06

 起きた瞬間から感じる頭の痛みと胃の不快感。昨日は飲みすぎた、と理解するのと同時に、普段の寝起きには感じない温かさに違和感を覚えた。そっと目を開けると、まず目に入ってきたのは真っ黒な布。そこから少し目線を上がると、形の良い唇と真っ白の長い睫毛が見えて、少しずつ状況を理解する。私、悟に抱きしめられてる。昨日はどうやって帰ってきたのかとか、どうして私の部屋に悟がいるのかとか、何で一緒のベッドで眠っているのかとか。疑問ばかりが浮かぶ頭はズキズキと痛んで、考えることさえ面倒くさくなってしまう。昔よりも逞しくなった腕の中は温かくて安心する。こうして後ろからではなく正面から抱きしめられて眠るのは、あの日以来だ。彼が突然高専を去った、あの日。あの日だけは、お互いの胸にぽっかりと空いた穴を埋めるみたいに、抱きしめあって眠った。悟の弱い部分を見るのは、たぶんそれっきり。手を伸ばして白くて滑らかな頬に手を伸ばすと、ゆらゆらと白い睫毛が震える。少し開かれた瞼の隙間から、まるでビー玉みたいな青い瞳が見えた。



「……美月じゃん。おはよ」

「おはよう。悟、何でここにいるの?」

「何でって、昨日美月が潰れたって聞いて迎えに行ったんだよ」



 まだぼんやりとした瞳を何度か揺らした悟は、くわ、と欠伸をしてもう一度私を抱きしめ直した。布擦れの音が耳に痛い。自分の服からはアルコールとタバコの混ざった居酒屋特有の匂いが染み付いている。そこに男の匂いが合わされば不思議と罪悪感が込み上げてきた。まるでお持ち帰りされてしまったかのような状況に、さらに頭が痛くなる。



「送ってくれてありがとう。でもさ、送り狼はどうかと思うよ」

「まだ狼になってないじゃん」

「似たようなもんでしょ」

「お望みならちゃあんと狼になるよ?」



 バッと起き上がった悟は私の両腕を頭の上でまとめ上げると、そのまま上から私を見下ろした。緩い口調とはミスマッチな熱い視線に、一瞬だけ心臓がどきりと大きく跳ねた。分かってる、悟は本気じゃない。この腕だって、振りほどこうと思えば振りほどける強さで縫い付けられている。それでも青の奥に仄かに燃える感情に、私は動けなくなった。学生時代に恋焦がれていた人が、大人になった姿で今目の前の触れられる距離にいる。あの頃よりも色気を含んだ彼の視線は落ち着かなくて、無意識に胸の内にしまい込んでいた気持ちが顔を出してしまいそうになる。「冗談、やめてよ」と声を絞り出せば、悟は先ほどまでの熱が嘘みたいにフッと笑うと私の上から退いた。ほっと息を吐いた私を隣から見下ろした悟は、首元へ下げていた目隠しをいつもの位置まで引き上げる。すっかり見慣れた姿になって、私の乱れた毛先をつんつんと弄るとそのまま指先を絡めた。



「硝子と飲む時はもっと気を付けてよ。同じペースで飲むと絶対潰れるから」

「経験者は語る?」

「そもそも僕は下戸だからね。一杯で逝っちゃう」

「え、意外すぎる」



 少しの刺激で痛む頭を抱えながら起き上がれば、悟は絡めていた髪を放して壁にもたれ掛かった。「いつでも迎えに行けるわけじゃないんだからさ、気をつけろよ」と少し低いその声は目は見えなくても心配してくれているのが伝わって、途端に申し訳なくなる。大学生でもないのに潰れるまで飲んでしまうなんて恥ずかしい。それほど硝子に会えて舞い上がっていたのだろう。突然呪術界に戻ることになって、戸惑っていたのかもしれない。あの悟にお説教をされるなんて変な感じだ。この前授業で見た、思ったよりも“先生”をちゃんとしている悟を思い出して、「気を付けるね」と言ってみたものの少し笑ってしまった。「ほんとに反省してんの?」と私の頬を引っ張った悟は、「いひゃいよ」とまともに話せない私を見てゲラゲラと笑った。こういうの懐かしいな、なんて昔を思い出したら、悟も同じことを考えていたのか、昔みたいに「ばーか」と言って舌を出した。








 おしゃれなカフェもショッピングモールもない田舎が嫌で、東京の学校へ行くことを決めた。東京に住んで、いっぱいおしゃれして、おしゃれな部屋に住んで。そう、思っていたのに。



「学校が森の中にある上に寮がオンボロってどうなのよ」



 東京都立呪術高等専門学校。東京都立、というだけあって住所は確かに東京都である。が、東京とは名ばかりの郊外に建てられた学校は森に囲まれていて、寮は歩けばギシギシと音を立てるような木造建てというなんともまあ期待外れな学校だった。私が想像していたおしゃれでキラキラした東京ライフは学校を飛び出ないと実現しないらしい。



「あーあ。こんなはずじゃなかったのに」

「釘崎まだそんなこと言ってんの?」

「自分はもう慣れましたって?この田舎もんが」

「お前だって田舎もんでしょーが!」



 声の響く寮の廊下を歩きながら、数少ない同級生の虎杖は「釘崎のせいで絶対遅刻じゃん」とぶつくさと文句を言った。高専に来てから今日が初めての教室での授業で、ただっ広い敷地の中で一人で教室に辿り着けるはずもないと急遽虎杖を部屋まで呼んだのだ。ハナクソを食ってそうなやつに頼むのは嫌だったけど、背に腹は代えられない。並んで歩きながら周りを見渡してみても、どこもかしこも古くて華やかさなんてなかった。



「てかさ、教室分からないなら美月ちゃんと来ればよかったじゃん?」

「え、美月さんって寮に住んでるの?」

「うん。あの部屋だよ」



 それを早く言えよ、と思いながら虎杖の指差す方に視線をやる。それと同時に、廊下の一番端っこの扉がギイッと音を立てて開いた。そこから出てきたのは、その部屋の主と、長身の男だった。2人は私たちに気付くことなくそのまま階段を下りて行ったけれど、それを目撃してしまった私たちはすぐに柱の陰に隠れてあまりの驚きにしばらく言葉を失った。



「……今のって、五条先生、だよな」

「だった。しかも昨日と同じ服」

「げ、まじ?え、そういう感じ?」



 お互い顔を見合わせて、美月さんと五条先生がいったい何をして一晩過ごしたのかという考えが頭を巡る。大人の男女が一晩を過ごすなんてシチュエーション、やることは一つだろ、なんて思いながらもいやいやまさかと否定したくなる自分もいる。美月さん、服のセンスもいいし常識人っぽいのに、なんであの男と?何とも言えない空気感が漂う中で、私と虎杖は今のは見なかったことにしようと心の中で誓った。













- ナノ -