05

 高専の一角にある、無機質な扉。この扉の先には、私がずっと会いたかった人がいる。かなりの多忙を極める彼女は私がここへ来てからずっと不在で、今日やっと、高専へと帰ってきたのだ。ある種の緊張を感じながら扉をトントン、と二回ノックすれば、「どうぞ」と聞きなれた声が扉の向こう側から聞こえた。「失礼します、」と一言声をかけて、ゆっくりとドアノブをまわす。たくさんの白いベッドに囲まれた部屋の隅のデスクに、彼女は居た。



「硝子。久しぶり」

「なんだ、結局戻ってきたのか?美月」



 ギッと椅子をまわしてこちらを振り返った硝子は、学生の頃より伸びた髪を揺らしながら変わらない笑みを浮かべた。突然の訪問にも驚くことなく私を迎え入れた硝子は、「まあ座りなよ」と診察用の椅子を自分の前まで引っ張ってきた。彼女の言葉に従ってその椅子に腰かけると、想像していたタバコの香りとは違う、薬品独特のツンとした匂いが鼻をかすめる。悟に聞いた通り、医者になった硝子は白衣を纏っていた。とても久しぶりの再会。一体何から話せばいいのかと考えあぐねていると、硝子はにやりと笑ってまるでグラスを口に運ぶような仕草をしてみせた。



「話はとりあえず移動してから。一杯、どう?」

「……一杯と言わず、何杯でも!」







 高専の近くにあるおしゃれとは言えない居酒屋に移動した私たちは、初めてお酒の入ったグラスを突き合せた。2人とももうお酒を飲める年齢になったのだと思うと、時の流れを感じる。顔を合わせるのは10年ぶりでも、あの頃と何も変わらない気がするのは、私たちの根っこ部分が何も変わっていないからだろうか。お酒の力を借りて少し緊張の解けた私は、ずっと硝子に伝えたかったことを言おうと息を深く吸った。



「あの時、何の相談もなしにいなくなって、ごめん」



 カランと氷の溶ける音がして、一瞬の静寂が聞こえる。喧噪が遠くに聞こえて、ごくりと唾を飲みこむ音さえ聞こえてしまいそうだった。硝子にも、悟にも、何も言わずに高専を飛び出してから、ずっと胸に引っかかっていたこと。突然いなくなった私を、同級生はどう思っただろうか。悟は六眼と無下限術式を併せ持つ呪術界の要で、硝子は反転術式が使える稀有な存在だ。呪術界から逃れることは到底できない。そんな二人を置いて呪術界を飛び出したことには、少しだけ、罪悪感があった。そんな私の考えを見透かしたのか、硝子はフッと笑みを零すと箸をおいて両手を組んだ。



「別に、あんたが術師を辞めたことは怒ってないよ。そっちの方が長生きできるだろうしね」



 誰かさんよりマシでしょ、なんて笑った硝子はぼんやりとメニューを眺めて、たぶん私と同じ人を思い浮かべている。私と同じく、呪術師を辞めた同級生を。彼は私たちとは正反対の方向へ進んでしまったけれど。私も、硝子も、悟も。存在感の大きかった彼を忘れるなんて到底無理な話だった。



「でもせめて一言くらい、相談してほしかった」



 彼女の言うことは尤もだ。四年間、辛いことも苦しいこともともに経験してきた。きっと私たちでしか分からない感情もたくさんあっただろう。家族よりも濃い時を過ごしたというのに、何も言わずにいなくなるのは薄情に映っただろう。ごめん、ともう一度謝れば、硝子は「酒と一緒に流してやるよ」とグラスを持ち上げて私の物にぶつけた。硝子らしい解決の仕方に思わず笑みを零して、私も目の前のグラスの中身を飲み干す。少しずつ体の中を回っていくアルコールが心地よくて、今ならなんでも話せてしまいそうな気さえした。



「……傑が、言ってたの。呪霊が生まれなければ、仲間は誰も死なないって」



 高専を卒業する半年くらい前。たまたま道端で会った傑は、非術師がいなくなれば呪霊は生まれないと言っていた。そうすれば私たちは戦わなくて済むし、仲間が死ぬこともない。だから、術師だけの世界を作りたいと。傑の意見には賛成できる部分もたくさんあったけれど、やっぱり私には非術師を皆殺しにするなんて選択はできなかった。それでも傑の言うことを否定することもできなかった。仲間の死に心を痛めていたのは私も同じ。彼の壮大な理想を前にして、私はそれを止めることも、ついて行くこともできなかった。だからせめて、私にできることをやりたかった。追加で頼んだビールはいつの間にか泡が消え、ただの液体と化している。苦くてあまり美味しいとは思えないその液体も、時が経てば経つほどそののど越しに病みつきになった。彼とも酒を酌み交わしてみたかった、なんて夢のまた夢で、少し寂しくなる。大人になった私は、あの頃のまま。自分一人ではどうにもでいないもどかしさで溢れている。



「教師になって、非術師の子たちを導きたかったの。学校は負の感情が生まれやすい場所だから、少しでもそれを減らせればって」



 でもやっぱりそれじゃ駄目だね、と漏れた弱音はビールの海に溶けていく。黙って聞いていた硝子は、はあとため息を吐いて枝豆を一つ口に運んだ。枝豆なんていうおつまみがなんだか彼女にはミスマッチな感じがした。騒がしい他の席の話声がどこか遠くに聞こえるのは酔っているせいか、意識が過去に引き戻されているからか。瞼の裏に浮かぶあの人の背中はいつだって私の前に居て、そこからいなくなることはない。私はこの先もきっと、ずっとその背中を追いかけるんだろう。



「美月と五条って、似てるよね」

「え、私と悟が?」

「昔から思ってたけど。夏油を信仰してるところとか」

「信仰って……」

「あいつ、そんなにすごい奴だった?」



 ずずっと焼酎を啜りながら視線だけをこちらに寄越した硝子は、私の真意を探ろうとしている。でも私は、その問いに答えられるほどはっきりとした考えを持っているわけではなかった。私にとって傑は、友人で、師で、誰よりも悪い人、なんだと思う。それでもなんのプライドも目的も持ち合わせていなかった私には、彼の言葉は重く響いて、私の呪術師としての根っこを形成してしまっている。私は、傑のようになりたかった。弱き者を助けられる強い人に。



「今は、分かんないかなあ」











 古くなった木の床は、足を進める度にギシギシと耳障りな音を立てる。自らの背中ですやすやと寝息を立てている彼女を起こさないように、できるだけ忍び足で歩いた。彼女の唇からは仄かにアルコールのツンとした匂いが漂って、少しだけ自分も酔ってしまいそうになる。学生も寝泊りする寮の一番端の部屋。学生時代にも使っていたその部屋に、彼女は居を構えていた。居酒屋から持ち出したカバンを探ってカギを取り出せば、彼女の部屋の扉はいとも簡単に開く。学生時代は何度も通ったこの部屋。大人になってからは何故か足を向けたことがなかったそこは、昔と変わらず僕を受け入れる。部屋の隅に居座るベッドは彼女一人が眠るには少し大きい。もしかして僕のため、なんて思って「美月」と名前を呼んでみたけれど、息を吐くばかりで反応はなかった。そっとベッドの上に美月を下ろせば、見慣れた寝顔を惜しみなく曝してただ安心したように眠っている。



『あんたも美月も、夏油に頼りすぎ。そろそろ自立したら?』



 美月を迎えに行った居酒屋で硝子に言われた言葉を思い出す。彼女が術師を辞めて教師を目指したきっかけも、目的も、どちらもアイツの考えが透けて見えた。僕と、同じだ。僕も美月も、心の深い部分に傑が眠っている。頬にかかった髪を耳によけて、そのまま滑らかな肌に手を滑らせる。ん、と身じろぐ声すらも愛おしくて、無意識に頬に唇を寄せた。ずっと、好きだった。それを自覚するのにも時間がかかったし、自覚した後も特に僕らの関係は変わらなかった。今よりももっと近づきたい。友達なんて垣根を越えて特別な存在になりたい。そう思っていても、あの頃の僕はそんな度胸も持ち合わせていなくて、たまに一緒に眠る様な曖昧な関係にしかなれなかった。



『私は、振られたよ。美月は私じゃなくて悟を選んだ』



 傑の最期の瞬間。忘れられないし、この先忘れるつもりもない。呪術師うんぬんを抜きにして、最期に聞いたアイツの気持ち。傑にも硝子にも何度背中を押されても動けないでいる僕を、彼はどんな気持ちで見ていたんだろう。



『せっかく両想いなんだから、必ず成就させてくれよ』



「分かってるよ、傑」



 ただの独り言が静寂の部屋には大きく響いて、慌てて美月を確認したけれど、彼女は未だ寝息を立てていた。飲めないから分からないけれど、お酒の力は恐ろしいものだ。何の断りもなくベッドの中に潜り込んで同じ布団に包まる。いつもは後ろからしか抱きしめられない体を、堂々と正面から抱きしめる。初めて眠るはずのこのベッドは、もう美月の匂いに染まっていた。今の彼女の気持ちがどうかなんて知らない。傑が言うように、彼女は僕を好きだったのかもしれないけれど、本人に聞いたわけじゃない。それでも、不思議と成就できる気がするのは、やはり傑のお墨付きだからだろうか。今度こそ、素直になるよ。今の僕はあの頃とは違う。腕の中に収まる温もりが心地いい。こうしていたら起きた時に怒られるだろうか。いつかこうして、酔っていなくても抱きしめ合って眠れる日がくれば、なんて夢に見ながら僕は目を閉じた。











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