愛しのスタンド


▼世界はこの腕の中
 外はとってもいい天気だ。春を迎えた庭先にはテレンスが植えた花々が咲き乱れ、つがいの蝶がひらひらと飛び遊んでいるのが見える。二階のテラスからその光景を見下ろして夢主は目を緩ませた。
「ランチは外で取りたいな……」
 暖かな太陽の日差しを受けてサンドイッチを頬張る。それはとても楽しそうなことに思えた。しかし現実として待っているのは薄暗いダイニングでの食事だ。太陽を厭う人物がこの館の主なのだから彼の意向に添うのは当然だろう。
 用意された椅子に腰掛け、春が芽吹いた庭から手にした本へと視線を移す。暗い寝室で文字を追うのに疲れた夢主はこのままテラスで読書を楽しむ事に決めた。
 そんな彼女の肩をトン、と軽く叩く者がいた。音もなく近づいてきた事に驚きつつ、夢主が横を向くと半透明の手が見える。手の甲には能力を象徴するかのような時計のマークがあった。目つきは鋭く、口元はいつも引き結ばれている。体は本体と同じく筋肉質でとても厚みがあった。
「ワールド?」
 名を呼べば彼は底知れない目に夢主を映し込んだ。長く見ているとそのまま吸い込まれていきそうになる。
「どうかしたの?」
 スタンド単体が夢主の前に現れることはかなり珍しい。一体どうしたのかと首を傾げる彼女にザ・ワールドはドアの向こうを指差した。饒舌な本体とは違ってザ・ワールドは口を開かない。会話をするスタンドもいるが彼は常に沈黙を保っている。夢主は困ったように相手を見上げて、そしてようやく理解した。
「……もしかして……DIOが呼んでるの?」
 ザ・ワールドは肯定するようにゆっくりと瞬きをした。太陽の光が差し込むこの部屋にDIOが入ることは出来ない。その彼の代わりにスタンドが呼びに来たらしい。まるでおつかいを頼まれた子供のようで夢主は笑ってしまった。執事に呼びに来させる方法だってあっただろうに……希有で貴重な能力を持つこのスタンドには不相応すぎる。
「分かったわ」
 夢主はくすくすと笑いながら本を閉じた。ザ・ワールドは神妙な面持ちで自分を待っている。
 常々思うことだがこのスタンドという存在は本当に不思議だ。見える者にしか見えず、見えない者には触れることも叶わない。夢主はそっとザ・ワールドの大きな手に自分のを重ねてみた。相手は無言でそれを見下ろしてくる。
「温かくもないし、冷たくもない……この感触はDIOにも伝わってるのかな?」
 夢主は手の甲の時計をくるりと撫で、それから太い腕に指先をつつっと滑らせてみた。そのまま腕を伸ばして相手の頬に触れる。硬いような、柔らかいような不思議な手触りだ。優しく撫でた後、顎に飾られたハートをなぞった。ふっくらとした唇が何だか可愛くてそこにも指を伸ばす。ザ・ワールドは何をされても無言で立ちつくしている。
「触れられても平気? ……嫌じゃない?」
 ザ・ワールドはさっきと同じく、ゆっくりと瞬きをした。本当に嫌だったら夢主の腕をひねり上げているだろう。
(DIOの精神エネルギーなんだよね……)
 それはつまり精神がそのままむき出しになっている状態ではないだろうか。夢主はザ・ワールドの体を調べるようにあちこちに手を伸ばした。厚い胸板をつつき、割れた腹筋の溝をなぞり、人ならヘソがあるはずのところを指でくるりと円を描いた。
「くすぐったくないの?」
 夢主が尋ねても彼は無言を貫き通す。両脇腹に手を入れて思いっきりくすぐってみてもその無表情さは変わらなかった。しかし、その代わりに廊下の方から低い笑い声が聞こえてくる。夢主は一瞬耳を疑ったが……やはり笑い声だ。
「……まさかね?」
 確かめるようにもう一度だけ脇腹をくすぐると、廊下から聞こえてくる笑い声は唸り声になった。
「……」
 それを聞いた夢主がぴたりと動きを止めると、それまで立ちつくしてたザ・ワールドが屈み込んで夢主の膝裏に腕を伸ばしてくる。そのままひょいと彼に抱き上げられてしまった。
「わっ、ちょっと……」
 ザ・ワールドは静かな目で夢主を見下ろし、テラスから暗がりに連れて行こうとする。これが最後と決めて首筋と胸板をくすぐれば部屋の扉をドンッと叩く音がした。
「夢主……覚えていろよ……」
 ザ・ワールドの本体、DIOの声だ。低く唸る声の中に愉悦が混じっている。あのドアをくぐったが最後、彼のスタンドで遊んだ事による報復を受けてしまうのだろう。
「……やっぱり本体にも伝わるみたいだね」
 小さく笑いながら夢主はザ・ワールドの首に腕を回す。鋭いエッジのある頭を撫でつつ、頬にキスをする。冷たい色をした目がちらりとこちらを見てきたので夢主は笑顔を向けた。
「スタンドとキスするって、どんな感じだと思う?」
 その唇は柔らかいのか、それとも硬く無機質なのか。夢主の興味は尽きない。DIOの手に落ちる前にそれだけは確認しておきたいと思う。
 出来ればそれが本体に伝わって少しでも機嫌を直してくれたらいい。
 細い腕の中に彼を抱きしめて夢主はそっと優しい口づけを残した。

 終



▼金剛石は砕けない
「今日、家に誰もいないの……だから寄っていかない?」
 付き合い始めてわずか一ヶ月。
 恋人からそんなことを言われて、有頂天にならない彼氏がいるだろうか。
 仗助はぐっと拳を握りしめた。その時、二人は下校中だったので仗助は適当な理由をつけてコンビニに走り込み、必要になるだろう物を夢主が雑誌を立ち読みしている間に買い込んだ。男性店員が生暖かい目で見てきたが、この際、恥はかなぐり捨てておく。
 そうして鞄の中に忍ばせた物にドキドキしながら仗助が夢主の家へ向かうこと十五分。閑静な住宅街の中に彼女の家はあった。鞄から鍵を取り出し、玄関を開けるその時間すらもどかしい。妙に緊張してきて変な汗まで出てきた。
「仗助? どうしたの?」
 いつまで経っても玄関に入ってこない彼氏に夢主が声を掛ける。
「お、おう……お邪魔、します……」
 赤くなってしまう顔を隠しつつ、仗助はぽつりと言ってドアをくぐった。
「こっちに来て」
 靴を脱いだ夢主はさっさとリビングへ向かう。仗助も同じくその後を追った。
「ごめんねー、ちょっと汚れてるんだけど……」
 リビングに続くドアを開けた瞬間、仗助はその場に固まった。夢主の言うちょっと汚れている、の状態が彼の想像以上だったからだ。
 まずリビングのソファーとカーテンが引き裂かれいた。割れた皿に茶碗、ビリビリに破かれた新聞紙が床に散らかっているではないか。持ち手が取れたフライパンの横には包丁が壁にぶっ刺さっている。まるで強盗に入られた後のようだった。
「……」
 この状況を見た仗助は思わず絶句する。
「あ、仗助……呆れてるでしょ?」
「いや、なんつーか……す、すげぇな……」
「いつもこうじゃないからね?」
 夢主は恥ずかしそうに、けれど胸を張って言った。
「家に誰もいないっていったでしょ? あれね、昨日両親が大喧嘩して二人とも実家に帰ったからなの」
 夢主は床の上の雑誌を拾いながらぽつぽつと話をする。
「きっかけは些細なことだったんだけど……ふふ、馬鹿だよね」
 それにしたってひどい有様だ。
「で、仗助はすごく便利な物もってるでしょ?」
 拾い集めた雑誌をテーブルに置いた夢主は、小悪魔的な笑みを浮かべてこちらを見上げてくる。
「便利な物……?」
「スタンドのこと。クレイジー・ダイヤモンドで直せない?」
 片付けのためにここに呼ばれたのだと、仗助はようやく気が付いた。顔に笑顔を貼り付けて、
「お、おぅ……いいぜ、まかせとけ」
 とは言ったが心の中は大雨が降っている。
「わぁ、ありがとう! すごく助かる!」
 とはいえ頼られるのは悪い気分ではない。仗助はすぐにスタンドを出してソファーをドラァと殴りつけた。
 まるでビデオの逆再生を見ているかのように破けた布地は元通りに直っていく。カーテンも、皿に茶碗も、新聞紙も、次々に本来の姿を取り戻していった。
「すごい! ありがとー!」
 照れる仗助の前で夢主はスタンドの方をぎゅっと抱きしめた。
「え……俺じゃなくて、そっち?」
「いいなー、ハートが一杯ついてて。可愛いよね」
 なんて言って夢主はクレイジー・ダイヤモンドのお腹を撫でている。
「そ、そうかァ?」
 そんな風にスタンドを褒められたことのない仗助は曖昧に笑った。嬉しいことには変わりないが、どうせ抱きつくなら本体の自分の方にして欲しいと思う。
「片付いたし、お茶でも出そうか? あ、スタンドって何か食べること出来る?」
「いやー、無理だろ」
「そうなの? 残念」
 そう言って夢主はぺたりと頬をスタンドにくっつけてしまう。仗助は胸の辺りに柔らかな重みを感じた。
「あのな、そういうことは俺にしろよ……!」
「えー……だって仗助、絶対にえっちなことするでしょ?」
「なッ、ば、馬鹿……なに考えてんだ、テメーは……っ」
 すぐに赤くなる仗助を見て夢主はニヤニヤと笑う。見せつけるようにクレイジー・ダイヤモンドの胸にちゅっとキスをした。
「!」
 何故それを本体にしないのか! 仗助は歯軋りしたくなってくる。
「ねぇ、便利だからクレイジー・ダイヤモンドを一晩貸してくれない?」
「貸すって、お前……そんなの、……!」
 スタンドと本体は離れられない。スタンドが必要なら、仗助だってここに居なければならないわけで。
「お風呂場の蛇口も壊れてるの。それも直してね、仗助」
 笑顔を見せる夢主の背にいつの間にかスタンドが腕を回そうとしている。夢主を抱きしめたく思う仗助の心を反映しての行動なのだろうが、本体を差し置いてというのが許せなかった。
「わ、わかったよ」
「直したら……お風呂、一緒に入る?」
 夢主のその言葉に仗助はカッと目を見開いた。クレイジー・ダイヤモンドと抱き合っている夢主は愉快そうに笑い転げている。コンビニで買ったゴムの出番は、案外早く訪れるかもしれない。

 終



▼可愛いのは君
 そこに入った瞬間から自分の部屋とはまるで違う雰囲気に、忘れかけていた緊張が再び蘇ってくる。
 本棚にはファッション雑誌に化粧道具、シンプルな勉強机とベッドの上には可愛らしいぬいぐるみ、どこからかふわりと甘い香りがする部屋は仗助のそれとは別世界だった。そんな彼女の部屋で、背後にはベッド、その手前に夢主が座り込んでこちらをじっと見上げている。
 思わずごくりと唾を飲み込んでしまう自分を励まして、汗ばむ手のひらを拭いつつ相手の肩を抱いた。
「仗助……」
 恥ずかしそうな照れた様子がとても可愛い。仗助は込みあげてくる衝動が抑えきれなくなって勢いよく顔を近づけた。
「きゃっ」
 きっちりと固めたリーゼントが額にぶつかって、夢主は小さな悲鳴をあげる。
「わ、悪ぃ……」
 生まれて初めて好きな人とするキスに水を差され、仗助は気まずそうに謝った。そんな相手を見て夢主はくすっと笑い、強張っていた肩の力を抜く。
「ううん、平気……だけどちょっと崩れちゃったね」
 乱れてしまった仗助の前髪を撫で、今まで見たことがないほど赤くなっている顔を覗き込む。
「もう一回……する?」
 はにかみながら尋ねてくる夢主を仗助は腕の中にぎゅっと抱きしめる。どちらの心臓もドクドクと早く脈打っていて、静まりかえった部屋にその音だけが響いているようだ。
「……仗助、好きだよ」
「俺だって……」
 肝心な時だというのに、頭の中が真っ白で気の利いたセリフが一つも浮かんでこない。
 しばらく見つめ合い、今度は少し首を傾げて唇を重ね合わせると、途方もなく柔らかな感触が仗助を包み込んでいった。


「見とるこっちが照れるほど初々しいのぉ……そうは思わんか、承太郎?」
 美しい海の眺めが売りの杜王グランドホテルの一室で、杖をついた老人がにやにやと笑いながらふり返った。隣に立つ承太郎はジョセフの視線の先をちらりと見て苦く笑う。年の離れた叔父は、その硬派な外見とは裏腹に和やかな表情で隣に立つ女学生と話を弾ませているようだ。
「仗助、上手だね〜」
「当たり前だろ。何回、おむつ替えさせられてると思ってんだよ」
 ベビーベッドの上に寝かせた透明の赤ちゃんから仗助は汚れた紙おむつを外し、お尻を綺麗に拭いて手際よく新しい物と取り替える。無駄のない動きに夢主は感心しきりで、仗助は得意げに胸を張った。
「……やれやれ」
 承太郎はそう呟いて白い帽子を下げた。スタンド使いである夢主と仗助の父親であるジョセフが挨拶を交わしたのは一時間前の話だ。お互いに様々なことを説明し終えた後、昼食を挟んで今は食後のゆったりとした時間を部屋で味わっている。夢主の興味はジョセフと承太郎から離れて、とても不思議で奇妙な赤ん坊に移ったようだ。
「ずっと透明なままなの?」
「さぁ、どーだろなぁ……もう少し大きくなったら能力の使い方も分かると思うけどよォ〜」
 ピンク色のベビーウェアを整え、冷ましていたミルク瓶を手に持つ。
「何か……可愛いね、仗助」
「だろ? 結構、美人だと思うぜ」
「ふふ、違う違う。仗助が可愛いって言ったの」
「……俺ェ?」
 きょとんとした顔で己を指差す仗助に夢主はくすくすと笑いかける。
 リーゼントに改造した学生服、どこからどう見ても不良スタイルの彼が小さな赤ん坊を抱いてミルクを与えているのだ。彼を怖がっている先輩や後輩たちがこの姿を見たら驚くに違いない。
「保父さんとか意外と似合ってるかも」
「オイオイ、それって……保育園のセンセーってことかァ?」
「きっと人気者になれるよ、仗助なら」
 何とも言えない表情になる仗助に夢主は笑いかける。大勢の子供たちに囲まれる仗助を想像すると愉快な気持ちになってきた。
「馬鹿……そりゃあ、オメーのほうだろーが」
 仗助から赤ん坊を押しつけられて夢主はふにゃふにゃの柔らかい体を抱きとめた。
「またまた照れちゃって。可愛いなぁ、もう」
「いい加減にしろっつーの」
 夢主の額を小突こうとするがその腕に赤ん坊が居ることに気付いて押し止める。背後でジョセフが吹き出す声が聞こえて、仗助はこれ以上ないほど顔を歪めてしまった。
「紹介も済んだし、そろそろ帰らせてもらうっス」
 苦い表情で承太郎に告げると、彼までも帽子の下から優しい笑みを向けてくる。何だかもう居たたまれなくなって、仗助は夢主が抱いていた赤ん坊をジョセフの腕に返した。
「仗助と仲良くのぉ」
「はぁい。ジョースターさんもお元気で。お邪魔しました」
 夢主はジョセフと承太郎にぺこりと頭を下げて、足早に部屋を去る仗助を追いかけた。


 海風に煽られ、乱れる髪を手で押さえながら夢主は車道側を歩く仗助を見上げた。
「仗助ってハーフだったんだねー。背が高いとは思ってたけど、承太郎さんの方がもっと高いからびっくりしちゃった」
「まだ成長期だぜ、俺。……このままいけば、承太郎さんを追い越すんじゃねーか?」
 二人はグランドホテルを背にして、近くのバス停に向かって歩いている。街外れの海岸線は人通りも少なく、とても静かだ。寄せては返す波の音だけが辺りに響いていた。
「そんなに大きくなってどうするの? バスケかバレー部に入部するつもり?」
「まさかだろ。ぜってー嫌だ」
 スポーツに励む仗助も悪くないと思うが、本人にその気がないのではどうしようもない。夢主は肩を竦め、周囲に誰もいないことを確認してからそっと仗助の指に触れた。
「お……積極的じゃねぇか」
「いいでしょ、ここならクラスの誰かに見つかることも無いし」
 同級生にはやし立てられるほど恥ずかしいものはない。少し照れながら相手の小指を握りしめていると、仗助はそれを一度解いて大きな手で包み込んだ。
「バスが来るまでの間だけな」
「ふふ、耳たぶ真っ赤にして言う事じゃないよね?」
「……うるせぇ」
 夢主が笑い始めると、仗助はぷいっと顔をそらしてしまった。歩調を合わせてくれる仗助と共に、青い空や海、追い越していく車を眺めて二人だけの時間をゆっくりと味わう。
「なぁ……これから俺んとこ来るか?」
「うん、いいよ。またゲームしようか。前は仗助に負けたけど今度は勝つからね」
 夢主がそう言うと、彼は目をそらしつつ言いにくそうにボソボソと呟いた。
「あー……ゲームは別にいいけどよォ……」
「いいけど、なに?」
「俺のおふくろ、教師だろ? で、部活の顧問もしてる。全国大会に向けての練習で合宿に行ってんだよなぁ」
「ふぅん。つまり?」
「だから……その、アレだ……って、お前分かってて言ってるだろ!」
 にやついた夢主の表情を見て仗助はぱっと手を離した。ああ、もう! などと呻きながら顔を覆う仗助に夢主は笑い声を喉の奥へ押し戻す。
「つまり、家に誰もいないし二人きりだよってコト?」
 仗助の腕を引っ張って離れてしまった手を再び繋ぎ合わせる。
「前にコンビニで買ったヤツ、出番無かったもんね……私の親が帰って来ちゃったから」
 夢主から悪戯っぽい微笑みを受けて、仗助は何を買ったかバレていた事を知る。
「今度は上手にキスしてね、仗助」
「くそぉ……頼むから何も言うな……」
 仗助は夢主と繋いでいない手で顔を覆い隠すと、停留所に向かって足を速めた。ジョセフが初々しいと言った若い二人を乗せるべく、大きな市営バスがやってくるのはもう少し後のことだ。

 終



▼黄金は君のもの
 夢主が見下ろす向かいの庭先は、ピンクに赤、黄色、それから目が覚めるような新緑で埋め尽くされ、庭いじりの大好きな老夫婦がせっせと花の世話をしているのが見える。春を迎えたイタリアは今が盛りのようだ。
「いいなァー……外に出たいよ、ジョルノ」
 ここ数日、同じ部屋で寝泊まりをしているジョルノをふり返った。彼は同じソファーの上で広げた新聞から顔を離し、呆れたような表情で見てくる。同じ年頃の学生はティーン雑誌に夢中だというのに、彼は経済新聞なんか読んでいる。彼が見かけによらずギャングのボスであることを知っていても何だか生意気だ。
「駄目ですよ。大体、その足でどうやって歩くつもりですか」
 ソファーから伸びた夢主の真っ白な足をコンコンと叩いた。数日前、階段から転げ落ちた夢主の両足は、包帯とギプスによってガチガチに固められている。ノックされた振動が折れた足に伝わって小さな痛みを訴えた。
「ぎゃっ! 痛いよ、ジョルノ!」
「……すみません。でも、無茶をした夢主が悪いんですからね?」
 ジョルノが見つめてくる目は怖いくらいに真剣だ。彼を襲ったスタンド使いと激闘を繰り広げた夢主はその言葉に頬を膨らませた。
「だって、」
「だって、じゃないですよ。僕のスタンドならすべてを0に出来る……だから余計なことはしないで下さい」
 ジョルノはそうきっぱりと言い放って新聞をテーブルの上に投げ捨てた。倒れ伏した夢主を抱き起こし、鬼のような形相で名を呼ぶジョルノを思い返せば、そんなつれない言葉は気にならなくなる。
「ごめんね、ジョルノ」
 にやついた顔で謝罪されてもジョルノには不愉快だったのだろう。彼は溜息をついた。
「怪我人はそこで大人しく外でも見ていなさい。僕はキッチンでお昼ご飯を作ってきます」
「わぁ、ジョルノが作るパニーノ大好き!」
「……切って挟んだだけですよ」
「ジョルノが作るのは特別なの。ハムと、チーズ、あとトマトを山盛りにしてね」
「はいはい。じゃあ、少し待ってて下さい。何かあったら彼に頼むんですよ。一人で行動しないように」
 最後に念を押されて、ジョルノはキッチンに足を向けた。窓辺のソファーに腰掛けた夢主はジョルノが後を任せていった「彼」を見上げる。丸い目に夢主を映し、額には不思議なスタンドパワーを与えるやじりの形が飾られている。すべてを無に帰してしまう恐ろしい能力を持った彼は、音も匂いもなく夢主のすぐ目の前に立っていた。
「レクイエム、ちょっと手を貸して」
 正式名はゴールド・エクスペリエンス・レクイエムだが、長いので夢主はそう呼ぶことにしている。夢主が差し出す手を彼はすぐに掴み、あまり動かせない両足に腕を入れて軽々と抱え上げた。怪我をしてからというもの、夢主の移動手段はすべて彼の腕によるものだ。特にトイレと風呂にはかなりお世話になっている。
「ベランダまで運んでくれる?」
「……ベランダ? 何ヲスルツモリデスカ?」
 以前よりも強面になった彼は、ジョルノとよく似た口調で喋る。
「少しだけ外に出てみたくて……ほら、向かいの庭、すごく綺麗でしょ?」
 空に向かって伸びた木々にはピンク色の花が咲き誇り、時折吹く風に揺らめいている。
「公園に行きたくても、この足じゃ無理だし……」
「外ハ駄目デス」
 本体と同じ言葉をスタンドまでもが繰り返す。ジョルノを襲った残党を、今、ミスタが始末しに向かっているところだ。彼から報告が入るまで、二人はこの部屋で身を潜めているしかない。それは分かっているのだが……自分が役立たずに思えて少なからずショックなのだ。その気分を晴らしたく思っても、こうして部屋の中から眺めていることしか出来ないなんて……
「つまんない……」
 スタンドの首に両腕を回し、額をぺたりと首筋にくっつける。温もりを持たない彼だが、冷たくはなかった。
「コレデ我慢シナサイ」
 片腕で夢主を抱えた彼はテーブルの上にあった空のカップを殴りつけた。ガシャン、と割れる音はなく、代わりにカップがぐにゃりと変形して一輪のバラに変化した。
「わぁ……! レクイエムじゃ無理だと思ってた」
 バラを受け取った夢主は嬉しそうに呟く。しかしその言葉は彼の自尊心を傷つけたようだ。丸い眼を細め、心なしか夢主を睨み付けているような……
「怒ったの?」
 顔を覗き込んでくる夢主をソファーの上に戻すと、レクイエムはむっつりとした表情のまま、壁から間接照明、本棚にテレビ、夢主の座るソファーやテーブル、部屋の至る所をその拳で殴り抜ける。呆気に取られている夢主の前で、これでどうだ、と言わんばかりに彼は腕組みをした。
「夢主、飲み物は何がいいですか?」
 二つのカップを手に、キッチンから顔を出したジョルノは、ふかふかの芝生が生えた緑色のソファーの上に腰掛ける夢主と目があった。床から天井に至るまで同じような芝生で覆われ、所々に白い野花が咲き、その花の蜜を求めて蝶まで飛んでいるではないか。テレビは色とりどりのチューリップになり、テーブルはスイートピーになり、本棚はモクレンに変化した。他にも、マーガレットにペチュニア、ロベリア、ヒヤシンス、ラナンキュラス、フロックスにタンポポまで、あらゆる春の花が寄せ集められていた。
「……」
 無言でその光景を見ていたジョルノだが、次第に眉を寄せ始めてしまう。それを見た夢主は咄嗟に叫んでいた。
「ごめんなさい!」
「謝る必要はありませんよ。ただ、カップを置く場所が無くなって、困ったなと思っただけです」
 持っていたカップを棚に戻し、ジョルノは肩を竦めた。
 代わりにたっぷりの野菜とハムにチーズを挟んだパニーニを皿の上に乗せ、床板と芝生の境目でぽいっと靴を脱いだジョルノは、素足のまま緑色の草を踏んで夢主の元へランチを運んでくる。
「しばらく二人で春を楽しみましょう」
 何事にも動じない相手の懐の深さには恐れ入る。夢主はホッとしつつ、隣に腰掛けたジョルノに笑顔を向けた。羨んだ隣の庭より何倍も素敵な部屋で、ジョルノと楽しく過ごすことが出来るなんて素晴らしいことだ。
「ありがとう、レクイエム」
「当然デス」
 キラキラと輝く黄金色の彼は、花々に囲まれた中で得意そうに胸を張った。

 終



▼女王様は笑わない
 きちんと整えられた庭で青々とした竹が風に揺られて静かな葉音を奏でている。植えられた一本の桜はふっくらと芽吹いて、今年もその淡い色で夢主の目を楽しませてくれるようだ。
「抹茶が飲みたくなるよね」
 ぽかぽかと暖かい陽気が差し込む縁側に座布団を敷き、欠伸を噛み殺しながら夢主は背後の人物に話しかけた。
「緑茶で十分だろう」
 文机の上には多くの書類が積まれ、会社から支給されたパソコンにあれこれと数字を打ち込んでいる吉良は、夢主のそんな様子をちらりと見た。いつものスカしたスーツを脱いだ彼は、ラフな普段着で持ち帰った仕事をこなしている。休日を仕事に奪われた吉良を、机の上に置いた“彼女”が見ていた。
「あぁ、なんか、桜餅が食べたくなってきた」
 花見客の人混みに押されることもなく、騒々しい話し声も、下手な歌声もここには聞こえてこない。たとえ家の主が殺人鬼だと知っていても、満開の桜を独占できる吉良家の庭は夢主のお気に入りの場所だ。
「自分で買ってきなさい。私は忙しい」
 本当に腹立たしいのだろう。眉を寄せて作業に打ち込む吉良は、鬼気迫るものがある。
「可哀想な吉影。せっかくの休みを同僚の尻拭いで潰されるなんて……」
「……煩いな、君は。それ以上言うなら、家から出て行ってもらおう」
 ジロリと睨まれた夢主は、嫌だと抗議するように座布団を胸に抱いた。
「何なら、君も“彼女”にしてあげようか?」
 吉良はなまめかしい女の手首を撫でながら微笑む。綺麗な笑みに夢主が見惚れていると、何も言わないのを肯定だと思ったのか、いつの間にか彼のスタンドが姿を現していた。
 尖った耳はまるで猫を思わせるほどに可愛いのに、大きな体に飾られた死を意味するドクロからは禍々しさだけしか感じられない。相手を瞬時に爆死させてしまうキラークイーンは、ビー玉のような丸い目で夢主を見下ろしてくる。
「嫌よ。そんな姿になったら桜餅が食べれないじゃない」
 夢主の返事に吉良は呆れた顔をして、すぐにふいっと“彼女”に視線を戻した。
「聞いたかい? まったく……」
「ねぇ吉影、静かにしてるから女王様を貸してよ。いいでしょ? お願い」
「……キラークイーンを?」
 吉良は夢主の申し出に片眉を上げて聞き返す。
「だって暇なんだもの。花見は素敵だけど、吉影はまだまだ相手してくれないみたいだし……」
 恨みがましい目で見上げられて、吉良ははぁと溜息をついた。趣味や嗜好の合う唯一の異性である夢主を吉良は長年大事にしてきたし、少なからず好意を持っているからこそ“彼女”にはしないでいる。そんな相手からの願いに、吉良が返事をするより先にキラークイーンが動いた。
 見上げてくる夢主を抱きしめ、その頬に額を擦りつける。甘えるような仕草に夢主が驚いていると、キラークイーンは座布団の上に腰を下ろし、夢主をあぐらを組んだ上に座らせて後ろから抱きしめてきた。
「……」
 これには夢主も吉良も驚いて声が出せない。
「あのさ、吉影……スタンドって本体の精神を表してるんだよね? ということは……」
「それ以上は聞きたくない。もういいから黙ってなさい」
 吉良はバツが悪そうに夢主と自分のスタンドから目を反らし、顔を半分覆いながらパソコン画面と向き合った。
「……女王様はこんなに素直なのに、本体は正反対だね」
 夢主はくすくす笑って後ろから抱きしめてくるキラークイーンに話しかけた。無口で無表情を貫くこのスタンドは、夢主の笑みを受けても全く表情を変えることはない。それでも機嫌の良さを表すように尖った耳がぴくぴくと動いた。
「可愛いね、私の女王様。本当に猫みたい……しっぽつけちゃう?」
 なんて戯れ言を言う夢主を恐るべきスタンドは静かに見つめ返す。その頬をよしよしと撫でれば、わずかに眼を細めるキラークイーンを夢主は愛しく思った。

 吉良の仕事がようやく終わりを迎える頃には、桜の上に広がっていた青空は赤みを帯び始め、巣に戻ろうと鳥たちが羽ばたいていく姿が見える。
 肌寒くなってきた縁側の戸を吉良は静かに閉め、太陽の名残を浴びる夢主をふり返った。彼女はキラークイーンの腕に全身を預け、すやすやと寝息を立てている。まるで日向ぼっこを楽しむ猫のようにだらしのない姿だった。
「風邪を引かれても面倒だ。……和室に運んでおくか」
 本体の意を受けてキラークイーンは夢主を抱えて立ち上がる。吉良が布団を敷き、その上に夢主を置いて毛布を掛けた。一度眠るとなかなか起きない夢主のためだ。
「まるで子供だな……仕方ない……桜餅は無理だが、何か甘いものでも作ってやろう」
 夢主の髪を撫でた後、苦笑する吉良は“彼女”の手を掴んだ。“彼女”にも料理を手伝ってもらうためだ。
 機嫌の良さそうな本体に続いてキラークイーンも和室を後にする。最後にちらりと夢主の寝顔を見ると、笑みを浮かべる代わりに大きな眼を優しく細めた。

 終



▼蝉時雨
 淡い花びらが散って、代わりに青葉を広げた桜の木では蝉の合唱が鳴り響いている。それと同時に、長い休みを別荘で過ごそうと都心部から来た観光客たちの楽しそうな声までこちらに届いてきた。
「今年の求愛行動は特にすごいね」
「まったくだ。毎年、この時期になるとあの木を切り倒したくなる」
 氷の入ったグラスと麦茶ポットを文机に置いて、吉良は部屋から忌々しそうに木を睨み付ける。今朝も早くから蝉の声に叩き起こされて、せっかくの休みだというのに二度寝することも出来ない。
「えっ、駄目だよ。もったいない。ここでお花見出来るのに」
「我が家を気に入ってもらえて嬉しい限りだ……ところで、それは?」
 彼女が先ほどから足で踏み続けているのは浮き輪を膨らませる空気入れだ。庭に置いた大人一人がやっと入れるようなビニールプールの前で、ひたすらシュコシュコと音を鳴らし続けていた。
「さっきホームセンターで買ってきたの」
「私が聞きたいのは、それをなぜこの庭で広げているのか、ということだ」
「吉影と涼みたいから……水着も買ってきたんだよ?」
 そう言って持参した女物の水着をちらりと見せる。吉良は付き合っていられないと言うような表情を見せて、ポンプを踏み続ける夢主に背を向けた。
「お断りだ。入りたければ一人で入りなさい」
「えー! どうして? この家、クーラーないから暑いでしょ?」
「ここは避暑地だ。海からの風と日差しを遮る木や葦簀のおかげで充分涼しい。何よりクーラーは体を冷やしすぎる。私は嫌いだ」
 健康オタクらしい発言に夢主はプールではなく頬を膨らませた。
「こんなに広い庭を持ってながら遊ばないなんて……」
「誰も遊ぶなとは言ってないだろう。私は入らない、と言っただけだ」
「え……、じゃあ……」
「好きにしなさい。いい歳してプール遊びだなんて……まったく……」
 ぶつぶつ言いながら吉良はそのまま台所の方へ去って行く。一人残された夢主がポンプを踏みつつ、視線を落とした先に黒いサンダルを履いたピンク色のつま先が見えた。
「! 女王様……」
 にこりとも笑わないキラークイーンだが、瞳孔を細めて耳を動かしている時は機嫌のいい時だ。輝くその中に夢主を映しながらゆっくりと太い腕を体に回してくる。
「吉影、怒ってない?」
 大丈夫、というように頬を擦り合わせるキラークイーンに笑顔を見せた。
「素直じゃないよね、本当に……」
 分別をわきまえた大人の態度も、キラークイーンが決して両手では体に触れてこない理由も、夢主の内側に踏み込みすぎて爆弾に変えないためだともう分かっている。“彼女”にはしてくれない彼らを恨めしく思う時もあったが、これはこれでいい関係には違いなかった。
「吉影も女王様も大好き……ね、一緒にプール入ろう?」
 夢主からの誘いにキラークイーンは耳を寝かせ気味に後ろへ引く。大抵の猫と同じく、彼も水は苦手なのだろうか。
(まさかね)
 空気を入れ終えたビニールプールに栓をして、近くの水道からホースを伸ばして水を注ぎ入れる。次第に水かさを増すそれをキラークイーンは縁側からジッと眺めていた。
「着替えてくるから待ってて」
 和室のふすまを閉じて夢主はいそいそと水着に足を通す。可愛すぎず、セクシーすぎない、でも夏の気分を味わえるそれを身に着けて再びふすまを開け放つ。
「……本当に入る気なんだな」
 二人分の箸と薬味を手にした吉良が、険しい表情ですぐ目の前に立っていた。
「あ、お昼の時間?」
「そうだよ。君がお中元にくれた素麺だ。独り身の私に五キロも贈って……嫌がらせか?」
「ううん、一緒に私も食べようと思って」
 悪気のない笑顔に吉良はふっと息を零す。そんな事だろうと思っていた。
「では飽きるまでたっぷり食べてもらおう」
 涼しげな器に盛られた山盛りの素麺に夢主だけが歓声をあげた。


 ちゅるちゅると素麺をすする音だけが吉良邸に響く中、夢主はふと数日前のことを思い出す。
「今度、ぶどうヶ丘高の方にスポーツジムがオープンするらしい。だが、ああいうところの会員ってどうだろうな? 一週間も風呂に入ってない奴がチンポいじった手でダンベルやプールに入ったりするのか?」
 新聞に挟まれたジムの広告を眺めつつ、吉良はそんな事を呟いてた。それを聞いた夢主は吉良の想像にこう返したのを覚えている。
「別に男の人に限らないでしょ? 女だって汗に濡れたブラジャーやショーツとか触る訳だし……」
「いや、それは興奮する」
 真顔で答える彼に夢主は笑って、近くに置かれた“彼女”で彼の頬を撫でてやった。
(そう言えばそんなことも……)
 靴下の裏返しが気になったり、質問を質問で返すと嫌がったり、妙なところで潔癖症を見せる彼なのだから人と一緒のプールもやはり嫌なのだろう。
「シャワー浴びてきたんだけどなぁ」
 ぽつりとこぼした夢主の呟きは、やはり素麺をすする音でかき消されてしまった。

「……? 何だ、結局入らないのか?」
 あれほど喜んで空気を入れたにも関わらず、水を湛えたビニールプールは庭先に放置されたままだ。素麺でお腹を満たした夢主は縁側にごろりと横になって、キラークイーンの太股で昼寝をするつもりらしい。
「もういいの。お腹いっぱいだし、今入ったら冷えちゃうよ」
「……確かに君は食べ過ぎだな」
 吉良は肩を竦めて食器を片付けに掛かる。台所に消える吉良の足音に耳を澄ましていると、それまでジッとしていたキラークイーンが不意に動いた。
「?」
 何をするつもりなのかと夢主が見つめる前で、麦茶が入ったグラスの底から半分溶けた氷を取り出した。それをいくつか空中に投げたかと思うと、次の瞬間にはボンッと爆発して辺りに飛散する。
「冷たい……」
 氷の粒がキラキラ輝きながら夢主の顔に降り注いでくる。一瞬にして涼しさが増すその大胆な方法に目を輝かせてキラークイーンを見た。
「もっとやって」
 せがまれるままに残っていたすべての氷を空中で次々に破裂させた。キラークイーンは無表情で、夢主は無邪気に喜びながらそれを身に受ける。
「ポンポンうるさいと思ったら……キラークイーン」
 台所から戻ってきた吉良にたしなめられてもまったく意に介さない。むしろ、何が悪い? とばかりに夢主の頭を手首で撫でて甘やかしている。
「素敵! やっぱり吉影の女王様が世界で一番格好いいっ」
 広い胸に擦り寄ってスタンドを褒める夢主に吉良は額を押さえる。
「それじゃあ、君にとって私は二番目なのか?」
「吉影は……その、宇宙で一番だから……」
「おやおや、随分と広いスケールだな。君の愛の言葉は」
 そう言ってからかってやると、珍しく照れたのか素早く体を起こして逃げにかかる。
「何だかすごくアイス食べたい!」
「さっき素麺を食べたばかりじゃあないか」
 吉良の声を赤い顔で無視する夢主の背に庭先からブブブと二匹の蝉が近付いてくる。肌に触れるより先にキラークイーンの手によって爆殺され、跡形もなく消し飛んでいった。
「吉影、冷凍庫に彼女が入ってるよ? カッチカチなんだけど」
「仕方がないだろう。この時期は特に腐りやすいんだ」
 これ以上、色々なものに邪魔されないよう簾を下げて扇風機のスイッチを入れる。
「ねぇ、廊下に置いてあるこれ何?」
「蚊帳だよ。見たことないのか?」
「蚊帳!? いいなぁ、一緒に寝てもいい?」
「着替えて手伝ってくれるなら……考えてもいいぞ」
 広い吉良邸に嬉しそうな夢主の声が上がる。
 彼女を見つめる吉良の表情がふっと緩むのを、キラークイーンだけが知る夏の午後だった。

 終



▼白金は揺るがない
 岩にくっついた緑色の水草がゆるやかな水流の中で左右にゆったりと揺れ動いている。
 コポコポと音を立てて循環する水はどこまでも綺麗で淀みがなかった。そこに暮らす魚たちも実に元気そうだ。水質や温度のチェックをきめ細やかにしている承太郎のおかげだろう。彼が一から作り上げたアクアリウムは風情にあふれ、見る者の心を落ち着かせてくれる効果があるようだ。
「ねぇ、承太郎」
 大きな水槽の前に座り込んだ夢主は同じく隣に腰を下ろした承太郎に話しかけた。彼はいつもの学ランと帽子を脱ぎ、シンプルな普段着に身を包んでいる。
「これ、何て言う魚?」
「アプロケイリクティス・マクロフタルマス……ランプアイの仲間だ」
 とても一度では覚えきれない名前に夢主は眉を寄せた。
「そのアプロ……何とかって言うの、すごく綺麗ね」
 銀色の体に光が当たると鱗はメタリックブルーに輝きだす。それらが群泳する美しさに夢主は目を奪われてしまった。それにクラスメートの誰よりも背が高く、誰よりも強面で、女子に大人気の承太郎がまさかこんな趣味を持っているなんて……知っているのは自分だけだと思うと愉快な気持ちになってくる。
「いいなぁ、私も部屋に欲しい……」
「初心者向けの魚だからな……お前にも飼いやすいだろうぜ」
「ホント? 小さな水槽でもいい? もし飼うとしたら承太郎のくれる?」
「別に構わねぇが……飼育できんのか?」
「んー……昔、メダカなら飼ってた」
「繁殖させてからならいいぜ」
 滅多に拝むことの出来ない黒髪を揺らす承太郎があまりに格好いい。ずっと見続けていると目が溶けてしまいそうになる。
「……うん。じゃあ、その時までに用意しておくね」
 ほんのりと頬を染めつつ夢主が再び水槽に顔を戻すと、ガラス越しに承太郎と目があった。いつも人を圧倒する強い眼差しはどこに置いてきたのだろうか。あまりに穏やかで優しい表情に、夢主の心臓は限界を迎えそうだ。
 そうしてひとしきり魚と夢主と揺れる水草を眺めていた承太郎は、座卓の上に置かれた一冊のノートを手に取った。何をするのかと思えば真っ白なページを開いて鉛筆を手に取る。メモでもするのかと夢主が思っていると、彼の背後からスタープラチナが姿を現した。
 凛とした顔立ちに筋骨隆々とした体を持つ彼は、ギリシャ彫刻で描かれる力強い英雄そのものだ。鉛筆を受け取ったスタープラチナは素早い動作でノートに絵を描き始めた。
「すごいね、スタープラチナ。画家になれるよ」
 目の前で瞬時に仕上がったのは二人が眺めていた小魚たちの群れだ。鱗もひとつひとつが丁寧に描き込まれている。人の手なら何日もかかってしまうだろう。
 本体と同じく無口が常な彼は、夢主の賞賛を受けても言葉を発せず、にこりと笑うこともない。代わりに夢主の頭をぐりぐりと撫でてくる。
「……」
 スタンドに頭を撫でられるなんて夢主には初めてのことだ。驚いて承太郎の方を見ると、彼は夢主に背を向け、肩を小刻みに震わせていた。
「あのね、小さな子供じゃないんだから……」
 そう言って恨みがましくスタープラチナを見上げてみるが、彼は至極真面目な顔で首を傾げ、透き通った青い海のような目に夢主を映していた。夢主の言葉を受けて陰りの入った目から、こうされるのは嫌か? と問われているようだ。
「……まぁ、いいけど……」
 部屋に響く承太郎の密やかな笑い声に夢主は眉を寄せつつ、スタープラチナから視線を外した。彼は再びノートを手に持ち、まるで機械のような精密さで魚の生態を模写していった。
「拗ねるのは後にして、こっちを手伝え」
 口の端に笑いを残し、承太郎は夢主を手招く。
「何?」
 空っぽの大きな水槽を前にする承太郎に近づいて夢主は彼の手元を覗き込む。様々な模様の貝殻に、白い砂、星の花が咲いたような色とりどりの珊瑚が並べられていた。承太郎はまた新たなアクアリウムを作るようだ。
「どんな魚を入れるかもう決めてあるの?」
「まだ考え中だ」
 サラサラの砂をすくいながら承太郎は思案する。今のところ夢主の好きな魚を候補に挙げているが、本人に聞いてみないと確かなことは分からない。
「次の日曜、一緒に買いに行くか?」
 そう言った途端、相手はぱっと笑顔を浮かべて背中に飛びついてきた。
「もちろん!」
 勢いそのままに抱きしめてくる夢主の頭をぽんぽんと撫でてやる。思わずスタープラチナと同じ扱いをしてしまったが、本人は嬉しそうに笑うばかりだ。
 すぐに熱帯魚の図鑑とパンフレットを手に取る夢主の向こうで、スタープラチナが承太郎にノートを手渡してくる。
 アプロケイリクティス・マクロフタルマスを実に細やかに描き写したノートを見て満足そうに微笑む承太郎の目に、鉛筆画で描かれた夢主の横顔が飛び込んできた。次のページには眉を寄せた夢主の表情、それから笑顔、苦笑する承太郎自身まで描かれている。
 得意げに鉛筆をくるくると回すスタープラチナを承太郎は無言で睨みつける。自身のスタンドは肩を竦めて煙のようにフッとかき消えてしまった。
「……やれやれ」
 畳の上に落ちた鉛筆を拾い上げ、承太郎はノートを夢主の手が届かない本棚の一番上に置いた。
「ねぇ、承太郎、カクレクマノミとかどう? 可愛いよね!」
 熱帯の海を思わせる、色鮮やかな魚たちが泳ぐアクアリウムが完成するのはもう少し先の話だ。その頃には並んで歩く二人の頭上に、初夏の日差しが降り注いでいるだろう。

 終



▼花嵐
 暖かな日差しが舞い込む縁側を通って、承太郎の部屋に足を踏み入れると、今日会うことを約束していた相手はそこに居なかった。
 バイクや車の月刊誌が並んだ本棚の隣で、静かなモーター音だけが響いている。大きな水槽の中では承太郎と夢主が悩み抜いて選んだ熱帯魚たちが優雅に泳いでいた。
「あれ……承太郎?」
 雑誌から顔を離し、よぉ、と言って出迎えてくれる彼の姿はない。約束の時間より早く来てしまった自分が悪いのだろう。夢主は縁側に腰を下ろし、彼が部屋に戻ってくるのを待つことにした。
 ぽかぽかとした陽気の中をどこからかやってきた蝶がゆっくりと舞い飛んでいく。それを眺めながらジッと待っていると、春のうららかな温もりが夢主の体を包み込んだ。髪を揺らす爽やかな風や水槽から聞こえてくる静かな水音は、まるで眠りへ誘う子守歌のようだ。膝を抱いた夢主が抗えない眠気に首をふらふらさせていると、両側から頭を支えてくる手の感触にびくりと肩を揺らした。
 そこにいたのは承太郎本人ではなかった。彼と同じ厳つい体を持ったスタンドがこちらを覗き込んでくる。
「……スタープラチナ?」
 穏やかな海を思わせる目に夢主を映し込み、心配そうな顔つきで頭を撫でてきた。時々、彼はこうして本体から離れる事がある。スタンドの意志だけで動ける理由は夢主には分からないが、制御不能の暴走状態で無いことだけは確かだ。
「どうしたの?」
 夢主が聞くと、彼は何度も頭を撫でてくる。ふらふらさせていたのが気掛かりだったらしい。
「眠かっただけ。気分が悪い訳じゃないよ」
 その言葉にスタープラチナはようやく手を止めた。目元を緩ませて安堵する顔が承太郎とそっくりで、何だか微笑ましく思った。
「ねぇ、承太郎はどこ?」
 視線を合わせるために屈み込んでいた彼はスッと立ち上がり、大きな手を差し伸べてくる。それに掴まって夢主が縁側から腰を上げると、スタープラチナは手を繋いだまま廊下の奥へと歩き始めた。
 広いお屋敷の母屋から離れへ、軋むことのない廊下を二人で歩く。茶室の屋根が庭の向こうに見えたとき、ようやく夢主が会いたくて仕方のない人物の姿を見つけることが出来た。
「承太郎」
 と呼びかけるはずの夢主の声は、ひらひらと舞い落ちる無数の桜の花びらによってかき消されてしまった。長い学ランの裾を柔らかな春風が揺らして遊び、彼の強面を隠すように薄桃色の花びらが次々に落ちてくる。背後に控えた太い幹を持つ桜と同じく、承太郎もまたどっしりとそこに構えて立っていた。辺りを埋め尽くすパステルカラーの中で、彼だけが水墨画のように静かだ。
「……」
 青空の下で優雅に泳ぐ白い鯉たちを、承太郎は物憂い表情で眺めている。その顔があまりに凛々しくて、声も出せないほどに夢主は魅入られてしまった。
 足を止めて承太郎を見つめる夢主から手を離し、スタープラチナは水面の上をするすると移動した。承太郎がそれに気付いて顔を上げ、廊下の隅に佇む夢主の姿を確認したところで、スタンドは音もなく空気に溶けて消えた。
「よぉ……もうそんな時間か?」
 承太郎はちらりと腕時計に視線を落とす。
「ううん、私が早く来すぎただけだから……」
 惚けていた頭を振って夢主は意識を取り戻した。
「桜……すごく綺麗だね。奥の庭にこんな場所があるなんて知らなかった」
「こっちは離れだからな。この桜も、そのうち散り終えるだろうぜ」
 承太郎は砂利を踏みしめながら池の周りをぐるりと歩き、廊下から桜を見つめる夢主の前へ移動した。
「一人でお花見なんてズルい」
「別に花見してた訳じゃねぇ」
 承太郎はポケットに押し込んでいた魚のエサが入った袋を見せてくる。
「……鯉のお世話をしてたの?」
「ああ。それに、お前が夏祭りですくい上げた金魚の世話もだ」
 承太郎が指差すその向こうでは、尾びれを左右に揺らしながら泳ぐ赤い金魚たちの群がいた。夢主の小さな水槽では飼えなかった彼らだ。承太郎から譲ってもらった熱帯魚とは飼育環境が違うこともあって、この池で預かってもらっている。
「よく食うぜ、お前の金魚……まだまだデカくなりそうだ」
「本当? 鯉の邪魔になる?」
「いや……気にするな」
 承太郎にそう言われて夢主は安堵する。池は広くて大きい。金魚たちものびのびと泳げるこちらの方がきっと幸せだろう。
 そんな風にして空条家で暮らすことが出来る金魚たちを、夢主は少し羨ましく思う。
 ……いや、正直言ってかなり羨ましい。
(いいなぁ、承太郎からあんな風に見つめられて)
 魚に嫉妬するなどあまりに馬鹿らしいが、承太郎から愛情たっぷりに見つめてもらえるのだ。水質に温度、エサや飼育環境の細々とした管理、彼は愛を持って几帳面にそれらをこなすだろう。
 承太郎になら飼われてみたい……そんな夢主の思いを笑い飛ばすように、ホトトギスの軽やかな鳴き声が辺りに響いた。
「……春だね」
「そうだな」
 そう言って笑う承太郎の顔はとても穏やかだ。
 彼は靴を脱ぎ、庭から廊下へゆっくりとした動作で上がり込む。二人の目線が珍しく水平だったのはわずかな間で、夢主はいつものように承太郎を見上げる形になってしまった。
「どうした?」
 彼の立派な立ち姿に夢主が見惚れていると、承太郎は自身のスタンドと同じく、不思議そうな表情でこちらの顔を覗き込んでくる。
 ふと、その拍子に愛用の帽子から花びらがひらりと舞った。他者を圧倒する輝く緑色の目、高い鼻梁、少し厚めの肉感的な唇、男らしい精悍な頬や喉仏……彼のパーツの一つ一つを強調し、彩るようにゆっくりと落ちていく。色男はこの世のすべてを味方につけるらしい。夢主は息を止めてその優美なひとときを味わった。
「……おい、熱でもあるのか?」
「ううん、何でもない……」
 ぐっと眉を寄せた承太郎の顔を前に、夢主は熱くなる頬を押さえて深呼吸をする。相手のことがひどく色っぽく見えるのは、これも春という季節のせいなのだろうか。
「すぐに着替える。部屋の前で少し待ってろ」
「ゆっくりでいいよ。綺麗な庭を見てるから」
 二人で廊下を歩き、承太郎の部屋を目指す。その間を埋める美しい緑の風景に夢主は目を細めた。
「この庭が好きか?」
「もちろん。ずっとここで見ていたいくらい」
 楽しそうな笑顔を浮かべる夢主を、承太郎は帽子の鍔先からちらりと見下ろす。
「好きなだけ見ていけ。何だったら……この家に住んでもいいぜ?」
 いいの? と素直に喜びそうになったところで夢主は口を閉じる。遠回しに嫁に来いと言われているような……とても意味深な言葉に聞こえてしまったせいだ。そんな風に捉えてしまった自分が恥ずかしくて、ごにょごにょと意味を成さない声が漏れた。
「嫌なのか」
「嫌じゃないけど……」
「けど、何だ?」
 見上げた承太郎の顔はいつも通りだ。どれほど暑くても、彼は涼しい表情を崩すことがない。滅多にない冗談にしては意地悪すぎる。熱がこもる顔を夢主は少し不機嫌そうに歪めた。
「承太郎、からかってるでしょ?」
「さぁ……どうだろうな」
 承太郎はそんな夢主の頭をくしゃっと撫でた後、自室に入って白い障子を後ろ手に閉めた。
 着替えの服に手を伸ばそうとして、彼は動きを止める。思わずこぼれてしまった言葉に驚き、焦ったのは他の誰でもない自分自身だ。
「……」
 赤く染まった承太郎の耳を、隣に出現したスタープラチナがニヤニヤと笑いながらつついてくる。
 無言のままそれを睨む承太郎、外の廊下で混乱する夢主……そんな彼らの間を、春を告げる鳥が伸びやかな鳴き声を残して通り過ぎていった。

 終



▼おいしいジャムは真心から
 煙突から立ち上る煙と「お客様次第」と書かれたメニューボードを見て、今日は営業日らしいと確認する。
 この店ではいい食材を使い切った後、仕入れるまでの間が休みに当てられるので決まった定休日が無い。駅前の商店街からは遠く、近所に霊園のある立地条件にも関わらず、それでも一定の客を得ているようだ。世界中を歩いて料理を研究したという料理長の腕がいいからだろう。日本に居ながら本場の味が楽しめるイタリア料理店・トラサルディーのドアを、夢主はゆっくりと押し開いた。
 チャリーンと涼やかなベルが鳴り響く店内には、イタリア製のテーブルが二組しかない。最初は驚いたもののこれがこの店の全てだ。
「いらっしゃいマセ」
 奥から真っ白なコック帽を頭に乗せ、同じく白いエプロンとコックコートを着たトニオが姿を見せた。
「ボンジョルノ、トニオさん」
「おや! 夢主サン!」
 にこやかな笑顔を浮かべてトニオはぐっと握手をしてくる。
「ボンジョルノ! 今日のあなたも素敵ですネ。まるで絵画から抜け出してきたヴィーナスのようデス」
 頬をくっつけて親しげな挨拶をするトニオに夢主は彼の言葉に照れるばかりだ。女性を褒る言葉を彼は惜しみなくストレートに伝えてくれる。それがまた密かな人気でもあった。
「今日はお一人デスか?」
 いつもは会社の同僚や友人とランチやディナーを楽しんでいくのに、珍しく彼女一人だ。
「あの実は……」
 少し困ったようにトニオを見上げ、夢主はぽつぽつと話し始めた。
「今日は私の誕生日なんです……それで、今夜のディナーをこちらのレストランでお願いしたいと思って……もっと早く予約するべきなのは分かってます。でも、ずっと定休日のプレートが置かれていたし、電話もその……繋がらなくて……」
「Oh……」
 いつも太陽のような笑顔を浮かべるトニオの表情が、一瞬で曇り空になる。
「スミマセン……実は、キッチンで新作の料理をずっと作ってまシタ……」
 電話も住居の方に一台あるだけで、それも滅多に鳴ることがない。だから全く気にかけていなかった。そもそも予約を入れてくれるような客は夢主が初めてだ。トニオは申し訳なさと深い喜びで胸が打たれて、はらはらと涙を流してしまう。
「ト、トニオさん!?」
 目の前で泣かれてしまった夢主は、ただただ驚くばかりだ。
「とても嬉しいデス……ああ、この喜びをどう伝えたらいいノでしょう……」
 トニオは再び夢主の両手を握りしめ、真剣な表情で顔を近づけてくる。夢主が思わず仰け反るのにも構わず、彼は熱い眼差しで相手を射抜いた。
「分かりまシタ! 今夜は腕によりをかけて、あなたのために作りマス! さぁ、こちらに座って。まずはランチを始めましょう」
「え? ランチですか……?」
「ええ。ぜひ、ランチを食べてクダサイ。代金はケッコウですよ。シニョリーナを困らせてしまった私からのお詫びデス」
「え、えぇ?! でも……それじゃあ……」
 遠慮する夢主の右手を取って、トニオは素早く彼女の体調を診た。少しの寝不足と肩こり、それから速まるばかりの鼓動……トニオはにこりと微笑むと、イタリア製の椅子を引いて有無を言わせず夢主を座らせてしまう。
「すぐに水をお持ちしマス」
 五万年前の雪解け水のミネラル・ウォーターを取りにトニオは一度、キッチンへと戻っていく。夢主はその広い背中を呆然と見送った。
 彼が作るイタリア料理は絶対に三ツ星が取れると夢主は信じて疑わない。料理に対する姿勢も素晴らしく、どうしてこんなに美味しい料理を作れる人が本場で店を開くことが出来ないのだろうか……夢主にはそれが不思議で残念だった。
「お、おいしい……ッ」
 寝不足が解消された目を見開きながら夢主は体を震わせた。前菜を終えて、次に出てきたカルボナーラを一口食べただけで、そのあまりの美味しさに天国が見えてしまいそうだ。
「あなたに喜んでもらえて私も嬉しいデス」
 微笑むトニオの周囲では彼のスタンドが飛び回っている。ズッキーニとトマトを合体させたような彼らは夢主の肩に止まったり、細い腕をよじ登ったりして遊んでいるようだ。
「いつ見ても可愛いスタンドですね」
 可愛いと呼ぶにはかなり個性的で凶悪な面構えをしているスタンドたちだが、夢主にはそう見えるらしい。東方仗助たちと知り合ってから、スタンド使いの仲間は増える一方だ。喜ぶトニオの心に反応してパール・ジャムたちはますます勢いに乗る。夢主のためにフォークへパスタを巻き付けたり、水のお代わりやワインにジュースまで冷蔵庫から持ってきてしまった。
 夢主は目の前に差し出されたフォークをぱくりと口の中に入れる。
「ああ、とっても美味しい……一人でこんな美味しいもの食べたら、罰が当たりそう」
 そういいながらもパール・ジャムたちがせっせと口に運んでくれるパスタを食べた。あっという間に完食して、それを喜ぶかのようにジャムたちはメッシャアーッと叫びながら皿とフォークを片付けていく。
「すみまセン、慌ただしいランチになってシマッテ……」
「いえ、大丈夫ですよ」
 サービス精神あふれるスタンドたちが二人の間に戻ってくると、夢主の汚れた口の端をナプキンで拭いたり、トニオのコック帽をつついて次の料理に取りかかることを急かしている。
「トニオさんのスタンド、私、大好きですから」
「……Oh……」 
 本体ではなくスタンドというのが少し残念ではあるが、それでもトニオの胸に響いたことに違いはない。パール・ジャムたちはその言葉を聞いて、ぱっと夢主の体に飛びついてくる。ちっちゃな手で抱きしめてくる彼らに夢主はくすくすと笑った。トニオがそんな彼らを引き剥がそうとするより早く、サッと身を翻してキッチンへ飛び込んでいく。何をするつもりなのかと見ていれば、冷やしておいたデザートのプリンを何匹かで皿の底を支えながらテーブルまで運んできてしまうではないか。
「アッ! コラ、待ちなサイ! デザートはメインデッシュの後ですヨ!」
 トニオは宙に浮いた皿を慌てて取り上げた。夢主はまた楽しそうに笑い始める。
「マッタク……」
 浮かれきっている自分の心を見せているようで少し恥ずかしい。トニオはこほんと咳払いをして、笑う口元を隠す夢主を見つめた。
「ランチばかりではなく、ディナーの話もシなくては……何か希望はありマスか?」
「じゃあ……大好きなパスタをお願いしてもいいですか?」
「ええ、もちろんデス」
「辛いけどやみつきな美味しさの、娼婦風スパゲッティーをお願いします」
 ナポリ発祥の歴史あるパスタ料理だ。トニオは同じナポリ生まれのそのパスタに、敬意と誇りを持って作っている。
「分かりました。あなたのために心を込めて作りマス。もちろんバースデーケーキも用意しなくてはネ」
 季節の果物とクリームをたっぷり乗せて、とびきり甘くて素敵なものを作らなくては。トニオの職人魂が熱く疼いてくる。
「その前にランチのメインディッシュですネ。すぐに作ってまいりまスのデ」
 デザートのプリンが乗った皿を手に、トニオは軽く一礼してからキッチンへ戻っていく。彼のスタンドもうきうきしながら夢主の肩や手の上から飛んで行ってしまった。
「……今夜は楽しい誕生日になりそう」
 食べ過ぎて苦しくなりそうな胃のために、薬を用意した方がいいだろうか。
 手の上で子猫のようにじゃれてくる一匹のパール・ジャムを撫でながら、夢主は楽しそうに微笑んだ。

 終




- ナノ -