02


 朝日が射し込むまばゆい廊下から一番奥の部屋に足を踏み入れると、そこに漂う暗闇に目が慣れるまでしばらく時間が掛かった。
「うーん、これを毎日か」
 不老不死と怪力、それらを得る代償に光を奪われてしまう。メローネにとってそれは天秤が釣り合わないように思われた。
「リーダーは外らしいな」
 一日中、この暗さが続くのだ。太陽と朝刊を求めて早々に出掛けたらしい。メローネはまだ何の用意もされていないダイニングテーブルに手を突いて、残念そうな溜息をそこへ吹きかけた。
「うぅ……いつもならもう頬にキスをしている頃なのに……」
 コーヒーと甘いパンが香る朝日の中、夢主を抱きしめて離さないメローネに、リゾットからそれくらいにしておけと頭を小突かれる日々はどこへ行ってしまったのか……。
 ぼんやりとした間接照明だけが灯る周囲を無念そうに見つめていると、不意に夢主の部屋のドアがガチャリと音を立てた。
「あ……おはよう、メローネ。いつものコーヒーだよね、すぐに準備するから待ってて」
 寝起きらしく、目を擦りながらパジャマ姿で現れた彼女にメローネはようやく笑顔を浮かべた。
「ああ、夢主! 良かった、俺のこと忘れてなかったんだね!」
 個性の強い彼をどうすれば忘れられるのだろう。夢主は小さく笑ってキッチンに足を向ける。
「ボンジョルノ、俺の小猫ちゃん」
 いつものようにハグとキスを贈ろうと腕を広げるメローネの頭を、闇の中から現れた大きな手が掴んだ。頭蓋骨をミシミシと圧迫してくる握力に彼の顔からスッと笑顔がかき消える。
「いい朝だな、メローネ」
 冷え冷えとした声が背筋を滑り落ち、メローネの心臓に氷を打ち込むようだ。
「お、おはようございます、DIO様。……ホント、いい朝ッスね」
 愛想笑いを浮かべるメローネをDIOが上から見下ろし、しばらくしてから手を離した。
「フン……この時間、外に出られぬ私への嫌味か?」
「えッ!? まさか! 違いますよ!」
 髪を振り乱して首を振る彼にDIOは薄く笑いかける。
「本当か? フム……お前は掴み所のない性格だが、貴重な遠距離型のスタンド使いだからな……夢主に触れることを特別に許してやっても構わんぞ?」
「! ……そ、それマジ?」
 戸惑いながらも喜びを隠しきれないメローネの顔にDIOは鋭く整えた爪先を向けた。
「対価はお前の血だ。血を全て入れ替え、屍生人として生きることになるが……なぁに、すぐに慣れるさ」
 向けられる赤い目は本気だ。腐敗しながら夜の街を徘徊する自分を想像するとメローネの全身に悪寒が走り抜けた。喉の奥で悲鳴を上げて数歩、後ずさる。
「ごめんなさい! もうしませんッ!」
 叱られた子供のような返答にDIOは爪を引き、クッと笑って口元を手で覆い隠した。
「遊ばれてるね、メローネ」
 そう言ってキッチンから夢主が顔を覗かせる。その場に固まったメローネにコーヒーカップを手渡して、こちらは隠すことなくクスクスと笑った。
「え……なに、まさか冗談?」
「そうだよ。途中で止めても良かったけど、いつも私をからかって遊ぶお返し」
「何だよ〜……」
 悪戯っぽく笑う夢主の前で、メローネはカップを持ったままその場にへなへなとしゃがみ込んだ。普段、冗談を言わない相手からあんな風に凄まれたら本気にとってしまうではないか。
「もう死ぬかと……ああ、びっくりした!」
 たちの悪いブラックジョークに乱された心を落ち着かせていると、さすがに悪いと思ったのか、夢主は腰を落として同じ視線の高さに揃えてくる。
「ごめんね。それからおはよう、メローネ」
 首を片手で緩く抱いて、柔らかい頬を合わせてくる。いつも喜んで身に受ける挨拶だが、今日ばかりは遠慮したい気分だ。メローネの視線の先でDIOの端正な顔には先ほど見たような笑みはもはや浮かんでいなかった。
「……夢主、私の紅茶はまだか?」
 はーい、と軽やかな返事をして夢主はメローネから離れる。
「朝食はどうする? お前は食べないのか?」
「もちろん食べるよ。でもリゾットが帰ってきてからね」
「奴は何をしに外へ行った?」
「新聞を買いに行ってるの。そのあとバールでコーヒーを飲んで、パンを買ってから帰ってくるよ」
 新聞は執事が用意するため、DIOは外へわざわざ買いに出掛けたことがない。
「そうか……では、その後で食事にしよう」
 先ほどメローネを脅した爪先が夢主の肩から首筋を優しく撫で上げる。その官能的な仕草が見せる意味を知ったメローネは、冷えていく胃袋に熱いコーヒーを流し込むのだった。


 朝刊を手に暗い部屋へ戻ってきたリゾットは、ホッとした表情を浮かべるメローネに出迎えられた。
「いつもの勢いはどうした?」
「まぁ、色々とね……」
 揶揄するリゾットにメローネは覇気のない笑みを見せる。流石の彼もDIOの前では大人しくなってしまうようだ。
 毎朝使用しているダイニングにリゾットが戻ると、そこには目玉焼きにベーコンとソーセージ、マッシュルームとハッシュドポテト、ベイクドビーンズに焼いたトーストが二枚という典型的なイングリッシュ・ブレックファストが用意されてある。それらを前に椅子に腰掛けているのはDIOだ。彼は逞しいその身を誇示するように露出の多いアンダーウェア姿でキッチンから目を離さずに口を開いた。
「遅かったな。明日から新聞は二部買うことだ」
 DIOも読むらしい。リゾットは気が利かなかったと心の中で反省し、買ってきたばかりの新聞をテーブルの上へ静かに置いた。
「お帰りなさい、リゾット。外の天気はどうだった? 今日も暑くなりそう?」
 皮を剥いたフルーツを皿に載せてキッチンから夢主が姿を見せる。
「ボンジョルノ……今朝もいい天気だ。昨日より暑くなるらしい」
「そう、じゃあ屋上の水やりに……」
「あ〜、いいよ、俺がしておくから。日光浴のついでさ」
 夢主に最後まで言わせることなく、メローネは花とハーブが植えられた屋上を指差す。
「そう? でも水をあげすぎて枯らさないでね」
「分かってるって。じゃあ、全員揃ったところで朝食を続けようか」
 メローネの明るい声に促されてリゾットは自身の席に腰を下ろす。DIOはリゾットが買ってきた新聞を広げてそこに目を落とし、メローネはかじりかけのパンを口に含んだ。夢主は瑞々しいオレンジを口にして、その甘さと酸味に顔をぎゅっと歪めている。
 爽やかな朝とはほど遠い、薄闇の中で食べる朝食は何とも言えない物があった。これが一ヶ月近く続く事を思うとリゾットはわずかに憂鬱になる。もう慣れてしまったという彼女を尊敬の眼差しで見つめていると、
「夢主、私にも同じ物を」
 と記事に目を向けたままDIOが呟いた。
「オレンジ、好きだった?」
「お前の好きなものが私の好物だ」
 そう言って夢主が差し出す果肉を口にする。
「そうなの? じゃあ、タコのサラダ作ってもいい?」
「……中には例外もある。それはジョルノにくれてやれ」
 試そうとする夢主の前でDIOは紙面を大きくめくると、一瞬、隠れたその隙に唇を奪ってくる。
「……! もう……」
 驚く彼女へ楽しそうに笑いかけて、DIOは新聞を元に戻した。
「さっきからさぁ、ずっとこれなんだよ」
 リゾットの隣でメローネがぽつりとぼやく。目隠しがあっても照れる夢主の顔を見れば何が行われたかは一目瞭然だ。メローネは面白くなさそうな表情で目の前の恋人たちに溜息を送った。
「隠れてキスしたり、手ぇ繋いだり、引き寄せて抱きしめたり……それは別にいいけど……」
 端から見ていると微笑ましい限りなのだが、その度に照れて恥じらう夢主の様子が次第に居たたまれなくなってきた。今も二人の視線から逃れようと、意味のない咳をしたり乱れのない髪を整えたり、無駄な足掻きを見せている。そのうちその全てを諦めると、こちらに乾いた小さな笑いを見せて食事を再開するのだった。
「ねぇこれ、からかっていいの? 幸せそうな顔しちゃってさぁ……独り身の俺らに対する当てつけだよな?」
「……いいからさっさと食べてしまえ。仕事の書類が届いていないのはお前だけだぞ」
 リゾットは素っ気なく言ってメローネを促せる。そんな彼らの向こうで、新聞に顔を隠したDIOだけが愉快そうに口元を綻ばせていた。


 食事が終わればそれの後片付けが待っている。キッチンから皿を洗う水音が響いてくる中、DIOはリビングで食後の紅茶を飲みながら彼女の気配を感じ取った。食器の次は洗濯物を、部屋中に掃除機をかけて汚れを拭き取る。乱れたベッドを整えた後は、クリーニングに出す予定のDIOのスーツを手に取った。
「DIOってやっぱり大きいね」
 そう言いながら自身の体に上着を重ね合わせる姿に、つい笑いがこぼれてしまった。
「夢主、それはいつ終える?」
「ん〜……もうちょっと」
 彼女は執事に任せてある雑務の全てを代行するつもりのようだ。何度かやりとりされた会話にDIOは思案顔になる。いつもより念入りに掃除をして、全てを整えておこうとするのは自分が居るせいだろうか。しかしDIOは快適な空間を望んでここに暮らすわけではない。
「仕方のない……」
 ダイニングで新聞を読むリゾットの横を通り抜け、DIOは磨かれて無駄のないキッチンに足を踏み入れる。普段から大勢が使うのだろう、誰が見ても何がどこにあるか分かりやすく、きちんと分類された食器棚から花柄のカップとポットを取り出した。
 多くのコーヒー豆が並ぶその横から紅茶の葉を選び、ケトルで湯を沸かしてその前でしばらく待つ。こうして自ら茶を入れるのは何十年ぶりになるだろうか。DIOの記憶がエジプトからイギリスへ飛び、何もかもがあったジョースター邸から百年以上前のロンドンへと移り変わった。
「まるで違うな」
 薪ストーブではなくスイッチ一つで火が付くコンロ、茶葉も色が付けばいい方という粗末な物ではなかった。優雅で豊かな貴族生活や、その日の食事に困るほどの貧窮はここにはない。これまで味わったことのないごく普通の穏やかな生活だけが存在する。
「……えっ! DIO?!」
 風呂掃除を終えた彼女は、DIOがキッチンに立つというあり得ない姿に驚きの声を上げた。
「私とて紅茶くらい自分で入れることが出来る」
「そ、そう? でも、言ってくれれば用意したのに……」
 申し訳なさそうな顔をする夢主にDIOは小さく笑いかける。
「これはお前のものだ。用事は終えたのだろう? ならば一息入れて私の相手をするがいい」
「これ……私の為に?」
 その言葉に息を止めて相手を見つめ上げた。薄い光を浴びた黄金色の髪は輝き、穏やかさを湛えた目は紅茶と同じ色をしている。妖しさを残しながら口元は微笑んでいた。夢主はそれら全てを視界に納めて頬を淡く染める。喜びが胸の奥から込み上げてきて、体中を温かい気持ちで一杯にした。
「ありがとう……」
 だらしなく緩む頬を見られたくなくて、夢主はサッと彼の背後に回る。相手の広い背中に額を押しつけながらもう一度感謝の言葉を呟き、引き締まった腰回りを両手で抱くようにするとDIOがそれを両手で包み込んできた。
「喜んでもらえて何よりだ」
 隠しきれない喜びに夢主が笑顔を浮かべていると、ダイニングからこちらを見つめるリゾットの視線に気が付いた。ここは屋敷ではなくリゾットと暮らす相部屋だ。その事を思い出してハッと固まる彼女に、リゾットは「何も見ていないから気にするな」と言うように手を振って、苦笑する顔を反対側へ向けて隠すのだった。




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