 なんだかレオノーレの口調が刺々しい。先ほどまで、形ばかりは示していた王家の姫君に対する敬意がまったく取り払われたという印象もある。ユニカが原因というわけではなくあたりを警戒しているゆえだろうが、迫力あるその様子に、ユニカはつい萎縮してしまう。

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