天槍のユニカ



蝶の羽ばたき(5)

 エリュゼは慌ててハンカチを取り出し、濡れていた目許を拭って立ち上がる。
「し、失礼いたしました。取り乱してしまい……」
「いい、わ。あなたも、怪我なんてしていないようね」
「はい。申し訳ございません、わたくしの方が、先に逃げるなど……盾にもなって、お守りせねばならないところを、」
 言葉を詰まらせ、エリュゼは堪えきれずに顔を反らしてハンカチに目許を埋めた。この様子では、ユニカの姿を求めて騒いでいただろうということが容易に想像できる。フォルカの戻りが早かったのも、探すまでも無くエリュゼを発見できたからに違いない。
「とにかく、ユニカ様がご無事で何よりでございます。外はまだ今の捕縛劇で騒然としておりますわ。もうしばらくこちらにお隠れになっているのが良いかと思います。エルツェ公爵が私兵を連れてお戻り下さいますので、その方々に警護をお任せして宮へ戻りましょう」
「近衛騎士がうろちょろしてるだろ。あいつらに頼んだ方が早いんじゃないのか?」
「わたくしどもでは、どの騎士が信頼出来るのか分かりません。王太子殿下が指示を下されば良いのですが、それもままならぬようで」
 エリュゼのその言葉に、ユニカはぞっと背筋が粟立つのを感じた。
 王太子が自分の背に生えた矢を引き抜く。真っ赤な鏃。染み出す血。蘇った光景に目の前が支配されるが、ユニカはかぶりを振ってその映像を消し去った。
「殿下の、ご様子は?」
 そんなに、ひどい怪我ではないはずだ。だって彼は自分の足で立ち上がっていたし、あんなに大きな声も出していた。だから、大丈夫だ。
 しかしユニカが恐る恐る尋ねると、エリュゼは申し訳なさそうに首を左右に振るだけだった。
「詳しいことは分かりません。騎士の一人に支えられて議場を出て行かれるのは見ましたが……」



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 縫合する前に、止痛薬をご用意しましょうか。というイシュテン伯爵の申し出を断ったことを、ディルクは後悔していた。
 矢傷のせいだけではない。矢傷も勿論痛いが、針と絹糸が皮膚を貫いていく度、つんつんと走る嫌な痛みが加えて曲者だ。彼はうつ伏せになって枕を抱え、無様なうめき声を漏らさないよう、ひたすら耐える。
 もっと際どいところに矢が中り死にかけたことも、もっと重傷を負って長いことベッドから起き上がれないこともあったので、今回の矢傷など取るに足らない。と思ったのは油断もいいところだった。戦場で受ける傷は、心も身体も極度の興奮状態にあるのでなかなか痛みを感じにくいものだが、それに比べ緊張が解けた今、矢傷は素直に痛んできた。それなりに血が出たので気も遠い。けれど痛みははっきりしているというのは、なんだか腹立たしい。

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