07

 とうとうこの日が来てしまった。いつもの仕事用のスーツではない、もっと動きやすい服を纏った自分の体を見下ろして心臓がいつもより速いリズムを刻む。グーパーと何度も手のひらを開いては握り、ふう、と深く息を吐く。正門で補助監督の車を待ちながら、幾度となくタブレットで今日行く場所の内容を確認した。



「なに、緊張してるの?」

「そりゃあね。10年ぶりだし」

「僕もついていけたら良かったんだけど」



 隣でしゃがみ込んで頭を掻いた悟は、私を見上げると「きっと大丈夫だよ」と適当に笑った。今日は私が教師としてではなく、呪術師としての復帰戦だ。呪霊の階級はそれほど高くはないものの、呪霊と対峙するのは10年ぶり。この10年一般人として普通に生活をしてきた私は、戦闘はおろか運動だってそんなにしてこなかった。正直、不安しかない。それを見透かした悟は、「そんなに心配しないでよ」と立ち上がって私の頭にぽすっと手を乗せた。



「ちゃんと助っ人を呼んであるから」

「助っ人?」

「そ。生徒紹介も兼ねてね」



 ほら来たよ、と悟が見た方向に視線を向けると、女生徒ともう一人、一人?なんだか巨大な生物が後ろからついて歩いていた。目の前まで来た一人と一匹は、私を見て品定めをするように上から下まで視線を彷徨わせた。



「二年生の禪院真希とパンダだよ」

「パンダ」

「そう、パンダ」



 私のことを苗字で紹介するな、と悟を睨みつける真希と呼ばれた子の後ろで、言われた通りのパンダは「俺パンダ。よろしく」と片手をあげた。そっか。パンダ。彼はパンダなのか。もうどうして喋れるのかとか、何でみんな当たり前のように受け入れているのかとか、どうでもよく思えた。悟が助っ人というからには、きっと強いんだろう、たぶん。



「綾瀬美月です。今日はよろしくね」









 補助監督の車に揺られて数十分、私たちは人通りの少ない道の端にある、とあるトンネルの前までやってきた。車道としてはすでに使われていないこのトンネルは、まだ昼間だというのに薄暗く、不気味な雰囲気を醸し出している。事前に調べた情報によると、幼児の泣き声が聞こえるとか、白い着物を着た女性の霊が見えるとか、都内では有数の心霊スポットらしかった。もちろんどれもただの噂で、本当に幽霊が出るわけではない。それでも噂が広がれば、その分人の負の感情が集まり呪霊も生まれる。その呪霊がまた新たな怪談を呼び、また呪霊が集まる。心霊スポットとはそうして呪霊が集まりやすくなっているのだ。トンネルの前に立って軽くストレッチをして、隣に立つ真希とパンダを見上げた。



「二人は今日は見学って形でいいのかな?」

「極力手を出すなって悟には言われてる」

「まあ本当にヤバくなったら助けるけどな」

「了解」



 軽く関節を鳴らす二人を横目に、ぐっと背伸びをして再び息を深く吐く。コツコツとつま先を叩いて、靴のフィット感も確認する。実は体術と術式だけでは心もとないので、高専からこっそりハンドガンを拝借してきた。こういう武器はあまり使い慣れていないけれど、何も持たないよりはマシだろう。「じゃあ行こうか」と二人に声をかけて、一歩、トンネル内に足を踏み入れる。後ろでは補助監督が帳を下ろす気配がして、元々暗かったトンネルの中がさらに暗くなった。掌印を結んで周囲に炎を灯せば、足元が見える程度には明るくなった。歩く度に足音がトンネル内に反響して、その足音に合わせて心臓がどくどくと音を立てる。仄かに感じる呪力の残穢を頼りに足を進めていくと、数人の話し声が聞こえて足を止めた。暗闇の中目を凝らせば、トンネルの壁によりかかるようにして座り込む女の子と、その女の子を必死に立ち上がらせようとする二人の男の子がいた。



「君達、ここで何してるの?」

「た、助けてください!」



 私の声に振り返った男の子は、縋るようにこちらに走ってくると涙を流しながら私の手を握った。息を切らすただならぬ様子に状況を聞くと、どうやら肝試しにトンネルに来たものの、進んでも戻っても出口が見つからずに途方に暮れていたらしい。おそらく呪霊の仕業だろう。落ち着かせるように男の子の背中を叩いて、しゃがみ込む二人の傍に寄った時だった。カサカサ、カサカサと複数の方向から地を這うような音が聞こえた。「来たぞ」と真希の声を合図に灯した炎を大きくすると、周囲には大型犬くらいの蜘蛛のような姿形をした呪霊が5匹、私たちを取り囲むように立っていた。



「最悪!なんで蜘蛛なの私蜘蛛嫌いなのに!」

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。ほら、さっさと祓えよ」

「わかった!あんた夜蛾先生の呪骸ね!?言い方なんかそっくり!」



 「早くしないとやられんぞ」と腕を組んだまま動かない真希とパンダは、どうやら本当に戦う気がないらしい。覚悟を決めてハンドガンを取り出して構えると、呪霊は一斉に動き出した。弾丸に呪力を込めて一発ずつ放っても、動きの素早い呪霊にはなかなか当たらない。一気に燃やしてしまえば楽なのだけど、真希やパンダ、一般人がいる上、トンネルという閉鎖された場所ではそれは危険すぎる。使えないハンドガンを投げ捨てて体術に切り替えると、先ほどよりは幾分動きやすくなった。一気に距離を詰めて、まずは一匹。続いて二匹目に狙いを定めて、掌印を結んで呪霊の体だけを燃やす。そのまま体を捻って三匹目に向かおうとした瞬間、突然の機敏な動きに耐えられなかった足首から鈍い音がして、がくんと体が沈む感触がした。それを見逃さなかった呪霊の鋭い爪が足をかすめて、途端に燃えるような痛みが身体を襲う。毒だ、と理解した時にはもう遅く、目の前には二匹の呪霊が迫っていた。



「美月!!」



 少し離れたところから真希の私を呼ぶ声がして、目の前から呪霊の姿が消える。地面に伏しながらも視線だけを動かして状況を確認すれば、真希が呪具で残りの蜘蛛をすべて吹き飛ばしていた。あの子、呪力がほとんどないって言っていたけど、恐ろしく強い。あれが天与呪縛か、と苦い思い出が頭を過った。呪霊を祓い終えた真希とパンダはすぐに私の元へ駆け寄ると、傷跡を確認してため息を吐いた。



「結構深いな。早く高専に戻って手当してもらった方がいい」

「ごめん……」

「足捻ってやられるとか、とんだ間抜けだな」

「なんも言えねえ……」



 パンダに肩を貸してもらいながら立ち上がると、フラッと頭が揺れて倒れそうになる。そんなに出血はしていないはずだけど、貧血だろうか。久しぶりの戦闘に緊張していた体から力が抜けて、そのままパンダに寄りかかった。膝がガクガクと震えて、まともに立つこともできない。「ったくしょうがねえな」とパンダに体を抱えられて、足が宙に浮く。本当に、最初から最後まで不甲斐ない。ふわふわとした毛はお日様の匂いがして心地いい。生徒に助けられる教師なんて情けないけれど、今回ばかりは甘えてしまおう。「ありがとう」とパンダの毛に顔を埋めたまま言えば、二人は「筋は悪くなかったよ」と小さく笑った。
















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