触れた指先

 美月が倒れた。その台詞を聞くのはこれが初めてではない。今でこそ回数は減ったものの、あいつがこの学校に来てからは何度もあることだ。術式が身体に合わないのか、単に無理をしすぎているだけなのか。仕組みはよく分からないけれど、少し重めの任務の後は決まって美月は熱を出して数日寝込んでしまう。ただいつもと違ったのは、今日はいつも美月を看病してやる硝子が不在だった。



「美月、入るぞ」



 陽が沈んですっかりと夜の帳が降りた頃。硝子からの連絡をうけて俺は美月の部屋を訪ねた。寝ているかもしれないので控えめに美月の部屋の扉をノックしてドアノブに体重をかければ、ギイッと木の軋む音がして扉が開く。「さとる、?」と弱々しい声が部屋の奥から聞こえて、目をこらすと美月が横になったままこちらを見ていた。間接照明だけをつけると、部屋の中がほんのりと橙色に染まる。傍にあった椅子を引き寄せてベッドサイドに腰を下ろすと、美月は起き上がって乱れた髪を直した。



「硝子は………?」

「九州行ってる。一応硝子から必要な物聞いて持ってきたけど」



 任務帰りにドラッグストアで買ってきた袋の中には、冷えピタ、スポーツドリンク、アイスクリームが入っている。風邪を治すためのものではなく、ただひたすらに熱を下げるものだ。おそらく術式の酷使によって熱が引かなくなった体は、ウイルスが原因ではない分なかなか熱が下がりにくい。そのために外側から体を冷やすのだと、硝子は言っていた。「ありがとう」と買ってきたアイスクリームに手を伸ばした美月は、ほんのりと額に汗をかいている。いつもより少し気だるげな目元はどこか違う雰囲気を感じさせて、ごくりと唾を飲みこんだ。



「で、いつも硝子は何してくれるの?」



 いつもと違って静かにアイスクリームを口に運ぶ美月を見つめながら冷えピタの箱を開けていく。青く冷たいジェルがついたシートは12枚入り。これだけあれば次回の分まで足りるだろ、あれ、そもそも冷やさないと使えないんだっけ。とりあえず貼ってみるかと美月の額にかかった前髪を払うと、いつもなら触るなと言って嫌な顔をする美月は大人しく目を閉じて少しだけ上を向いた。



「冷えピタ貼ってもらったり、汗ふいてもらったりとか、それくらいだよ」

「……ふうん」



 熱のせいか赤く染まる頬に、熱い息を吐く唇。ふと頭を過る妄想を振り払って美月の額に触れると、思っていたよりもそこは熱かった。透明のシートを剥がして熱い額に貼り付けると、閉じられていた瞼がそっと開く。至近距離で目を合うと、少しだけ、心臓が跳ねた。

違う。美月の視線が熱いのは気のせいだ。熱のせいだ。



「………悟、ちょっと、近い」



 視線を逸らして俯いた美月の声に、「お、おう」なんて歯切れの悪い返事しか出ない。無意識のうちに額から頬へと移動していた手をすぐに離すと、美月はそれ以上何も言わずに再びアイスを口に運んだ。しん、と沈黙が続くと、休むことなく跳ねる心臓の音が聞こえてしまいそうで胸のあたりがむず痒い。指先に残る肌の感覚は柔らかくて、熱くて、少し汗ばんでいて。きゅっと指先を握ると、指先までトクトクと脈打つ気がする。何も言えないまま指先をただ見つめていると、美月は「ごちそうさま」と少し掠れた声で呟いた。空になった容器を受け取ってゴミ箱の中に投げ込むと、とうとうこの部屋に来た理由がなくなってしまう。傍にいたいが、これ以上長居するのも心臓に悪い気がして、「それじゃあ」と椅子を立つと、美月は俺の名前を呼ぶと袖をくん、と引っ張った。



「………………」

「………なんかしてほしいこと、あんの?」

「………………せ、拭いてほしい」

「ん?」

「汗、拭いてほしい」

「は?」

「背中だけでいいから」



 すっと手を放して布団をきゅっと握りしめた美月は、照れているのか熱のせいか、頬を赤く染めて俯いている。その指先は少しだけ震えていた。確かに、熱がある状態では風呂は入れないし、背中は自分では拭きづらいだろう。誰かに頼みたい気持ちも分かる。分かる、けど。



「それ、脱ぐってこと?」

「え、や、脱ぐ、けど……前は隠すし、電気も消して……」

「え、いいの?俺が?まじ?俺は全然いいけど」

「………言わなきゃよかった」



 硝子に背中を拭いてもらっていた、そう言われた時に何も考えなかったわけじゃない。そういうシチュエーションがあればいいなと思ったけれど、美月は絶対そういうことは許してくれないと思ったから、自分から言わなかっただけ。まさか美月の方から提案してくるなんて思ってもみなくてもう一度椅子に腰を下ろすと、美月はさっきよりも顔を真っ赤にして「………後ろ、向いてて」と今にも消えそうな声で言った。きっと熱に浮かされて、マトモな思考も残っていないんだろう。素直に従って後ろを向くと、背後で布の擦れる音がする。すぐ後ろで、美月が、脱いでいる。実際に見ているわけではないのに、その事実だけで心臓がうるさいくらいに音を立てた。振り向いてしまいたい、その衝動を抑えるのに必死だ。今振り向いたら怒られるのは目に見えているから絶対に見ないけど。



「い、いよ」



 後ろから聞こえた震える声に振り向くと、美月はシャツを脱いでこちらに背を向けていた。当然ながら胸は脱いだ服で隠しているが、それでも何も纏っていない背中はとても扇情的に見えた。ごくりと唾を飲みこんだ音は、美月にも聞こえただろうか。冷たい水で濡らしたタオルをそっと肌に添わせると、ぴくりと小さな背中が揺れる。「ごめん、冷たかった?」俺の問いに美月は首を横に振ると、「…くすぐったかっただけ」と顔を俯かせた。様子を見ながらゆっくりとタオルを肩甲骨から腰にかけて滑らせていくと、緊張していた美月の背中から少しずつ力が抜けていった。それにしても、綺麗な背中だ。呪術師なのだからそれなりの傷があるだろうと思っていたのに、美月の背中は傷一つなくとても綺麗だ。そういえば、いつどんな時も、美月は敵に背を向けたことはなかったな。初めて会った時から負けん気が強くて、恐れ知らずで、そのくせ人に頼ることが苦手。俺としてはもう少し頼ってくれてもいいのに。



「また熱出したらいつでも言って。背中くらい、拭いてあげるし」



 他のところを見て変な気を起こしてしまわないように背中の一点だけを見つめたままそう言うと、美月は少し考えて、握りしめていた服をきゅっと握りしめた。「…………うん、そうする」小さく聞こえた声に少しだけ安心して、止めていた手を再びゆっくりと動かした。








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