02


▼怖い怪獣はベッドの中
 歴史ある貴族の館に四頭引きの黒い馬車が到着したのは昨日の夜だ。贅を凝らしたオリエント急行でウィーンからパリの新婚旅行を楽しんだ彼らはそこからイギリスに渡った。大富豪の父を持つ夢主が小さい頃からお世話になっているという貴族に招かれたからだ。
「こっちよ、こっち!」
「ねぇねぇ、早く!」
 可愛らしいエプロンドレスに身を包んだ二人の少女たちに手を引かれながら、夢主は赤やピンク色のバラが咲き誇る庭を駆けていく。
「あまり遠くに行っては駄目よ」
 太陽の光が射し込むテラスでお茶の用意をしていた夫人が子供たちに向けて言った。はぁい、という可愛らしい声が三つもあがる。
「さぁさぁ、是非とも君のレースの話を聞かせてくれたまえ」
 笑顔を浮かべる夢主から目の前の椅子に腰掛けたこの館の主へとディエゴは視線を移した。美髭をたくわえた彼は気品に満ちていて、自分とは全く違う生まれながらの貴族だ。その響きだけでディエゴは反吐が出そうだが上流階級との繋がりは太い方がこの先も有利だろう。
「夫も私もあなたの本に夢中なのよ。いえ、全世界がそうね。サインをお願いしても?」
「もちろん」
 先日、スポンサーの新聞社からレース当時の事を綴ったディエゴの本が出版された。売り切れ続出で新聞社は嬉しい悲鳴を上げているようだ。その売り上げに比例してディエゴの顔と知名度も世界中に知れ渡っていく。
「さて……何から話せばいいものか……」
 サインをした本をパタンと閉じて、ディエゴは麗しい笑顔を作って彼らに微笑みかけた。


 庭を走り回り、遊んで疲れた子供たちがお昼寝をする頃、ディエゴもようやくおしゃべりから解放された。優勝者本人が語る激しいレース内容に興奮と感動を示した彼らを置いてディエゴと夢主は庭の散策に出ている。
「この先も同じ事ばかりを繰り返し話すのかと思うとウンザリだな……」
 だからこそ本を書いたというのに……どうあってもディエゴから話を聞きたいらしい。
「人気者はつらいわね、ディエゴ」
「……まったくだ」
 隣で笑う夢主の手を引いてディエゴはバラに囲まれた小路を歩く。澄んだ水が流れる小川では夢主を抱えて飛び越えつつ、季節の花々が咲き乱れる広い庭をぐるりと見て回った。
「素敵な庭でしょう? でもね、ディエゴ……ここは出るのよ」
 急に声を潜めた夢主をディエゴは静かに見つめ返した。
「何のことだ?」
「妖精と……それから幽霊……」
 自分で言い出した事なのに夢主は自分の体を大きく震わせた。おとぎ話でしか知らない妖精と幽霊が出ると聞かされたディエゴは、プッと吹き出しそうになる。
「あ……信じてないでしょう? でも本当なんだから。私も小さな頃にここで妖精を見たことがあるの」
「へぇ? 緑の帽子をかぶった小人か、それとも醜いドワーフか?」
「もう……私が見たのは透けるような羽を持った小さな妖精よ。執事のテレンスにはよかったですね、って笑われたけど……」
 信じてもらえなかった当時を思い出したのか夢主はふくれっ面を見せる。金と目に見える現実しか信じていないディエゴも執事と同じ苦笑を見せた。
「子供の手のひらより少し大きくてね、虹色の羽がとても綺麗で……でも何だか怖かった事を覚えているわ」
 詳しく説明する夢主の肩を引き寄せようとして、ふと小さな悪戯を思いついた。ディエゴは近くにいた生き物を恐竜化させて前方の茂みに忍ばせておく。ガサガサッと大きな音を立てれば夢主は面白いほどに反応した。
「!」
 ディエゴの腕をぱっと掴んで夢主は息を飲んだ。異形の姿をした小型の恐竜が茂みから飛び出してくると、鋭い悲鳴を上げてディエゴの背中に回った。
「おいおい、ただのトカゲだ。妖精だとでも思ったか?」
「……ほ、本当?」
 怖々と顔を覗かせる夢主にディエゴはもう堪えきれなくなって笑い声を上げた。肩を震わせて何度も笑われると、過度に怯えてしまった自分が次第に恥ずかしくなってくる。
「もう……ディエゴ!」
「次は幽霊を試してみたいな。君が青くなる姿もきっと楽しいに違いない」
「い、嫌よ……妖精ならまだしも、幽霊だなんて……!」
「古い貴族の屋敷だ。幽霊の一人や二人、居てもおかしくない。むしろ居ない方が不自然だろうな」
 にやにやと笑うディエゴの腕に夢主はしっかりと両手を回した。
「本当に出たらどうするつもり? ディエゴが退治してくれるんでしょうね?」
「残念だが、俺は神父じゃないぜ」
 神父や幽霊よりもっとたちが悪い。ディエゴは恐竜たちを呼び寄せ、怪しい鳴き声を辺りに響かせた。再び驚いて身を寄せてくる夢主を促しながらディエゴは庭から屋敷を目指す。なにも知らない夢主が愉快で実に可愛らしかった。
 ……しかし、どうもやりすぎたようだ。夜の静けさが館を包み込む頃、夢主は客間の窓をきっちりと閉め、カーテンを念入りに引いた。いつもなら本を読んでから寝るというのに今夜はそれも諦めたようだ。パジャマに着替えたディエゴが天蓋付きのベッドに腰掛けると夢主もすぐに隣へ潜り込んできた。
「まさかとは思うが、幽霊を……」
「それ以上言わないで」
 真剣な表情でディエゴの口元を手で覆い隠してくる。ディエゴが笑ってベッドから降りようとすると、今度は泣きそうな顔で引き留められた。
「駄目よ、ディエゴ……行っちゃ駄目」
「時計を取ってくるだけだ」 
 テーブルの上に置いたままの懐中時計を指差すと夢主は恥ずかしそうに腕を掴む手を離した。
「案外、怖がりなんだな……幽霊やベッドの下に潜む怪物よりもこの世にはもっと恐ろしいものがあるんだぜ? ……教えてやろうか?」
 にやりと笑うディエゴに夢主は顔を青くしながら首を振る。雰囲気あるこの客間に居るだけで何だか背筋がゾクゾクするというのに、これ以上何も知りたくなかった。
「冗談だ、冗談。おい、本気にするな」
 震えながら胸にすがりついてくる夢主を抱きしめて、ディエゴはその純粋な心をなだめようとする。髪を撫で、額にキスをするとようやく腕の力が弱まった。
「それほど怖いなら寝付くまで起きててやるよ。ほら、今のうちに寝てしまえ」
「うん……」
 ディエゴの言葉に従って夢主はぎゅっと目を閉じる。安心させるようにディエゴは夢主の腕や背中を何度も撫でた。ホッとした表情で眠りに落ちていく彼女にディエゴは苦笑を浮かべる。懐中時計を手に取り、時間を確認すればすでに深夜だ。夢主を抱えたままディエゴも眠る体勢に入ったが……背中側がどうにも寒い。窓は閉め切っているはずなのに、どこからか冷気が入り込んでくるようだ。ちらりと背後を伺えば見たこともない半透明の女が突っ立っていた。
「……フン」
 幽霊らしきその人物にディエゴは恐れることなく恐竜の太い尻尾を叩きつける。Dioと描かれたそれは相手を二つに分断した。霧のように消え去る残骸から目を離し、長い尾をくるりと夢主の体に沿わせる。妖精や幽霊よりもさらに恐ろしい生き物に抱かれている事を知らず、夢主はディエゴの暖かな胸に頬をすり寄せた。

 終



▼天国の扉は閲覧禁止
 外は秋晴れのいい天気だ。灼熱の夏の太陽が去り、過ごしやすくなってきたこの季節を楽しもうと人々は行楽地に足を延ばしている。露伴の向かいの家でも家族で出掛けていく彼らの声が響いてきた。
「……どいつもこいつも楽しそうだな」
 窓際でそんな外の様子を眺めていた露伴は冷たく鼻で笑った後、仕事部屋の床に転がる人物に目を向けた。
 和やかな外の雰囲気はこの一室に入った瞬間に凍り付いてしまいそうだ。一足先に冬を迎えたように寒々しい空気が流れている。それもそのはず、露伴はブチギレている真っ最中だった。
「……前から言ってるだろう? 僕は自分のものに手を加えられるのが一番嫌なんだ。この間だってそうだ。わざと残した小さなベタを担当が勝手に修正したのを覚えてるか? 僕に聞く時間がなかったから、なんてただの言い訳だ。あれは僕の作品だぞッ! 他人が手を加えるなんて僕と僕の作品に対する侮辱もいいところだッ!」
 荒々しい口調で叫んだ露伴は、窓の向こうに映る自分の顔を見てすぐに苦い表情になる。
「そうじゃない……僕が怒ってるのはそういうことじゃなくて……」
 こんなにも感情的になってしまう自分が滑稽だった。
「君が来てからだぞ。どうしてくれるんだ? 僕をこんなにも夢中にさせておいて、君は……君って奴は……」 
 露伴は床の上に倒れ伏した夢主をちらりと見下ろして熱い吐息を吐いた。
 露伴の背後で帽子をかぶったコミカルな少年が本体の感情の落差に戸惑っている。するりと露伴の前に出ると、自分のせいで倒れてしまった彼女を心配そうに覗き込んだ。この後どうするの? と言いたそうに露伴と夢主へ交互に視線を送っている。創造した漫画のキャラクターの姿をしたスタンドから心配されて、露伴はますます表情を固くした。
「夢主……」
 膝を折って頬に触れると、本にされた相手の顔からぱらりとページがめくれた。露伴はそれをなるべく見ないようにしつつ、体を抱き上げて近くのソファーにそっと横たえる。露伴のスタンド、ヘブンズ・ドアーを正面から身に受けた夢主は彼に意識を奪われたままだった。
「僕にだって良心はあるんだぜ? 恋人の心をこっそり盗み見るなんて……この僕が本当にしたいと思うか?」
 部屋の中をウロウロと歩き回りながら露伴は呟く。
 本当は見たくない。彼女の心の中は露伴と同じく恋人のことで一杯……なハズだ。いや、そうでなくてはならないだろう。露伴の心はすでに夢主で埋め尽くされて他の誰かが入る余地は1ミリもないのだから。仕事と恋人だけで埋め尽くされたこの心と相手の心が果たして同じ量なのだろうか? もしも深く愛している露伴の想いは一方的で夢主は「仗助よりは好き」程度だったら……
「いや、そんな事はあり得ない……仗助よりは、だと? あんな奴にこの僕が劣るわけがないだろう」
 そんな事を言いつつも露伴は夢主のページにそっと指を伸ばした。
「君も君だ。あんなイカサマ野郎に話しかけられて、楽しそうにお喋りしてるのが悪いんだぜ」
 それもこの家の前の道路で。思い出すとまたふつふつと怒りがこみ上げてくる。他に憶泰と康一も居たのだが露伴の中では綺麗に消え去ってしまっていた。
 部屋に入るなりスタンド攻撃を受けた夢主が弁明するとしたら、それは露伴の勘違いでこれから遊びに行くという仗助たちに「行ってらっしゃい、気を付けてね」といった日常会話をしたに過ぎない。スタンドを通じて知り合った仲間で、年下の学生の彼らに愛想がいいのは普通の事だろうと思う。
 もし夢主が起きていたら露伴の言い掛かりに呆れ、そして今、心変わりを邪推する彼に怒りを露わにしただろう。
「こんな能力を僕に与えた矢が悪いんだ。恨むならそれを恨んでくれよな。僕だってネタや仕事ならともかく、恋人の心を覗くなんて……好きでやってる訳じゃないんだ。ああそうとも……僕は悪くない」
 長い言い訳を並び立てた後、露伴はごくりと息を飲んでページをめくった。彼の後ろにいたヘブンズ・ドアーは僕は見ないと言う意思表示なのか小さな手で自分の顔を覆ってしまった。
「生年月日や好き嫌いはどうでもいい。もう知ってることだからな……ええっと、どこだ?」
 夢主の生い立ちについてのページをぱらぱらとめくっていると、赤文字で注意書きされたところにたどり着く。
【注意・ここから先は岸辺露伴に関する内容。本人は絶対に読むべからず!】
 ヘブンズ・ドアーの能力を知っている夢主からの警告文を露伴は鼻で笑った。
「ますます怪しいじゃないか」
 露伴は苦しそうに顔を歪ませ、注意書きを無視してページをめくった。
「なになに? 先生を知ったのは康一君がきっかけで……ああ、そういえば確かに康一君が連れてきたのが最初だったな……」
 小さい彼の後ろに隠れるようにしてこちらをじっと見つめてくる夢主を思い出す。
“まさか恋人になれるなんて夢みたい! 仕事してる背中を見てるだけでも幸せ! 邪魔なのは分かってるけど、本当は部屋から出たくないな……”
「いつもさっさと出て行くくせに……」
 心では反対のことを思っていたのかと思うと何だか可愛らしい。露伴はすぐにまたページをめくった。
“今日もまたたくさんの手紙が届いた。人気漫画家だから仕方ないけど、女の人からのは別にしておこう”
「へぇ? そんな事してたのか?」
“仗助くんや康一くんと話してても露伴は知らんぷり。焼き餅くらい焼いてもいいと思うんだけど……この人にはそんな感情ないのかも……”
“康一君と由花子さんが羨ましい! この間、二人がパフェ食べてた! 私も露伴と一緒にパフェ食べたい!”
“露伴がつれなくて嫌になる。この人、仕事しか見えてないし……私が居る必要ってあるのかな?”
「……あるに決まってるだろ。パフェぐらい……言えばいつでも連れて行ってやるさ」
 露伴は少しムッとしながら、さらにページを進めた。
“寝起きの露伴が可愛くて堪らない。ちょっと不機嫌そうな顔もすごくセクシー”
“あのヘアバンドを外すと前髪が落ちてきて鬱陶しそうに払ってる露伴が格好いい”
“ベッドの上で興奮してる露伴を見ると体が熱くなってくる。本当はもっと触れ合っていたいけど、最後の露伴の声が聞きたくていつも我慢できない”
“露伴に大好きって言われるとすごく幸せ。愛してるって言われた時はもう……”
「……おい、何だよそれ……」
 次第に自分の頬が熱くなってくるのが分かる。ものすごく恥ずかしいが、決して嫌ではない。
 少々照れながら露伴が最後のページをめくると、
【ヘブンズ・ドアーを使うくらい不安だったの? 私は露伴の事が大好きだよ】
 その一文を読んで露伴は愕然となった。
「……」
 苦い顔をしつつもどこか安心してパタンと本を閉じた。しばらく眠る夢主の顔を神妙に眺めた後、露伴は静かにペンを取る。夢主の心を写し取った紙の隅に走り書きを残すと、ようやく満足そうに笑った。


「ん……あれ?」
 夢主はいつの間にかソファーの上に寝かされていることに気付いた。不思議そうに首を傾げながら体を起こすと、露伴が仕事に向かう背中が見える。
「……露伴?」
「何だよ……どうかしたか?」
 背を向けて作業を続ける露伴に夢主は首を傾げた。
「私、寝てたの?」
「眠いって言って僕のソファーを占領したのは君だろ」
 そんな覚えは無かったがここで横になっている以上、彼の言葉の通りなのだろう。
「……あ、ごめんね、仕事中なのに……すぐに出るから」
 そう言って慌てて立ち上がり夢主は部屋を出ていこうとする。露伴はGペンを置いてくるりと椅子を回転させた。
「露伴、何か飲む? コーヒー入れてこようか?」
「いや、それよりも……夢主」
 優しく名を呼んで露伴は両手を軽く広げた。まるで子犬でも迎え入れるようなその動きに夢主が目を瞬かせていると、ふらふらと足が勝手に動き始める。
「え?!」
 吸い寄せられるように露伴のところへ歩き、その広げた腕の中に体を擦り寄せてしまった。
「どうした? 今日はやけに甘えてくるじゃあないか」
「そ、そんなつもりは……」
 真っ赤になる夢主の頭を撫でて、露伴はわざとよく聞こえるように耳元で笑ってやった。
「後でたっぷりと相手してやるから今は離れてくれないか?」
「あ、うん……」
 そう言われて体を離そうとしても1ミリも動くことが出来なかった。まるで接着剤でくっつけられたかのようだ。
「あれ? どうして?! ……露伴、何かした?」
 目の前でくすくすと笑う露伴を睨んでみる。“両手を広げている間、露伴に抱きつく”と書き込んだ張本人は楽しそうに笑うばかりだ。
「君も僕も、お互いしか目にないって事がよく分かったよ」
 それを聞いた夢主はスタンド能力を使われたことにようやく気付いた。心を読まれて恥ずかしいのか、それとも怒っているのか……次第に赤くなっていく夢主に露伴は甘い口付けで許しを求めるのだった。

 終



▼アトゥム神は知っている
 日が沈み、夜を迎える頃になって館の窓はようやく押し開かれる。涼しい風が舞い込んでくるのを頬で感じていると、廊下の奥からカツカツと規則正しい足音が響いてきた。この館の執事を任されているテレンスだ。彼は主に持ってこいと言いつけられたのか手にワインボトルを持っている。
「おはようございます、テレンスさん」
 外は夜だが主にはこれからが一日の始まりだ。その活動時間に合わせて寝起きしている部下にとっても夜は朝に等しかった。
「おはようございます」
「えっと……今日は図書室の掃除を行いますね。それから三階の廊下を掃いて、振り子時計のネジを回しておきます」
「分かりました。図書室の掃除は構いませんが、三階は結構ですよ。昨日、私がきっちりと掃除しておきましたからね。もちろんネジも回してあります」
 一人で何でもこなしてしまうテレンスに尊敬の眼差しを向けながら夢主は微笑む。
「さすがテレンスさんですね。えっと……じゃあ図書室を綺麗にしてきます」
 頭を下げて夢主は静かに廊下を去っていく。廊下を曲がって背中が見えなくなるまでテレンスはじっと見守った。
「……図書室よりもキッチンの掃除をお願いしたいですよ……」
 そうすればもっと自分と居る時間が作れるのに……
 テレンスは頭にぽつりと浮かんだ言葉に咳払いをしつつ、慌てて消し去った。
「いえ、単にコンロの油汚れが酷くてですね……そう、それだけです。決して私が一緒に居たいと思ったからではなく……」
「……テレンス、一人で何を言っている?」
 いつの間にか階段にいたアイスが訝しそうにこちらを見下ろしていた。テレンスはさっと表情を無くして、何でもない、と言うように首を横に振った。
「DIO様にワインを届けに来ただけです」
 アイスの横を素早く通り抜け、テレンスはDIOの寝室に足を踏み入れた。アイスが片付けたらしく、いつも女の遺体が転がっているそこに命の残骸は欠片もなかった。
「DIO様、ワインを……」
 差し出したそれを受け取る者も居なかった。血の香りと共にわずかにシーツが乱れているので、つい先程までこの上で寝ていたのだろう。主の姿を探して振り向くとアイスが立っていた。
「DIO様は居られぬ。本をご所望だ」
「……本?」
「図書室で読まれるのだろう。そちらにワインを持ってこいと……」
 アイスの言葉を最後まで聞かずテレンスは部屋から飛び出した。階段を駆け下りて図書室に向かうと、ドアをノックする前に一度だけ大きな深呼吸をする。慌てて駆けてきた事を誰にも知られるわけにはいかない。
「テレンスです。DIO様がこちらに居ると聞いてワインを持ってきました」
 抑えた声でそう告げて中に入ればロウソクの明かりの下でハタキを持った夢主と目が合う。彼女は払っても払っても増え続ける蜘蛛の巣と格闘中のようだ。
「あ、テレンスさん」
 部屋の中には夢主一人のようだ。どこにもDIOの姿はない。どこかホッとしてテレンスはボトルをテーブルに置いた。
「すみません、もうすぐ終わりますから」
「ここはもう結構です。さぁ、早く次の仕事に向かって下さい。今日のご飯の当番はあなたでしょう?」
「あ、はい。そうでしたね……じゃあ、」
 ハタキを止めて夢主はテレンスの横を通り過ぎる。ドアをくぐり抜けようとしたところで夢主の顔はひどく筋肉質なものにぶつかった。
「……!」
「む……? 夢主か……。前をよく見て歩け。私ではなく壁だったらどうする気だ?」
 この館の主であるDIOに色っぽく笑われて夢主は頬を染める。
「すみません、DIO様……気を付けます」
「それはそうと、この部屋を綺麗にしてくれたのはお前か?」
「はい……まだ途中ですけど」
 そうか、と言ってDIOは人差し指で夢主の髪に付いた蜘蛛の巣を払う。部屋の奥に佇んでいる執事が拳をぎゅっと握りしめるのを見て、DIOは愉快そうに笑った。
「なるほど……。お陰で気分良く読書に励める。褒美をくれてやろう」
「いえ、そんな……DIO様のお役に立てるなら私は掃除ぐらい……」
 美しい顔が間近にある事よりも、相手の偉大さに恐縮してしまった夢主はさっと顔を伏せた。
「欲のない奴だ……なぁ、テレンス?」
 DIOはちらりと執事に視線を向ける。からかうように夢主の髪を撫でると、テレンスは毒でも飲んだかのように苦しそうな表情を浮かべた。
「二人とも出て行け。私は一人で読書がしたい」
「はい、失礼いたします」
 DIOを残して図書室のドアを閉めると、まるで不出来な夢主を責めるようにテレンスが睨んできた。
「私……DIO様に失礼なこと言っちゃいました?」
 思わずそう聞きたくなるほど執事の顔は真剣味を帯びていて恐ろしかった。
「……」
 テレンスは無言で夢主の腕を掴んで足早に廊下を行く。キッチンへ夢主の体を押し込むと、テレンスはシンクに両手をついて、はぁ、と長い息を吐いた。
「ごめんなさい、テレンスさん……」
 そんなテレンスを見て夢主は顔色を変えて謝ってきた。
 しかし、彼女は何も分かっていない。DIOが女の生き血を主食にしていること、例えスタンド使いだとしても主の気まぐれによって命を失いかねないこと。そうならないためにテレンスがいつも気にかけてDIOとはち合わせないようにしていること……そして何よりもテレンスは夢主の事が好きで堪らないという事を。
(まったく……いっその事、私のスタンドを貸してやりたいくらいですよ)
 相手の心がYESとNOで読めるアトゥム神を使ってテレンスにただ一言、質問すればいい。「あなたは私が好き?」と聞かれたらテレンスの心は声高らかにYESの文字で埋め尽くされるだろう。相手が自分と同じ心を読めるスタンドでは無いことを今だけは残念に思った。
「……夢主、あなたはDIO様をどう思っていますか?」
 彼女はテレンスの言葉に戸惑いながら聞き返してくる。
「どう……とは?」
「DIO様を敬愛していますか?」
「ええ、それはもちろん……でなければここにいません」
 テレンスは相手に分からないよう静かにスタンドを出した。機械的で無機質な目を持ったアトゥム神は夢主の体の隅々までをサーチする。
「……これまであなたには厳しく接してきましたが、それを恨んでいますか?」
「いえ、そんな……私が至らないせいでテレンスさんに迷惑を掛けている事はよく分かっていますから」
 戦闘向きではない夢主のスタンドは他の仲間たちからも馬鹿にされ続けている。どんなスタンド使いも大事にするDIOの言葉がなかったら夢主はこの組織の中で立場を失っていただろう。
「確かに、仕事を早く覚えて欲しいとは思っています。でも、その……それだけではなく……ほら昔から言うでしょう……?」
 好きな子ほどいじめたい。テレンスの教え通りに必死で働く夢主が単に可愛すぎるのがいけないのだ。失敗したときに浮かべた美しい涙を見たその瞬間からテレンスの心は捕らわれてしまった。
「私はあなたが好きなんです」
 突然の告白に夢主は目を大きく開いた。とても信じられない事を聞いてしまったかのように呆けている。
「あなたはどうですか? 私が嫌い? それとも……好きですか?」
「えっ!?」
 慌てふためく夢主の心を見るのは今までで一番楽しかった。YESとNOが激しく入り乱れている。その内、YESの部分が増えていく様を楽しそうに眺めていたテレンスは小さく笑った。
「私とDIO様ではどちらが好きですか? 私とアイスでは?」
「そんな次々に聞かれても困りますっ……」
 混乱する夢主を見るのはとても楽しい。テレンスは新たな遊びを発見したかのように酷くいやらしい笑みを浮かべた。
「そうですね、ではもっと質問を簡潔にしましょう」
 それまで預けていたシンクから身を離し、テレンスは夢主にゆっくりと近づいていく。少し怯えた表情がやはり堪らなかった。
「夢主、あなたは私とキスをしたいですか?」
「ええっ?!」
 驚きすぎて夢主の心には何も浮かんでこない。
「DIO様にもアイスにも、誰にも渡しません。私の恋人になって下さい」
 赤くなった相手の頬に口付けてテレンスは耳元で低く囁いた。必ず手に入れると決意を固めたテレンスには、相手の返答がYESだろうとNOだろうと、もはやどちらでも構わなかった。
 テレンスはアトゥム神を消し、
「……本当に?」
 と聞き返してくる夢主の体を強く抱きしめる。
 そのうち、そろそろと背中に回されてくる細い腕にテレンスの心は歓喜に満ちた。

 終



▼オシリス神も知っている
 いつも厳重に塞がれている窓を大きく開き、空に輝く太陽を取り込むとそれまで漂っていた闇が消えた。明るい光の中に塵や埃が舞い上がるのを見たテレンスは手にした掃除道具でそれらを外に追い出していく。
 妖しく美しく、圧倒的な存在を放つ主はアメリカの友人を訪ねて不在だ。今こそが闇と血に濡れた館内を清潔にする唯一のときだった。
「ヌケサクは塔の上に閉じこめましたからね。今日はこのまま空気を入れ換えるとしましょう」
 カーテンと窓を次々に開けてそれまでこもっていた死臭を外に解き放つ。その場に転がった主の食べ残しを廊下へ引きずり出し、汚れた床をモップで磨きにかかった。
「ひどい汚れだ。もっと片付けやすいところで食事をしてくれれば私も助かるというのに……」
 小言を呟きながら乾き始めた血糊をゴシゴシと擦り落とす。
 数十分後……汚れと格闘し続けたテレンスは消毒され磨き抜かれた床に満足し、モップとバケツを抱えてようやく部屋を後にした。
「あとはシーツの交換と洗濯ですね」
 残っている仕事を手早く片付けてしまいたい。すべてはその後に待ちかまえる自由時間のためだ。与えられた私室でゲームや手芸に興じる楽しいひととき……最近ではそれに加えて恋人との逢瀬が待っている。
(今日は何のゲームをしましょうか)
 対戦型のパズルゲーム? それとも格闘? 野球とレースも捨てがたい。夢主はこれまで一度もテレンスに勝ったことはなく、また勝てる見込みも無いが……それでも少しずつ腕を上げてきている。
 何より二人きりで過ごす時間は心の癒しだ。上司と部下という以前の関係から考えても、確実に二人の仲は親密になったという自負がある。
「お茶とケーキを用意して、それから……」
 浮かれきっているテレンスの足がふと遊戯室の前で速度を落として止まった。
「ああ、また負けてしまった……今日の私は運が悪いらしい。それとも目の前の素敵なお嬢さんが強すぎるのかな? もしかして君もギャンブラーだったりするのかい?」
「……もう、そんなわけないじゃないですか」
「本当に? この柔らかくてしなやかな手はこちらの業界向きなんだがね」
 テーブルに置いた夢主の手を男の指がするりと撫でていく。
「プロのダービーさんほど上手くなれませんよ」
 カジノディーラーらしい清潔なシャツにベスト、渋い口ひげを生やしたダニエル・J・ダービーは自他ともに認める超一流のギャンブラーだ。
「プロだって? おお、嬉しいことを言ってくれる。こちらはサービスだよ」
 スッと投げられたカードを夢主が受け取り、手持ちのカードに加えるといつの間にかストレートフラッシュが出来上がっているではないか。暇につきあってくれと言われて相手をしているが遊ばれているのはこちらの方なのだろう。
「すごい! 私、こんな手を持ったのは初めてです!」
 それでも楽しいのは事実で、夢主が素直に喜ぶとダニエルはにっこりと優しい笑みを見せた。
「ディーラーがこの仕事で何を一番嬉しく思うか、君は知っているかね?」
「……掛け金の計算ですか?」
「フフ、残念だが不正解だ。答えはお客さんの驚きと笑顔……まさに君が今、私に見せてくれたものだよ」
 そう言ってまたするすると指を伸ばし夢主に触れようとする。次の瞬間、その手の甲に向けてモップの柄が振り下ろされた。
「おいおい何をする? これは私の大切な商売道具なんだぞ?」
 攻撃をサッと避けたダニエルは、ドアから飛び込んできたテレンスにおどけた口調で話しかけた。
「……これは失礼。近くに不快な虫が飛んでいたもので」
 テレンスはしれっと答えてモップをバケツの中に戻した。それから二人をジロリと睨みつける。
「私が汗だくになり、一生懸命になって仕事に励む中、あなたたちはここでゲームですか? 何とも優雅なことですねぇ」
 皮肉たっぷりの言葉に夢主は慌ててカードを置き、上司モードになったテレンスをそろそろと見上げた。
「ごめんなさい、テレンスさん」
 申し訳なさそうな表情がテレンスの心を妖しく引っかいていく。密かに加虐心をそそられながら、それに気づかない振りをして今度は兄を睨んだ。
「おお、怖い怖い……我が弟ながら何と恐ろしい表情だ。それでは彼女が怯えてしまうだろう?」
 肩を竦めたダニエルはカードを集めて素早く整えた。
「私がゲームに誘ったのだ。どうにも暇だったのでね……だがテレンスが来た以上、残念ながらゲームは終了のようだ」
 自分がここに現れなければ先ほどのセクハラ行為を続けていたのだろう。そう思うと次第に頭に血が上っていくのが分かった。
 昔、同じようにガールフレンドにちょっかいを出して嫌というほど殴られた記憶をもう忘れているらしい。今回はモップとバケツという武器まで手元にある。まずはどこを殴ってやろうかと密かに狙いを定める彼の前で、夢主がテレンスの手をそっと握りしめてきた。
「テレンスさん、本当にごめんなさい。でも……もう少しだけ続けさせて下さい。お願いします」
「……仕方ないですね」
 触れ合った温もりにテレンスは張り詰めていた力を抜いた。渋々と椅子を用意して夢主の隣に腰掛ける。
「一回だけですよ。用事はまだたくさんあるんですから」
 兄に構う時間があるならそれをこちらに割り振ってほしい。早く二人きりになりたい気持ちを堪えつつ、兄が再び配り始めたカードを眺めた。
「それにしてもあなたがカードゲームとは珍しい。苦手でしょう?」
 難しい駆け引きが得意ではない彼女には苦戦ばかりだろう。そう思うテレンスだったが夢主は微笑んでテーブルの隅を指差した。
「ダニエルさんが手加減してくれていますから……それに勝者への賞品が欲しいんです」
「ほう、賞品ですか」
 白い封筒に包まれたその中身は何だろうか。厚みはないので札束や貴金属ではないらしい。彼女が欲しがる物がどうしても気になり、指を伸ばし確かめようとしたところで邪魔が入った。
「テレンス、それは勝った者だけが手にするものだ」
 ムッとする弟に笑みを返し、ダニエルは封筒を自身の懐へ納めた。
「これまで負け続きの私だが、弟が来たからにはそろそろ本気を出すことにしよう。もう手加減は出来ないが……それでもいいかね、お嬢さん?」
「そんなぁ……ダニエルさんに本気を出されたら勝てませんよ」
「可愛い子にそう言われるとオジサンも弱ってしまうなぁ……」
 情けない表情をする夢主に、ダニエルはデレデレとしたいやらしい笑みを返す。そんな兄をテレンスは冷たく見つめて、
「私が手を貸します。存分にどうぞ」
 と切り捨てた。
「手伝ってもらえるんですか?」
「もちろん。でなければあなたに勝機はありませんし、このまま兄が勝つだけの勝負を眺めるなんて苦痛ですから」
 辛辣な現実を伝えるテレンスに夢主はそれでも嬉しそうに腕を抱きしめてきた。いい気分のままゲーム続行を促すと、その向かい側でダニエルは実に面白くなさそうな表情で背後にスタンドを出現させた。
「……仕方がない。だが、お嬢さんにも賭けてもらいますよ」
「はい」
 テレンスが止める間もなくオシリス神の指が夢主の体に伸びていく。ひとすくいした魂の欠片は粘土細工のようにこね回されて、数枚のコインとしてテーブルの上に落ちた。
「テメー……何やってるか分かってんのか、このクソ兄貴ッ!!」
 言い終わるより先に再びモップを振りかぶったテレンスは相手の頭上めがけて振り下ろす。ダニエルはそれを避けようとして椅子から転げ落ち、したたかに尻を打った。
「待って、テレンスさん! 落ち着いて下さい!」
 夢主は大慌てでテレンスの体にしがみつき、それ以上の暴力を押し止めようとする。魂を奪われたはずの彼女が自由に動けることを知ってテレンスはモップを床に投げ捨てた。
「あなたも! そう簡単にハイと言うんじゃあないッ!」
「ご、ごめんなさい!」
 険しい表情で詰め寄られて夢主はぎゅっと目を瞑る。テレンスはその肩を抱きしめて、椅子へ座り直すダニエルを強く睨んだ。
「安心しなさい、魂のほんの一部だけだ。全ては奪っていない」
「当たり前だ。そうしていたら今頃は殴り倒している」
「まったく……」
 ふぅ、と息を吐いてダニエルはカード配りを再開する。テレンスたちも椅子に座り直してそれを手に取った。
「魂を賭けるほどあの賞品が欲しいのですか?」
 夢主に聞いた質問をダニエルが答える。
「不公平になるからな。私は賞品を用意したがお嬢さんは何も持っていない。魂の一部だけなら安いものさ」
 ダニエルはチップを集めてそれをテレンスに手渡した。
「フン……」
 何度見ても兄の趣味は分からない。会話が出来ないものを収集して何が面白いのか。まぁ、少なからず……夢主の顔をして目を閉じたコインは可愛いと思うし、手元に置きたくなるのも頷ける。だがやはり微笑みかけてくれる本人が一番だ。
「こうして自分の魂を見るのも面白いですね」
 のんきなことを言う夢主にため息をついて、テレンスは堂々と自身のスタンドを出した。アトゥム神の目がこちらに向くのをダニエルは苦い表情で迎え撃っている。
「さて……私が参加するわけですから、こうなることも予想は付いていますね? では早速……」

「イカサマをしましたか?」
“YES!”
「わざとこちらにブタを揃えましたね?」
“YES”
「そちらはストレートフラッシュですか?」
“YES”
「夢主の事を可愛いと思っていますね?」
“……YES!”
「まさか、私から奪うつもりですか?」
“YES……NO……YES……”

「……いい度胸だ。今すぐ歯を食いしばれ。あの時の痛みを思い出させてやるッ!」
 お互いのトランプが宙を舞い、テーブルと椅子が同時に引き倒された。
「冗談の通じない奴め! それでも私の弟かッ!」
「そう言う自分こそ少しは歳を考えたらどうだッ!」
 逃げるダニエルと拳を振り回すテレンス、ドタバタと暴れ始めた兄弟を前に夢主はしばらく呆気に取られてしまった。
「お嬢さん! これでこの男の本性が分かっただろう? 絶対に苦労するぞッ! 今なら間に合う、やめておけ!」
 ダニエルは夢主の体の後ろにサッと回り込み、掴みかかってくるテレンスを避けながら彼女の耳元にそんな忠告を残す。
「テレンスさんはとても頼りになる素敵な方です。もちろんダニエルさんも」
 それを聞いた兄弟はぴたりと動きを止め、次第に増えていく頬の赤みをお互いに隠しきれなくなってきた。兄を叱りたいが今すぐにでも彼女を抱きしめたい……そんな葛藤に揺れ動くテレンスの前でダニエルは素早くドアへ走り寄った。
「途中までいいゲームだった。また君が一人の時にお相手願うよ」
 ヒラヒラと手を振る姿が見えなくなったところでテレンスは溜息を吐く。わざとらしい咳を二回してから夢主を引き寄せて抱きしめた。
「一人になんかさせません。兄と話すときは私も同席させること。いいですね?」
 相手の胸の中で夢主は嬉しそうに頷きながら、ダニエルに呼び止められた時のことを話しておくべきだろうか……と思い悩んだ。
 テレンスと仲良くしているのか? 弟は色々な意味で手が早いから心配だ。ゲームや人形に夢中で君を悲しませたりしていないだろうか……そんな質問内容を聞けばきっとテレンスもこれまでの態度を改めるに違いない。ただ、その答えに夢主が幸せです、と笑顔を浮かべると
「フム……それはそれで悔しいな……。どうだろうお嬢さん。一つ私とゲームをしてみないか? もし君が勝てたなら、ここに私が持っているテレンスの恥ずかしい写真を見せてあげよう。おねしょをして泣くのもあれば、自分で散髪に挑戦した無惨な姿もある。どれも小さい頃のものだが一見の価値はあると私は思うがね……」
 という口車に乗せられて夢主は遊戯室でカードを手にした。
「チップは……元に戻っていますね。まったく、もう二度としないように」
 心配する彼を見上げると、しばらく見つめ合った後でゆっくりと顔を近づけてくる。夢主がそれに応じようとした瞬間、二人の顔の間に白い封筒が挟み込まれた。
「!」
 視界の端に佇むのはダニエルのオシリス神だ。特徴あるチップ型の指で封筒を持っている。夢主が手にしたのを見届けてオシリス神はフワッと宙に溶けて消えた。
「それがどうしても欲しかったという賞品ですか?」
「……はい。でも、テレンスさんに見せるのはちょっと……」
 そう告げた途端、彼の眉がぴくりと動いた。
「私に見せられないような物に魂を賭けたのですか?」
 返答に困る夢主の背を押してカードが散乱する遊戯室を後にした。向かうのは地下の私室だ。主も居ないことだし、今日はもうこのまま休んでしまうことに決めた。
「……いいでしょう。ゲームで手に入れたものは同じくゲームで奪うのが私の流儀です。付き合ってもらいますよ」
 本気のテレンスを相手に夢主の勝率は一体どれほどあるだろうか。
「長くなりそうですね……先にお茶とお菓子を用意しませんか?」
 暗い廊下で迷うことなくお互いの手を掴む。スタンドを使わなくても二人の気持ちは一つだし、勝敗のゆくえもきっとこれまでと同じだろう。

 終



▼白い恋人たち
 窓の外ではきっと雪が降っているに違いない。
 そう思って結露でかすむガラス窓を拭えば、予想した通りに大粒の涙のような雪が空からはらはらと落ちてくる。大通りに面した夢主の部屋からは店先にツリーの飾り付けを行う店員の姿と、近くの教会で聖歌隊が練習するクリスマス・キャロルが聞こえてくる。冬を迎えたイタリアはいつも通りのようだ。
「うー……寒い!」
 ヒーターが部屋中を暖めてはいるものの、窓際はやはり寒々しい。体を震わせくしゃみをした夢主の背後でバタンッと大きな音が響く。この部屋のもう一人の住人が帰ってきたらしい。
「うぅ……クソ寒ぃ」
 夢主と同じ事を呟き、ダイニングテーブルにいくつかの買い物袋をドサドサと置いた。
「おかえり、ギアッチョ」
 彼の頬におかえりのキスをする。仕事で何かと忙しい彼がこんなにも近くにいてくれる嬉しさで夢主はギアッチョの体をぎゅっと抱きしめた。
「おう……」
 夢主の体からあふれ出る想いを感じて、ギアッチョも満更ではなさそうに抱きしめ返した。
「外、寒かったでしょ? あれ……でもそんなに冷たくないね?」
 雪を払い落とそうと、本人が気にしている癖毛に指を伸ばしてみたが濡れた様子はなく乾いていた。北風に晒されたはずの頬も冷たいどころかとても暖かい。夢主の頭をくしゃりと撫でてくる手もそうだった。
「当たり前だろ。俺にはコートよりも便利なモノがあんだよ」
「あ……そっか。いいなぁ」
 分厚いコートの代わりにスタンドで出来たあのスーツを身に纏っていたらしい。
「おい、もっと強くしろよ。これじゃあ凍っちまう」
 ホワイト・アルバムを解除したギアッチョは体温を奪っていく寒さに身震いし、アパートメントの各部屋に備え付けられているオイルヒーターのスイッチを強めた。
「テメーも病人なら病人らしくしろ! チッ、元気そうにしやがって……」
 額を軽く小突かれてしまった。夢主は誤魔化すように笑ってリビングのソファーに腰掛ける。ギアッチョは買ってきた牛乳やトマト、たっぷりの野菜に肉を袋から取り出して空っぽの冷蔵庫に押し込んでいった。
「ごめんね、ギアッチョ。代わりに買い物行ってくれて……そんな優しいギアッチョが大好きだよ」
「ケッ、嫌味にしか聞こえねーぞ!」
 殴りつける勢いで扉を閉めると中の瓶たちが文句を言うようにガチャガチャと擦れあう音が響いた。そんな照れ隠しをする彼を夢主はクスッと笑う。
「えーっと……それで夕飯は何にしようか? ギアッチョ、何買ってきてくれたの?」
「お前がいつも買うようなモンだよ。適当でいい」
 風邪を引いて数日寝込んでいた夢主だが、料理するくらい元気になったのならもう安心だろう。ギアッチョはお揃いのカップにコーヒーと砂糖をドバッと入れてポットの中の熱い湯を注ぎ入れた。
「あ、ギアッチョ、早く! もうすぐ始まるよ!」
 テレビを付けた夢主はキッチンでコーヒーをすするギアッチョを手招く。サッカーの試合の次に大好きな推理ドラマのオープニングが流れている。二人は今これに嵌っていて毎週欠かさず見ているのだ。
 呼ばれたギアッチョはすぐにやってきて夢主の隣に腰を下ろした。ローテーブルに並んだ二つのカップからゆらゆらと白い湯気が立ち上っている。今日は穏やかな時間を過ごせそうだと夢主はほっと息をつき、甘えるように体をくっつけた。
「前みたいにクソなトリックじゃねぇだろーな。今度、あんなの放送しやがったら電話じゃすまねぇぞ」
 身を寄せてくる夢主の肩を抱きつつ、面白い時とそうでない時の落差が大きいこのドラマにギアッチョは舌打ちをする。彼は前回の内容のあまりの酷さに電話口で延々と文句を垂れて、最後には受話器を真っ二つに叩き割ってしまった。
「コマーシャルになったらジェラート持ってくるね。ギアッチョは何の味がいい?」
「チョコかバニラだな……まぁ何でもいい」
「ん、分かった」
 不意打ちでちゅっと頬にキスをすればギアッチョは苦々しい表情になる。決してコーヒーのせいではない。愛されることに慣れていない彼はただ不器用なだけなのだ。その少し戸惑うような横顔が可愛くて夢主の胸は愛しさで一杯になってしまった。
「チッ……さっさと持ってこい。始まるだろーがッ」
 すぐ側から慈しむような目で見つめられて、ギアッチョは居心地悪そうに悪態をついた。


 荒々しい運転で郊外の大型スーパーに車を乗り付けたギアッチョは一緒に着いてきた夢主と共に家電売り場の前に立っている。旧型の安い物から新型のお高い物まで、ずらりと並んだテレビに夢主はうーんと唸った。
「たくさんあるから悩んじゃうね……この際だから大画面の格好いいヤツにする?」
「……何で休日にわざわざこんなところまで……」
 折角の休みが潰されてギアッチョは大変ご立腹のようだ。
「ギアッチョがテレビを壊したからでしょ」
「お前だって喚いてたじゃねーか! クソォ、あのドラマはもうぜってぇ見ねぇッ!」
「だからってカップを投げて壊すこともないと思うけど……」
 夢主は肩を竦め、ついさっきゴミ捨て場に投げ込まれた哀れなテレビを思った。ギアッチョはキレるとすぐに物にあたるのでその矛先にされる家電たちの寿命はとても短い。あのテレビがこれまで無事だったのは奇跡的なことなのだ。
「すぐ壊されるんだし、もうこれでいい?」
「好きにしろッ」
 夢主が指差すテレビを見ずにギアッチョは財布を投げて寄越す。分厚い札束が入ったそれで支払いを済ませると、乗ってきた車の後部座席に押し込んでギアッチョは再び車のエンジンを荒っぽく吹かせた。
 そうして部屋にテレビが戻ってくるとギアッチョはすぐにあれこれと設定をいじり始める。夢主は包装のゴミを片付けながら今回は何日持つだろうかと思案する。せめて一週間くらいは持ってほしいものだ。
「ギアッチョ、夕飯前だけどピッツァ食べるー?」
「おう」
 彼はリモコンを握りしめ、テレビの説明書を読むことに夢中になっている。まるで新しいおもちゃを買ってもらった少年のようだ。夢主は小さく笑ってそんなギアッチョを見守ることにした。
 一つのテーブルで向かい合って食事を取った後はすぐに冷えてしまう風呂に慌ただしく入浴し、ヒーターの前で暖まりながら本日二個目になるジェラートをサッカーの試合を見ながら食べた。
「ウォオオーッ! 見たか、今の!? スッゲーッ!」
 ひいきのチームがまさかの逆転勝利を決めるとギアッチョは興奮も露わに絶叫して、隣にいた夢主に飛びかかってきた。床に落ちてしまったスプーンとジェラートには目もくれず、ギアッチョは夢主を抱え上げてぐるぐると回転し、再びソファーに倒れ込むと勢いそのままに口付けてきた。
「んん!? ギアッチョ……!」
 目が回ってくらくらしているというのにギアッチョはお構いなしにキスを降らせてくる。騒いだ拍子でカップが倒れ、真新しいリモコンを濡らしてしまった事にも気付いていない様子だ。
「久しぶりの快挙ってやつ? やったね、ギアッチョ!」
「おう、最高の気分だぜ。よし、ビールで祝杯を挙げるとするか!」
 鼻歌交じりで足取り軽く、ギアッチョは冷蔵庫を開け放ってビールを二本取り出した。
「お前も付き合え」
「ギアッチョ、飲み始めると長いからなぁ……」
「ケッ、お前が弱いだけだろーが」
 勢いよくビールを傾けるギアッチョに苦笑して夢主も手渡された瓶に口を付けた。気分のいいギアッチョを見ているだけで楽しくなってくる。この勢いだと二人とも二日酔いかな、と思っていたら……
「明日、早いからな……今日は一本だけにしておくか」
 そう言って名残惜しそうに冷蔵庫の扉を閉めてしまった。
「え……!」
「仕方ねぇだろ。プロシュートがまた女で揉めてるんだ。俺はヤツの代わりとしてリーダーに呼ばれてる。まぁ、この埋め合わせはたっぷりと返してもらうがな」
 もう少し一緒に居られると思ってたのに……夢主は表情を曇らせ、項垂れてしまった。このままではプロシュートを恨んでしまいそうだ。
「何だよ、そんなに俺と一緒に居たいのかぁ?」
 けらけらと笑いながらギアッチョがからかうと夢主は真っ直ぐに見つめ返してきた。
「ずっと一緒に居たいよ……だってギアッチョのこと好きだから」
 これまでこの性格のおかげで色恋沙汰に縁の薄かったギアッチョは、途端に顔を赤くさせて少々乱暴に酒瓶をテーブルに叩き付けた。
「こ、この馬鹿……何言ってやがるッ」
「え? だから、ギアッチョの事が大好きだって」
「何度も言うなっ!」
 それ以上、聞くに耐えられなかったのか慌てて夢主の口を手で塞いでくる。恋人同士なら愛を囁き合う事が普通のこの国で、珍しく耐性のない彼は頬を真っ赤に染めて睨んできた。
「……ギアッチョ、可愛い」
 押さえ込んでくる手の中で夢主はそう呟いた。いつもは些細なことでキレて怒鳴り散らしているくせに、愛の言葉にとっても弱い彼が可愛かった。何度も言うと本当に怒り出しそうなので夢主は言葉を諦めるしかない。
 その代わり邪魔なメガネに指を伸ばし、そっと取り上げてテーブルの端に置く。相手の首に腕を回すと夢主はギアッチョをぎゅっと抱きしめた。
「クソッ……テメー、腹の中で笑ってねぇだろーな……笑ってたら殺すぞ」
 物騒なことを言うギアッチョを抱きしめながら夢主は相手の唇に愛情たっぷりの情熱的なキスをした。


 明かりを最小限にまで落とした寝室で不意にパチリと小さな音が響いた。その音で目が覚めた夢主はベッドの中でもぞもぞと動く。
「んだよ……トイレかァ?」
 隣で眠っていたギアッチョまでも起こしてしまったようだ。
「ごめん……ヒーターが切れたみたいだから……スイッチ入れ直してくるね」
 眠そうな彼の耳へ静かに告げて、夢主はパジャマと共に脱ぎ捨てたバスローブに手を伸ばす。今はまだ余熱で暖かくとも、朝まで持たないはずだ。眠くて重たい体をのろのろと動かしていると、ギアッチョの腕が伸びてきた。
「行くな、ここに居ろ」
「だけど……」
 夢主だって本当は起きたくない。このままギアッチョと共にベッドの中でまどろんでいたいのが本音だ。
「行くなって言ってるだろーが」
 ぐっと強く体を引き寄せられ、相手の胸の中に顔を埋めることになってしまった。素肌をさらけ出しているギアッチョの胸板に手を置いて夢主はちらりと相手を見上げる。
 メガネを外したギアッチョはぼやける視界の中で夢主の顔を探し出し、唇に噛み付くようなキスを落とす。ベッドから動けないように足を絡められては夢主も諦めるしかない。
「また風邪引いたら、ギアッチョのせいだからね」
「……ウルセェ」
 ギアッチョが眉間に皺を寄せて呟くと同時に夢主の体はぬくぬくとした暖かな空気に包み込まれた。彼のスタンド、ホワイト・アルバムが発動し、二人の体を覆っているようだ。
 そんなぎこちない優しさに夢主は笑顔を浮かべる。
「ギアッチョ、愛してる……」
 嬉しくなって甘えるように小さな声で愛を告白すれば、きつく抱きしめられてしまった。
 明日の朝、街が雪に覆われ寒さがますます厳しくなっても、抱き合う二人だけは何も知らず暖かな夢の中を漂っているに違いない。

 終




- ナノ -