03


 短いお茶会の後、DIOは運び入れたデスクに向かい、気怠い気持ちで書類を片付けにかかっている。夢主はスーツをクリーニング店に出すついでだと言って仲間と共に買い物へ出掛けてしまった。そんな事は他の者に任せればいいとDIOは思うのだが、チームの中で彼女が一番下っ端だ。その役目を真面目にこなそうとする夢主と彼女を側に置きたいDIO、そしてその間に挟まれるリゾット……その時、偶々様子を見に来たホルマジオとイルーゾォによって夢主は外に連れ出されてしまった。
「DIOはお昼に何を食べたい?」
 行きがけにそんな質問をされてDIOはしばらく考える。キッチンには大量のパスタが買い置きされていた。いつもそれらを食べているのだろう。
「普段と同じ物でいい」
 そう言って送り出した彼女は今頃何をしているだろうか。DIOは日中を歩く姿を想像しつつ、これまで訪れた旅行先や屋敷内よりも、常に自然体で楽しそうな表情を振りまく夢主に思いを馳せた。
(やはりナポリか……)
 世界を転々としてきた彼女に確かな居場所があるのはここだけだ。少ないとはいえ私物が置かれた部屋は特別なのだろう。楽しく美しい世界中のどこかで暮らすよりも、存在意義を見いだせるこの場に居ることが幸せらしい。
「ただいま〜!」
 急いで店を回ってきたのか、額に汗を滲ませながら彼女は戻ってきた。いつもは夕食を共にして朝が訪れる前に帰ってしまうDIOが、出掛けたときと変わらず部屋に居ることが嬉しいようだ。街の変化や店員との愉快な会話をあれこれ話しながら買い込んできた物を冷蔵庫へ納めていく。
「それでね、……あ、DIOも何か飲む? いらない? 私、ちょっと喉乾いたから炭酸水飲むね。それで……えっと、……あれ? どこまで話したっけ?」
(浮かれきっているな)
 DIOはクスッと小さく笑いながら途切れた話の続きを補ってやった。

 帰ってきたと思ったら忙しなくランチを作り、人数分の食後の飲み物と茶菓子を用意し、DIOの隣でシエスタを軽く取ったかと思えば早くも夕食の下準備に取りかかっている。
「ワインが切れてしまったな。……いつもの店に行ってくる」
「分かった、リゾット。後は任せて」
 キッチンでいつになく張り切る彼女を微笑ましく見守ってリゾットは外に出た。しかし、酒を買い足しに出掛けたわずかな間に事件は起きたらしい。
「これは……、一体何が……」
 玄関ドアを開けた瞬間、リゾットは部屋に漂う焦げた臭いに鼻を押さえる。何事かと覗き込んだキッチンは、彼の想像を超えて見るも無惨な有様だった。
 コンロ横の壁は炎に炙られた形跡がある。床にはナイフが突き刺さり、様々な食材が周辺にぶちまけられていた。些細なことから口喧嘩にでもなったのだろうか。それとも命知らずの強盗が押し入ってきたのか、そう思うほど場は乱れきっていた。
「夢主、リゾットが帰ってきたぞ」
 DIOの静かな声を聞いてそちらに視線を向けると、暗いリビングの奥から鼻水をすする音が聞こえてきた。苦笑するDIOの膝上に抱えられた彼女は、先ほどの笑顔から一転していくつもの涙を流しているではないか。驚くリゾットから視線を外し、何も言わずにDIOの肩へ顔を埋めて泣き出してしまった。
「どうした? 何があった?」
「そう何度も聞いてやるな。何と言うことはない……ただ少しばかりミスを犯しただけの話だ」
 哀れむように慈しむように、DIOは震える背中を優しく撫でる。
「お前が外に出た後、肉をフランベしようとして失敗したのだ。慌てて炎を消そうとしたが……それがまた良くなかった」
 火はすぐに消し止められたが、焦った結果が先ほど見たキッチンの惨状らしい。リゾットが想像した最悪の中でもかなりマシな理由だ。
「ごめんなさい……。すぐに片付けるから……」
「無事ならそれでいい。気にするな」
 安堵するリゾットに夢主は力ない声で謝ってくる。今日一日、傍目から見ても分かるほどに彼女は張り切っていた。きっとその力が入りすぎて空回りをしたのだろう。
「リゾットの言うとおりだな。次に気を付ければいいだけの事だ」
 うなだれてしょんぼりと落ち込むその様子をDIOだけがどこか嬉しそうに眺めている。泣き疲れた子供を慰めるように、彼は柔らかく抱きしめてこめかみにキスを与えると、少しだけ顔を上げた夢主に微笑みかけた。
「今日は外でいいな?」
 さすがに今から作り直す気は起きなかったらしい。胸元で相手が小さく頷いたのを見てDIOはリゾットに視線を向ける。彼の中にあった穏やかさは途端にスッと色を失って冷たい眼差しに移り変わった。
 まだ短い付き合いだがリゾットはそれを不思議に思わない。片手で数えられる程しかいない彼の身内や恋人、親友だけが特別なのだろう。
「車を用意します」
 未だ修理から戻ってこない高級車の代わりにギアッチョの車のキーを懐から取り出す。DIOが身支度を促す声を聞きながらリゾットは一足早く外へ向かった。


 ナポリ湾に面した暗殺チーム行きつけのトラットリアで夕食を済ませ、この後は明け方近くまで街を散策すると言ってDIOはリゾットを自由にした。派手なオープンカーで大通りを去っていく彼を見送った夢主は、美味しい食事で苦しくなったお腹を撫でながら路地を歩く。
「機嫌は直ったようだな」
 意気込んだ割に大きな失敗を見せてしまった夢主は、さっきまで落ち込んでいた顔を上げて恥ずかしそうに笑った。
「色々とごめんなさい。明日は上手に作るから……」
「気にするな。それよりもっと肩の力を抜け。私と暮らすことがそれほど嬉しいか?」
 からかいを含んだ言葉に夢主は相手を恨めしそうに見上げる。
「だって……」
 側にいられる喜びはもちろんだが豪華な装いのホテルや屋敷ではなく、暗殺チームと暮らす自分のテリトリー内にDIOが存在するのだ。テレンスのように完璧な住空間を提供しようと思えば、いつも以上に気合いが入るのは当然だった。
「お前が普段過ごすようにすればいい。私はそれを望んでいる」
 執事や部下とは違うのだからと、そう言外に匂わせながらDIOはするりと手を繋ぎ合わせてきた。
「うん……」
 素直に頷く夢主を見下ろしてDIOはふとキッチンでの危うい出来事を思い返す。
 鋭い悲鳴を聞いて瞬時にスタンドを出し、飛び散る食材が宙に浮いた空間に足を踏み入れた時のことだ。フライパンから大きく広がった炎の前で夢主はぎゅっと目を閉じ、腕で顔を庇うだけの姿があった。身に降りかかる火の粉に何の対処もしない彼女にDIOは呆れ、少々腹立たしく感じたことも事実だ。
「お前という奴は……」
 ザ・ワールドの拳一振りで舞い上がっていた炎をかき消し、驚きからその場に座り込む夢主にDIOは長いため息をこぼした。
「それでもスタンド使いなのか」
 と、思わず呟きそうになる。とっさの判断も出来ず、スタンドで身を守る事が出来ないのではこの先も生死に関わってくるだろう。我知らず肝を冷やしたDIOに睨まれて、夢主もすぐにそれらの感情を感じ取ったらしい。見る間に青ざめてうなだれ、時が動き出した中で床に転がる食材の中へぽつりと涙を落とした。
「ごめんなさい……」
 かき消えそうな謝罪にDIOは眉を寄せ、エプロンで顔を覆う相手を見てそれを解いた。火を消したフライパンの上で肉が焼ける空しい音に涙声が混じっていく。DIOは何も言わずに床から夢主の体を抱え上げて、暗く静かなリビングに移動した。
「DIO……怒ってる?」
 己の不甲斐なさに涙しながらこちらを窺い見てくる。ここで「そうだ」と言えばどうなるのか。DIOはからかいたくなる気持ちを抑えて、革張りのソファーに腰を下ろした。
「夢主……、お前はもう少しスタンドを使う事に慣れておけ。あれは力の象徴であり、己の身を守るための物だ」
 膝上に乗せた彼女の目を見つめながら震える背を撫でた。
「私やリゾットが側に居ないとき、お前は危険からどうやって身を助ける? お前が思う以上に人間は脆く、貧弱な生き物だぞ」
 DIOは喉元をするりと撫でて相手を咎める。喉を潰し、呼吸を奪うだけで人は簡単に死んでしまう事を知らないわけではないだろう。
「……うん」
 やはり怒っているのだと、気落ちする心を抱えたまま夢主は小さく頷く。それを見たDIOは再び息を吐きながら、背に回した腕に力を込めて抱きしめた。
「……心配した」
 耳元で囁かれた小さな言葉に夢主の胸が痛む。申し訳なさに苦しくなる一方で喜んでしまう自分の心を恥じた。
「ごめんなさい」
 再度、謝ってくる夢主の頭を撫でて、DIOは涙で濡れた頬に唇を落とす。失うのは一度だけで十分だ。我ながら甘いと思いつつも、DIOは優しい抱擁で腕の中に閉じこめて思う存分に愛でるのだった。


 ……その時とあまり変わらぬ体勢のまま、DIOはひらりと屋根から屋根へ移り飛ぶ。夏の短い夜を向かえた市内は深夜0時を過ぎても賑わいを残していて、観劇を終えたホールや通りのバーから人の話し声は絶えない。
 身を屈めてひときわ大きく跳躍し、白壁が美しい教会の高い塔へ着地を決めるとそこから下に見える広場を眺めた。友人たちと騒ぎながら道を行く者、周囲を物色しながら渡り歩く者、残飯をくわえた犬と喧嘩をする猫たちの鳴き声がそこに響いている。
「ここは?」
「ナポリの守護聖人が眠る大聖堂だ」
「……もう閉まってるね」
 人々を迎え入れる大きな門は固く閉ざされている。大鐘から内部へ続く扉もしっかりと施錠されてあるようだ。
「礼拝堂のフレスコ画や油絵……見る価値のある物は多くあるが、やはり聖ヤヌアリウスの聖遺物だろうな。何百年も前の乾いた血液が液体に変化するらしい。年に二回、祝祭日にその奇跡を見ることが出来る」
 DIOはそんな説明をして教会の窓へ視線を向ける。今もその小瓶は厳重に保管されてあるのだろう。
「血の奇跡……」
 それを主食とするDIOに告げられると背筋が寒くなるようだ。
「飲んでみたいの?」
 夢主からの純粋な問いかけに彼は目を細めて笑った。鈍い月明かりの下でも艶めいて見える唇がゆっくりと弧を描く。
「聖人の血、か……確かに興味はある」
 石仮面を得て人間を超越したように、それは吸血鬼からさらなる高みへ引き上げてくれるだろうか。
「だが、この私にどう作用するか未知数だな」
 恐れを知らないDIOが口を付けた瞬間、灰になって滅びる姿を夢主は思わず想像してしまう。聖人なら対極の存在に対してそれくらいは簡単に行ってしまいそうだ。
「まさか……本当に飲まないよね?」
 その力を試すためにここへきたのだろうか、そう思って怖々と尋ねるとDIOは少し驚いた顔を見せた。
「さて、どうしたものかな」
 ニヤリと笑うDIOの腕の中で夢主は相手の服の裾を強く掴む。実際、やりかねないと思ったからだ。DIOにはそれをやってしまえるだけの力と精神力がある。
「駄目だからね。見つかったら怒られちゃうよ」
「フフ……冗談だ」
 DIOは笑った後、いつしか人影も絶え、何の音も聞こえない静まりかえった広場に視線を戻した。
「次はどこに行く?」
 塔の外壁から手を離し、二人が重力に従って落ちていく中でDIOが話しかけてきた。屋根の上にカツンと靴音が響く頃には夢主の体は再び横抱きにされ、首へ腕を回すように頭を近づけてくる。
「……いつも思うんだけど、どうして道を歩かないの?」
 建物の間を飛び越えたDIOは赤煉瓦の屋根をまるで猫のように優雅に歩く。
「この時間は鬱陶しい輩が多いからな。手間を取りたくないのだ」
 妖しい客引きに薬売り、それに強盗。日中よりも格段に犯罪率が跳ね上がる深夜にわざわざそのような通りを歩きたいとは思わない。
「もう少しすれば誰もが眠りに就く」
 人々が夢見る頭上を軽やかに飛んで、DIOは悪夢を届ける魔物のように笑いかけてくる。夢主は浮遊感とそんな相手に酔いそうになりながら、明かりが一つ一つ消えていくナポリの旧市街を視界に収めた。


 ……彼の言うとおり、それから二時間も過ぎると誰も何も居なくなってしまった。点滅を繰り返す信号機と消えかけの街灯だけが車道を頼りなく照らし、深海のような静けさに満ちたそこを二人はゆっくりと歩いた。
「さすがに誰も居ないね」
 昼間は人で溢れる大通りや市場でも、今この時ばかりは猫の姿すら見かけない。二人分の靴音だけが響くそこにDIOの声が上乗せされた。
「起きているのはパン屋か……もしくは私のような者だけだろう」
 DIOが指差す先に小さな明かりが残された店が見える。
「パン屋さんかぁ……さすがに開けてくれないだろうね」
 夢主は歩道から暗い店内を覗き込んでみた。ショーケースの中はまだ空っぽだ。奥の仕事場で生地を練っているらしい。焼きたての香ばしい匂いが漂ってくるのは、朝が訪れてからになるようだ。
「腹が減ったか?」
「ん〜、まだ大丈夫。DIOこそ平気?」
 夢主は彼の手首に飾られた高価な腕時計を見る。今日の日の出は六時だ。その頃にはもう十分明るくなっているので、遅くとも一時間前には戻らなければならない。
「まだ余暇はある。次は海岸沿いを行くか」
 暗い海に浮かぶヨットや寄港した大型客船、その間を大小の漁船が出入りを繰り返している。夜明け前の魚市場は活気に満ちているだろう。夢主はDIOの言葉に頷きを返し、誰も居ない歩道へ足を踏み出した。
 と、そこへいくつかの足音が重なった。闇に紛れるように黒い服を着た男が細い路地からヌッと姿を見せる。手には鈍く光るナイフ、その意味は明らかだ。
「夜遊びは程々にしなよ、お嬢ちゃん。命が惜しけりゃ金を出しな」
 見知らぬ三人からの実にストレートな要求に夢主は驚きから覚める。残り少ない夜の時間を邪魔されたDIOは憮然とした表情で男たちを冷たく見下ろした。
「だから嫌なのだ。毎回、虫ケラを払う面倒さと言ったら……これで私が屋根を使う理由が分かっただろう?」
 ひどく面倒そうに言いのけた後、DIOは彼らが激高するより先に時間を止めた。握りしめたナイフと隠し持っている銃を取り上げ、ニヤニヤと意地の悪い笑みを見せる。
「夢主、ダーツは好きか? 私はあまり得意ではないが、これほど的が大きければ外す方が難しいだろうな」
 そう言って振り上げる腕に夢主は慌てて飛びついた。
「ちょっと待って! 何も殺さなくても……!」
「ナイフを向けられた時点で殺意は明白だろう。甘っちょろい事を言っているとお前が命を失うぞ?」
 殺るか殺られるかの瀬戸際を知らない彼女にDIOはそんな忠告をする。ぐっと言葉を呑んだ夢主だったが、それでも抑え込む力は弱めなかった。代わりにスタンドを出してDIOの手から武器を奪い取る。
「分かってるよ。でも……それは今じゃなくてもいいでしょう?」
 物騒な物を近くのゴミ箱へ投げ捨て、動きを止め続けている彼らではなく、静かに見つめ返してくるDIOに向き直る。
「誰にも邪魔されないところで夜空が見たいな。お願い、DIO。そこまで連れて行って」
 幼児が抱っこをせがむように両腕を伸ばすと、DIOは仕方なさそうに笑った後で身を屈めた。
「お前の人の良さは私ですでに実証済みだったな……。いいだろう。どこへでも連れて行ってやる。夜が続くその間だけは」
 そんな前置きをしたDIOは首を抱きしめてくる相手を抱えて地面を蹴った。男たちが驚き、どこへ行ったと喚く声を上げる中、近くの時計台では針がカチリと進んで朝に一歩近づいたことを指し示していた。




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