天槍のユニカ



傷口と鏡の裏(9)

 出ないという選択肢はなかった。
 仕方なく、書類をまとめ重い腰を上げる。何も無いことを祈ろう。ほとんど親睦会のようなものなのだから突っ込んだ政治の話にはならないだろうし、和やかな世間話で時間が過ぎるようにうまく会話を誘導せねば。
 そんなことを考えながら上着を会食用の衣装に改め、ディルクは執務室を出る。
 すると今し方部屋を去ったはずの青年騎士が、早足で引き返してくることに気が付いて目を瞠った。
 憤りを叩きつけるように長靴(ちょうか)を高く鳴らし、柳眉は厳しく眉間に寄せて、彼は真っ直ぐにディルクの許へ戻って来る。
 そしてカミルや、ルウェル以外の警護の近衛騎士を驚かせつつ王太子の前に跪くと、一片の迷いもなく上着の裾を手にとって口づけた。
 大公に仕える彼が人前でそうするのはまずい。それは服属を示す行為だ。
「クリス――」
「やはり納得できません。ルウェルはお連れになるのに、私は公国に残らねばならないなど」
 咎めようとしたディルクを遮り、唸る声は彼の父親にますます似てきた。
 しかし懐かしさに浸っている場合ではない。
 ふと顔を上げれば、廊下の角からこちらを眺め、ヴィルヘルムが苦笑している。
 上着を引っ張られた気がして視線を下方へ戻せば、返答を貰うまで絶対に放さないと言わんばかりで、騎士・クリスティアンがディルクを睨みあげていた。
「だから、」
 公国の大貴族・テナ侯爵を、シヴィロの王太子が召し抱えられるわけないだろう。
 ディルクがそう言っても、クリスティアンは上着を放してくれない。その睨み合いがしばらく続き、危うく昼食会に遅刻するところだった。

 ユニカ同様、ディルクの前にも問題が山積している。



**********

 話は前日の夜に遡り。
 一人きりで過ごせる静かな夜を惜しみながら、ユニカはベッドに入ろうとしていた。
 新年会のあと、いったいいくつの行事に参加したか分からない。どれだけの人と挨拶を交わしたかも覚えていない。
 そう思うと気が遠くなりそうだ。ユニカは必死で形式通りの台詞を読むばかりなのに、相手は『天槍の娘』と言葉を交わしたことを、決して忘れはしないだろう。
 一方的に自分の存在が世間に知れ渡っていく。これを恐ろしいと言う以外になんと言えばいいのか。
 ディルクや王も、ユニカ以上に多くの人間と挨拶を交わしていたが、彼らのことすべてを覚えているわけではないらしい。それでも二人は易々と自分を解放し続ける。怖くはないのだろうか。

- 526 -


[しおりをはさむ]