たくさんのキス


▼DIOとキス
 特に何もすることがない夢主は月明かりが差し込むテラスで、カイロの夜景をぼんやりと眺めるのが日課になっている。素人にも容赦しないテレンスとのゲーム対戦では絶対に勝てないし、無口なアイスとはそもそも会話らしい会話をしたことがなかった。
「夢主、本は好きか?」
 不意にそんな声がかけられた。夢主が驚きながら振り向くと、ドアの横に館の主のDIOが立っていた。
「本?」
 DIOがこちらに来いと手招いている。興味があるような、ないような……それでも誘われるようにして彼のその手を取った。階段を下りて一階にある図書室へ夢主は初めて入った。掃除も何もしていないのだろう、辺り一面が埃と蜘蛛の巣だらけだ。
「ひぇ……っ!」
 油断しているとすぐにその糸が顔に張り付いてくる。夢主が慌てて手で払いのけるのを、DIOは笑みを浮かべて愉快そうに見ていた。
「何でもある。好きな物を選んで読むがいい」
 壁一面にびっしりと並んだ書物の多さに夢主は目を見張った。ここも埃にまみれているが、状態はかなり良さそうだ。
「読書用のランプと椅子もここにある」
 DIOがランプを灯すと、暗闇の中に一人がけの大きな肘掛け椅子が浮かび上がった。その光を頼りに夢主は身長を遙かに超える本棚を見上げてみる。夢主には難解そうな天文学、物理学、哲学に医学書、それから子供にも親しまれているアンデルセンやグリム童話まで、本当に様々な種類の本があるようだ。
「DIOはいつも何を読んでるの?」
「私か?」
 DIOは夢主のいる書架まで近づいてくると、その背後にあるいくつかの背表紙を指でなぞった。獣のように尖った爪先が、まるで愛撫するかのようにスッと横へ動いていく。精神論について書かれたそれらを一通り愛でた後、DIOの美しい爪はその延長上にあった夢主の頬に触れた。
「色々と読むが……今はこれに興味がある」
 肌の柔らかさを確かめるように爪を少しだけ押し込む。それから手のひら全体で覆い、むにっと優しく揉んだ。
「いひゃいよ、でぃお」
 相手に頬が囚われているので夢主は上手く言葉に出来なかった。DIOは指をすべらせると、夢主の顎を掴んで少し上へと向けさせる。
「可愛い奴め」
 大きな身を屈め、麗しい顔の角度を少し曲げたDIOは夢主の唇にそっと口づけを落とした。柔らかくて、少し冷たいキスだった。
「……ウソ」
 キスをされて夢主が最初に発した言葉がそれだ。DIOは呆れたような顔で見下ろしてくる。
「嘘ではない、真実だ……軽すぎて分からなかったか?」
「だって、今の……私のファーストキス……」
 夢主がそう告白すると、DIOはまた愉快そうにニヤリと笑った。
「そうか」
 ぺろりと唇を舐める仕草を見て夢主の体温が急上昇した。赤くなる顔を隠そうとすると、DIOの手が伸びてきて体ごと後ろの本棚に押しつけられてしまう。
 緊張と恥ずかしさで固まる相手にDIOはまた体を屈めてくる。金色の髪が額に触れてくすぐったい。閉じられた目蓋から伸びる相手のまつげの長さと、凛々しい眉毛しか夢主には見えなくなった。
「……もはや本を読むどころではないな……来い」
 DIOの腕に引き寄せられて、一人がけのソファーに二人で腰掛ける。相手の膝上で横になっている状態に夢主はもう目眩がしてきた。
「あの、DIO……!」
 慌てて降りようとするとまた頬を引っ張られてしまった。
「お前の最初から最後まで、すべて私の物だ」
 その言葉を聞いて動きを固める夢主に、DIOは幾度となくキスを落とす。
 そんな風にして戯れる彼らの言葉は、蜘蛛の糸の隙間をすり抜け、古書たちが眠る部屋に満ちていった。

 終



▼ディエゴとキス
 小高い丘のさらにその向こうまで、緑の絨毯に覆われた牧草地が広がる田園地帯を一頭の白い馬がゆったりとした速度で駆けていた。馬上には騎手の姿をしたディエゴと、ひるがえるドレスの裾を押さえながら彼に背中を預ける夢主の姿があった。
「もっと早く走らないの?」
 いつも力の限りコーナーを回る、荒々しくも芸術的な走りを見せる彼にしては穏やかすぎる歩調だ。
 後ろを振り返る夢主の腰をしっかりと抱いてディエゴは笑った。
「そんなに振り落とされたいのか?」
 落馬は痛いぞ、と言いながら少し不満そうな夢主の頬へキスを贈った。
「外でこんな……はしたないわよディエゴ」
「フン……ここはまだ君の領地だ。誰かに見られても別に構いやしないさ」
 そう言うや今度は頬ではなく、ぐいっと顔を向けさせて強引に唇を奪っていく。夢主は首を痛めやしないかと思いながら、体に回されたディエゴの腕に自分の手を重ね合わせた。
「……積極的ね」
「君が美しいからな」
「お世辞も上手だわ」
 夢主はくすくすと笑って背中に感じるディエゴの胸に身を預ける。若く逞しい胸板がそれを揺るぎなく抱きとめた。
「……初めてのキスがあなたで嬉しい」
「初めて?」
「大勢のファンがいるあなたと違って、今まで浮ついた話はないの」
「嘘つけ。この前のレースの時、他の男と話してたじゃないか」
 それを咎めるようにディエゴは後ろから顔を覗き込んできた。夢主は嬉しそうに微笑みかける。
「そうだった? でも体も唇も、一度だって男に触れさせたことなんか無い。ディエゴだけよ」
「……そうか。それはいい。何ならもっと試してみるか?」
 誘うような目がどうにも色っぽい。すでに婚約者として屋敷に出入りしているディエゴだが、これでは先が思いやられそうだ。
「少しだけなら」
 その言葉を聞いてディエゴは馬の歩調をさらに落とし、青々と生い茂る牧草地が見下ろせる丘の上で夢主の唇にちゅっと音を立ててキスをした。それから啄むように優しく何度も重ね合わせてくる。
 目だけで意地悪く笑うディエゴが夢主の視界のすべてを覆って、背後に広がる青空さえ見えやしない。うっとりと目を閉じれば、二人分の吐息と馬が首を振る音だけが丘の上で響いている。
 そのうちディエゴの唇が離れていく気配を感じて夢主が再び目を開けると、相手は楽しそうな笑顔を見せていた。
「お嬢様、キスのお味はいかがでしょう」
 執事の真似をしておどける彼の腕を夢主は軽くつねってやる。
「イテテ……何だ、嫌だったか?」
「まさかでしょ? 素敵よディエゴ……腹が立つくらいにあなたは素敵なのね」
「褒めてるんだよな、それ?」
 夢主は笑ってディエゴの腕の中に身を寄せる。相手の鼓動が暖かく、唇に残る柔らかさが心地良かった。
「ディエゴ、屋敷に戻ってお茶にしましょ」
「気分転換はもういいのか?」
「ええ、もう十分。次はちゃんと乗馬服で乗らなきゃね」
 ドレスをずっと押さえつけていないと、足下から捲り上がってしまう。
「俺はこっちの方が好きだな……なかなか色気のある足首でそそられる」
「……ディエゴって本当にはしたないのね」
 夢主の呆れた声にディエゴは笑った。
「そんな俺とキスした君も同罪だと思うぜ」
 夢主の頬にもう一度口づけると、ディエゴは手綱を引いて馬首の向きを変える。笑い合う恋人たちを乗せたシルバー・バレットは、遠くに見える屋敷に向けて軽やかに走り出した。

 終



▼ジョルノとキス
 気怠い午後からの授業に生徒の誰もがやる気を見せず、だらだらとした空気の中で授業を聞いている。一番後ろの席にいる夢主は眠気と戦いながら、しかしそれにあっさり負けた。立てた肘に頬を預けていたがバランスを崩してがくりと落ちてしまう。その拍子に机の上から消しゴムが落ち、隣の席にまで転がっていった。
「わ……ごめんジョルノ、消しゴム取ってくれる?」
「いいですよ」
 椅子を引き、ジョルノは床の上にあった消しゴムを拾い上げた。
「ありがとう」
 夢主の手にそれを乗せると同時に、ぐっと手首を掴んでくる。体を引き寄せられたと思った次の瞬間には、ジョルノの唇が自分のとくっついていた。柔らかく、でも歯が当たって少し痛い。
「な……ッ!」
 驚きのあまり夢主は椅子から転げ落ちた。ガタンッと大きな音がして黒板に向かっていた先生と他の生徒たちが何事かと振り返る。
「どうしました?」
「えっと……け、消しゴム……落としちゃって……」
 夢主にはそれだけ言うのがやっとだ。授業が再開された後、夢主がちらりと隣を見れば、ジョルノは笑顔を向けてきた。混乱のあまり教科書で顔を覆い隠したが、ジョルノの忍び笑いが聞こえてきてますます訳が分からなくなった。

「さっきはすみません。居眠りするあなたの顔があまりに可愛くて……我慢できなかったんです」
 夢主は口に含んでいたジュースを吹き出しそうになった。青空が広がるカフェテラスの一角で夢主は同級生のジョルノと向かい合っている。
「我慢って……あのね、いくら格好いいモテモテのジョルノでも、やって良いことと、しちゃ駄目なことがあると思うの」
 何とかジュースを飲み込んだ夢主は、いつも女の子に囲まれているジョルノに詰め寄った。彼はお日様の光を浴びてキラキラした目に夢主を映しこんでいる。
「そうですか?」
 勝手に人の唇を奪っておいて、少しも悪いと思っていないような態度だ。実にふてぶてしい。
「そうだよ! 私のファースト、返してよっ」
「ああ、やっぱり初めてでしたか……」
「やっぱりって何よ、いいから返して!」
「返して、と言われてもね……」
 ジョルノはくすくすと楽しそうに笑うだけだ。何だろうこの温度差は。夢主は歯軋りしたくなってくる。
「しかも何で授業中? もっと素敵な場面をイメージしてたのに……!」
「例えば?」
「例えば……? そりゃあデートの後とか、公園とか、遊園地とか……もっと素敵な場所で……」
 何でこんな事を女友達でもないジョルノに話しているのだろう。夢主は馬鹿馬鹿しくなってくる。
「とにかく……もう心臓に悪いことは止めてよ。面白半分でもこっちはビックリする、んっ」
 話している途中でぐいっと後頭部を掴まれ、再びジョルノの顔が目一杯に広がった。この状況はついさっき体験したばかりだ。
「ん、んん……っ!?」
 初めての時のような触れ合うだけの、生やさしいキスではなかった。執拗に唇を啄まれ、さらには舌まで潜り込んでくる始末だ。慌てた夢主が顔をよじって逃げ出さなければ、ジョルノの舌を思い切り噛んでしまうところだった。
「あなたが好きです。好きだからキスしたいと思った」
 この野郎ふざけんなッ、と夢主が叫ぶより先にジョルノがそんな告白をする。
「じゅ、順番が逆……!! それを先に言ってよ……ッ!」
 半ばまで振り上げた手のひらを夢主はばたりと力なくテーブルに置く。ジョルノはにこにことした笑顔でその手に自分のを重ね、
「では、さっそくですがデートをしましょう。あなたの望む初めてのキスシーンをやり直したい」
 今更、どう足掻いても初めては授業中のキスになるのに……ジョルノはそんな事を提案してくる。
「……私の返事は聞かないの?」
 あまりに自信たっぷりな彼はふられることなど想定していないようだ。
「あなたから愛されるよう、努力は十分にするつもりです」
 目の奥に揺るがない情熱を宿しつつジョルノは甘く微笑んだ。それを見た夢主は、どうしても高鳴ってしまう心臓を押さえて身悶えする。
「まるで子猫のように可愛いあなたが僕は大好きですよ。愛してます」
 夢主は悔しさと恥ずかしさのあまり、その不可解な構造の前髪を引き千切ってやりたくなった。

 終



▼承太郎とキス
 売り場で一目惚れした水着が着たいがために夢主は海に来ている。夏休みを迎えた海水浴場は人で賑わっているようだ。かき氷に焼きそば、アイスにジュース、浮き輪とビーチパラソルが並ぶ海の家を夢主はボンヤリと眺めた。
「本当ならあれに乗ってぷかぷか浮いてる予定だったのに……」
 夢主が選んだ可愛い水着は、男物の大きなパーカーによってそのほとんどが隠されている。それを着させた相手は、自分があちこちから女の目を引き寄せている事に少しも気付いていないようだった。
「おい、そっちはどうだ?」
 承太郎が手に持っているのはバケツで、中に入っているのは色とりどりの巻き貝と小魚たち。まるで海に遊びに来た少年のようだ。それでも承太郎は見上げるほどに背が高く、厳つい雰囲気の彼を少年と呼ぶには無理がある。そもそも彼は高校生だ。
「んー……まだあんまり」
 夢主は空っぽのバケツを見せた。海水浴を楽しむために来たはずが、いつの間にか海の小さな生き物を見つけることになっている。夢主は溜息をついた。
「岩の影に隠れていることが多い。行くぞ」
 上手く捕まえられないことへの溜息ではないのに、承太郎はそんな勘違いをしたようだ。彼らしくて何だか笑ってしまった。
「承太郎、ちっちゃなカニ捕まえて」
 目の前に広がる大きな背中を見上げると、彼の首筋にはいつだって星が瞬いている。夢主がその不思議なアザに気が付いたのは、実を言えば今日だ。休日は承太郎の家で勉強を教え合ったり、借りてきた映画のビデオを見たりしてのんびりと過ごしている。デートらしいデートも今日が初めてだった。
「カニか……」
 真剣な目でカニを探す承太郎に夢主はついつい頬が緩んでしまう。要望通り、岩陰に隠れたカニを探す承太郎の隣に夢主もしゃがみ込んだ。寄せては引いていく波が夢主のお尻を撫で、濡れた砂が足の間で転がるのがくすぐったい。
「見つかりそう?」
「……ああ、これでいいか?」
 大きな手が海水を掬いあげる。彼の手の中には三センチほどの本当に小さなカニが捕らわれていた。
「かわいいっ」
 承太郎の手から夢主のバケツの中にカニが転がり込んでくる。笑顔を見せると、承太郎も少しだけ頬を緩めた。
「すごいね、」
 承太郎、と名前を続けるつもりだったのに、不意に唇が塞がれて言葉が途切れた。強く押しつけるようなキスを受けて夢主は砂浜の上に尻餅をついてしまった。
「……」
 驚いた表情で見上げてくる夢主が面白かったのか承太郎は小さく笑った。夢主はそのまま砂の上に座り込んで、波にさらわれるパーカーの裾を手で握りしめる。
「……何で、今なの?」
 これまで、同じ部屋にいても抱擁はもちろん、キスすらしたことがなかった。どれだけ近くで勉強しても承太郎は一切触れてこない。それが寂しく、またそんなことを思う自分が恥ずかしかったので、夢主も理由を聞いたことはなかったが……本当にどうして今なのだろう。
「お前がそんなの着てくるからだろ」
「そんなのって……これ?」
 ファスナーを下ろして買ったばかりの水着を覗き込む。承太郎はすぐにファスナーを元に戻した。
「……俺の理性を壊す気か?」
「えっ」
「何でもない。行くぞ」
 ぐいっと腕を引かれて砂浜から引き起こされる。誰もが見惚れる背中を見せて、承太郎はズンズンとひたすらに前を歩いていく。
「承太郎、どこに行くの?」
「帰ってさっきの続きをする」
 彼の言葉に夢主は持っていたバケツを落としてしまった。その拍子に小さなカニは再び海の中に戻っていく。
「そ、それ、本気? ……冗談?」
 滅多に冗談を言わない承太郎の貴重な言葉なのだと思いたかったが、振り向いた彼はとても高校生とは思えないセクシーな笑いを浮かべ、
「すぐにわかる」
 と耳元で低く囁くではないか。腰に響くその声に夢主は再び砂浜へ座り込んでしまいそうになった。

 終



▼承太郎ともう一度キス
 腰に巻いた帯をギュッときつめに締められると、背筋が立って姿勢が良くなった気がする。
「あら! とっても可愛い!」
 夢主に浴衣を着付けてくれたホリィは手放しで褒めてくれた。
 夏休みも残すところあと数日となったある日、空条家に遊びに来た夢主は、最近、着付け教室に通い始めたホリィに捕まった。笑顔で通された和室では、すでに母親の手によって浴衣を着せられた人物がちらりとこちらに視線を向けてくる。
「お前も捕まったか……」
 黒地に細い縞が入った浴衣に白い角帯が彼の腰を彩っている。ハーフの彼は背が高く、目の色も緑がかっているというのに、それでも和装が似合うのはやはり承太郎だからこそだろうか。懐から煙管を出して吸い始めたとしても、まったく違和感がない。むしろ任侠映画のトップスターになれそうなくらいはまり役だ。
 そんな承太郎の普段見れない格好いい姿に夢主が惚けていると、ホリィがその後ろでウフフと笑っているのが見えた。夢主を驚かせるための作戦が上手くいって喜んでいるようだ。
「さぁ、次は髪を飾りましょ」
 頬を染めた夢主は手を引かれてホリィに連れて行かれてしまう。彼女たちが去った後、あぐらをかいた承太郎はやれやれと呟いて、青い空に浮かぶ入道雲を眺めた。


「そうしていると……まるでお見合いをしてるみたいね」
 和室で向き合う恋人たちを見てホリィはクスッと笑った。その笑い声を遮るかのように承太郎はぴしゃりと障子を閉めてしまう。ホリィから受け取ったお茶と和菓子の乗った盆を座卓に置いて、承太郎は短いため息を付いた。
「……食べるか?」
 と差し出されたわらび餅に夢主は首を振った。
「ううん、この浴衣を汚したくないから……」
 きな粉や黒蜜が布の上に落ちたりしたら大変だ。ホリィが貸してくれた浴衣を夢主は絶対に汚したくなかった。
「お前の好物だろ?」
「そうだけど……」
 承太郎は夢主の隣に片膝を立てて座ると、黒蜜がたっぷりかかったわらび餅を一つ摘まみ上げて紅を塗った夢主の唇に寄せた。食べろ、と言うことなのだろう。夢主が仕方なく口を開ければ、中に転がり込んでくる。
「美味いか?」
 夢主が頷くと承太郎は目元を緩めて笑った。
「……!」
 以前、二人で海に行ってから彼は夢主の前でだけよく笑うようになった。凛々しい顔立ちの承太郎に、優しい緑色の目で笑いかけられると心臓が止まりそうになる。夢主は彼に見つめられただけで餅を喉に詰まらせてしまうところだった。
「慌てて食わなくても全部お前のだ」
 承太郎は冷えた緑茶を手渡しながら、むせる夢主を楽しそうに眺めた。
「おふくろの趣味に付き合わせて悪かったな。だが結構似合ってるぜ」
 白地に青と薄紫の藤の花が楚々として咲き垂れている。深い紫色の帯を締めた夢主は、承太郎の言葉に少し視線を下げて礼を言った。
「あ、ありがとう……」
 嬉しくて照れてしまった夢主の赤いうなじを承太郎は指を伸ばして撫でた。水着姿といい、浴衣姿といい、夢主の様々な姿を見れることが承太郎は楽しくて仕方がない。このままずっと独り占めしていたいとすら思う。熱い眼差しで間近から見つめられて夢主は慌てたように言った。
「今夜の花火大会、楽しみだね。きっとすごく混むと思うけど……承太郎は平気?」
 今夜は友達と遊びに行くから夢主ちゃんを連れて花火大会に行ってらっしゃい、母親からそう言われた事を思い出して承太郎は曖昧な表情になる。混むのは別に構わないが……夢主の麗しい浴衣姿を他の男に見せたくないと思うのはさすがに子供じみているだろうか。
「お前が迷子にならなきゃ平気だろうよ」
 夢主の顎をつかんで少し上を向けさせると、承太郎は軽いキスを落とした。二人の間で甘い黒蜜の味がして今度はそれを舐めとるように舌を出す。ぺろりと表面をくすぐれば夢主は赤い顔をしてその場に固まってしまった。
「いい加減、慣れてもいいと思うがな……」
 一度目は海で、二度目はその海から帰ってきて家の前で別れる時に。これでまだ三度目の口付けだ。大好きな承太郎からキスを受ける度にあまりの幸せで呼吸が苦しくなる。
「まだ無理だよ……」
 恥ずかしそうにする夢主の髪を撫でた後、承太郎は女の滑らかなうなじに額を寄せた。大きな体を寄り添わせて、承太郎は夢主の匂いや体温をそこから感じ取る。花火よりもお前を見ていたい。そう思ったが言葉にはせず、畳の上で震えている夢主の手に自分のを重ね合わせた。
「承太郎……」
 どうしていいのか分からず、困った声で名を呼んでくる夢主に愛しさばかりが募っていった。


 夜空に向かって祭り太鼓と笛の音が高らかに鳴り響いている。その下で多くの人たちが屋台を覗き見ながらゆっくりと練り歩いていた。
「承太郎、楽しいね」
 隣に並んだ夢主は家からずっと笑顔だ。渋い浴衣姿の承太郎は下駄を軽やかに鳴らしつつ、そんな彼女の言葉にそうだな、と小さな返事をした。
 途中、夢主が大好きだというりんご飴を買い、二人は花火会場に向けて歩き始める。海に流れ込む川の両岸はすでに大勢の人で埋め尽くされて、結構な賑わいを見せていた。子供たちが騒ぐ声や、恋人たちが囁く声、酔っぱらったおじさんの鼻歌や女子学生たちの楽しそうな声……それらの様々な音が辺りに響いたドォンという大きな音で一瞬静まりかえり、次には歓声に変わった。
「始まったようだな」
 次々に花火が打ち上げられていく様を承太郎は目を細めて眺めている。夢主はそんな彼の表情に魅せられるばかりだ。感情を露わにしない承太郎は無関心で冷淡のように見えるが、実はとても熱くて優しい心を持っている。それを垣間見れることが恋人に与えられた特権のようで嬉しかった。
「綺麗……」
 美しい花火を承太郎の横で鑑賞できる喜びに浸って夢主は時間を忘れて魅入った。
 しかし終わる頃になると華々しく打ち上がる花火とは裏腹に、夢主は寂しさを感じ取る。これが終われば承太郎と会うのは新学期になるだろう。
「……」
 無言で相手の袖口を掴むと、承太郎はちらりとこちらを見下ろしてきた。慌てて離そうとする夢主の指を捕らえて、彼は大きな手の中に包み込んだ。
「明日も来るか?」
「……行ってもいいの?」
「ああ。バイクでどこかに出掛けてもいいし、お前とダラダラ過ごすのも悪くねぇ」
 嬉しそうな笑顔を見せる夢主に承太郎も優しい笑みを返す。いつしか花火が終わり、帰路に付き始める人混みの中でも、二人は手を繋いだまま終わりゆく夏を楽しんでいた。

 終



▼露伴とキス
 露伴と付き合い始めて今日で三ヶ月。
 夢主はカレンダーを眺めながら、しみじみとその流れ去った時間を思う。最初の一ヶ月は露伴の家で仕事をする彼の背中を見つめて過ごした。二ヶ月目は彼が取材に行くと言うので、それに付き合ってあちこちをウロウロした。三ヶ月目は漫画の資料集めのために多くの図書館を巡った。おかげで奇妙な知識は増えたが、どれもこれも日常には役立たないものばかりだ。
「……何か違う気がする」
 一例として夢主は康一と由花子のカップルを思い浮かべてみる。彼らは自分たちの家を行き来し、登下校も一緒だ。日曜は二人でデート。そうでなくても放課後はカフェ・ドゥ・マゴで一緒に甘いパフェなんか食べちゃってる。
「康一君、はい、あーん」
「由花子さん……あの、ちょっと恥ずかしいです」
 なんて言いながらも康一は口を開けるのだ。その時ほど涙を流して羨ましがる億泰の心境が理解できた日はない。
「露伴先生、遊園地や映画館の取材はしないの?」
 少しでも恋人らしくみえるような場所に、と思ってデートに最適なところを提案してみる。
「参考資料ならそこの棚にある」
 露伴はペンを走らせる手を休めずに言った。仕事に集中したい露伴の気持ちが分かっているので、それは別に良い。別に良いのだが……それでもやっぱり何か寂しい。
「あ、そうですか……」
 そもそも取材や資料のために外に出かけるのが間違っているのだ。夢主はデートがしたい。恋人らしい付き合いがしたい。カメラとスケッチブックを持って、楽しそうな露伴の後を着いていくのもいいが、本当は手を繋いで並んで歩きたい。一緒に何かを通して遊びたかった。
 カリカリと絶え間なくペンの音が響いて、時にそれが止んだかと思うと 毛筆に持ち替えてベタやら集中線を引きにかかっている。今、露伴の恋人は夢主ではなく線画で埋められていく原稿用紙だ。
 あんなに見つめてもらえて羨ましい……そんな事を思う自分に夢主は小さな溜息をついた。
「……先生、コーヒー入れるから台所借りるね」
「夢主」
 不意に名を呼ばれて振り向くと、ペンを置いた露伴がこちらを見ていた。
「え? 紅茶がよかった?」
「違う。いいからここに来いよ」
 椅子を引き、机から体を離した露伴が手招いている。不思議に思いながらも近づけば、彼は黒く汚れた指先で夢主の手首を掴んできた。
「なに?」
「君が外に出かけたいのは分かったから、溜息をつくのだけは止めてくれ」
「あ……ごめんね。気を付ける」
 気持ちを見透かされていて恥ずかしかった。うつむく夢主に露伴は、
「ちょっと耳を貸せ」
 と言って手首を引いた。夢主が素直に露伴の口へ耳を寄せると両手で頬を挟まれ、気が付いたら露伴の唇が押しつけられていた。
「!」
 夢主は驚きのあまり悲鳴をあげそうになる。
「ふぅん……キスってのはこんな感じか……いいね。君の唇も柔らかいし反応も面白い」
 その言葉に呆気にとられる夢主を置いて、露伴はもう一度口づけてくる。今度は押しつけるだけでなく、夢主の唇の感触を味わい、その時の反応を探るかのようにジッと見つめてくるではないか。耐えきれず目を瞑ればキスはますます深みを増していく。最後に唇を舐められ、軽い音を立ててから離れていった。
「まぁ、こんなものか」
「露伴……っ」
 足から力が抜けて夢主はぺたりと床に座り込んでしまった。
「……これも取材の一つ?」
「まさか。したいと思ったからしたんだ。僕はそこまで無粋じゃない」
 困ったように笑って座り込んだ夢主の頭を撫でてくる。
「正直なところ女の扱い方がよく分からない……僕は漫画さえ描ければ、他はどうでもいいような人間だからな。だけど、その……上手く言えないが……こう見えても君のことは大事に思ってる」
「それは恋人として?」
「……ン、まぁ……そうだよ」
 赤く染まっていく露伴の頬を夢主は信じられない思いで見上げた。そうやって照れる姿を見せられては、こちらも顔に血が上ってくるではないか。
「そうじゃなきゃキスなんかするか」
 苦い顔をした露伴がちらりと夢主を見下ろすと、彼女の頬にはインクの汚れとスクリーントーンの切れ端がくっついていた。
「あと少しで終わるから、大人しく待ってろ」
 露伴はそう言って笑うと、汚れていない指を伸ばし、真っ赤に染まった夢主の頬からぐいっと汚れを拭き取った。

 終



▼リゾットとキス
 窓の外に見えるのは白い雪で、夢主の大好きな太陽は厚い雲の上に隠れて見えない。コートを着てマフラーを巻いても足りないほどの寒空だ。外に出ることを諦め、暖かい部屋の中でソファーに腰掛ける。するとホルマジオが預けていった猫が夢主の膝の上に飛び乗ってきた。
「飼い主よりもお前の方が好きなようだな」
 すぐ隣で雑誌を読んでいたリゾットが喉を鳴らしはじめた猫をちらりと見る。
「私がご飯あげてるからね。それで懐いちゃったのかも」
 そう言って笑いながらリゾットの肩に頭を乗せると、すぐに大きな手が伸びてきて夢主の頭をくしゃりと撫でた。
 外がどれだけ寒くてもこの部屋にいる限りは暖かい。そうでなくても隣にリゾットさえいれば夢主は満足だ。
「リゾット、夕飯どうしようか?」
「お前が食べたいもので構わない」
「うーん、何を作るにしても材料が足りないんだよね……あとドルチェも」
「そうか……それは深刻だな……」
 しかし彼らの視線の先にある窓は冷たい北風を受けて身を震わせているように見える。リゾットは夢主とこのまま寄り添っていたいし、夢主もあの寒空の下に出るのは億劫だ。猫だって夢主の暖かい膝から降りるのは嫌だろう。
「どうしようか」
「……宅配ピッツァでも取るか?」
「えー、そんなの食べるくらいなら自分で作るよ。でも肝心のトマトが無いんだよね」
「それは困ったな」
 お互いが顔を見合わせた後、クスッと笑う。
「行かなきゃいけないのは分かってるんだけど……」
 膝上で眠る猫のぬくもりが心地良く、どうしても押しのけることが出来ない。リゾットの肩から伝わってくる体温も同じ理由で離れがたかった。
「もう少しだけ、いい?」
 額を擦り寄せると、了承の言葉の代わりにリゾットの長い指が髪の間に潜り込んでくる。かき混ぜるように撫でられても夢主には嬉しいだけだ。彼は乱した髪を直すと、笑顔を見せる夢主の顔を覗き込んでくる。
「リゾット?」
 何だろうと思って顔を上げればそのままお互いの唇が柔らかく触れ合った。驚く夢主の目にリゾットの長いまつげが映りこむ。それが薄く開いたかと思うと夜を思わせる彼の黒目とかち合った。
「……」
「嫌だったか?」
 夢主はその言葉に何度も首を横に振る。
「嬉しいよ。だってリゾット、何もしてこないから……」
「大事にしたいだけだ……お前の初めてを少しずつ楽しみたい」
 いきなりすべてを味わってはきっと自分を抑えられない。今だって愛しすぎて胸が苦しいのに、すべてを知ったら幸せのあまり心臓発作で死んでしまいそうだ。
「もう一回してくれる?」
「……買い物はどうする?」
「後でいい。もう宅配でも何でもいいから」
「お前の好きなドルチェは……」
「そんなのよりリゾットが好き」
 次は軽く触れ合うだけでは終わらないだろう。それでも愛しい人からのもう一度、という誘いを彼が断れるはずがない。
 相手の胸に飛び込んでいく夢主の膝上から猫が転がり落ち、非難するように短く鳴いた。

 終




- ナノ -