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「今日から一年生の副担任をすることになりました。綾瀬美月です。よろしくお願いします」



 たった二人の一年生を前に簡単な挨拶を済ませ、できるだけ丁寧に頭を下げる。突然のことにきょとんと目を丸くする二人の視線を感じながら、ちらりと同僚となった男を見れば、彼は上出来だと言わんばかりに頷いた。木造建ての少し古い校舎は、今まで通ってきた真新しいコンクリートの学校と違って、懐かしさを感じさせる。四年間。青春の時を過ごしたこの学校に、私は“教師”として再び戻ってきた。







 遡ること一週間。宮城県にある杉沢第三高校で教師をしている私は、デート帰りにふと仲の良い生徒が話していたことを思い出した。『虎杖が変なやつ持ってきたから、今日の夜学校でお札を剥がそうと思います!』自称オカルト研究部の二年生・佐々木は少し興奮気味にそう言った。彼女からは特に呪いの気配などは感じなかったしまあ大丈夫だろうと、「あんまり遅くならないようにね」とだけ伝えて別れたけれど、ほんの少しだけ気になって私は学校に向かった。あの時、何も考えずに家に帰っていればよかったかもしれないと私は自分の選択を後悔することになる。また、あの世界に足を踏み入れてしまうなんて。



「やあやあこんばんは!」



 玄関の扉を開けた先には、真っ黒なアイマスクをしたいかにも胡散臭い男が満面の笑みで立っていた。何で私の家を知っているのかとか、今何時だと思ってるんだとか、何をしに来たんだとか、聞きたいことはいろいろとある。とりあえず見なかったことにしようと扉を閉めようとしたら、男は無理矢理足を突っ込んでそれを阻止して強引に家の中に入り込んできた。



「ちょっと!何しにきたわけ!?」

「急にこっち来たからホテル取ってないんだよね。泊めて」

「断る」



 あの後学校に戻った私は、呪霊に襲われた佐々木と井口を見つけてなんとか病院へ連れて行こうとしていたところを、この男、五条悟に10年ぶりに再会した。高専を卒業してからこの男に会わないようにと地元を遠く離れた仙台を勤務地に選んだというのに、どうやら無駄なあがきだったようだ。すぐ私に気が付いたこの男は「今は無理だけど後で絶対会いに行くから。逃げるなよ」とだけ言い残してその場を去った。まさか本当に有言実行してしまうとは思わなかった。



「虎杖悠仁がどうなったのか、知りたくない?」



 必死に押し返してもビクともしない悟の言葉に、私はぐっと言葉を飲みこんだ。悟は学校で再会した時、肩に意識を失っている虎杖悠仁を抱えていた。彼は呪霊との戦闘に巻き込まれ、勢いで特級呪物・両面宿儺の指を飲み込み、受肉してしまったらしい。呪術規定に基づけば悠仁は処刑対象になるはずで、悟は「僕が何とかする」と言ってどこかへ行った。それから何の報告も受けていなかった私は、彼がどうなってしまうのかずっと気になっていたのだ。「……分かった」と諦めて身を引くと、悟はにやりと口角をあげて「お邪魔しまーす」と家の中に足を踏み入れた。昔から遠慮というものを知らないこの男は長い足を投げ出してソファに腰掛けると、私に隣に座るように促した。大人しく隣に座ると、一気に縮まる昔と同じ距離感に少し緊張する。もう10年も、彼とは会っていなかった。それなのにこうして再会してしまえば、当たり前のように隣に並んで座ってしまえる自分がいる。それくらい私にとって、五条悟という男はいつだって隣にいるのが当たり前の存在になっていた。



「死刑は死刑なんだけど、執行猶予がついたよ。宿儺の指を全部取り込むまではね」

「悠仁はそれでいいの?」

「彼は呪術師として生きていく道を選んだよ。明日から高専に通うって」



 身近な話のはずなのにどこか他人事に感じるのは、やはりあれからずいぶんと長い時間が過ぎてしまったからだろう。東京都立呪術高等専門学校。呪術界の要であり、呪術師を育てる数少ない教育機関で、私も四年間そこに通っていた。少ない同級生と貴重な青春を謳歌しながら、呪術師として仕事もこなしていた。卒業後も呪術師として生きていくのだろうと漠然と思っていたけれど、結果は違う。卒業と同時に呪術師を辞めた私は、こうして一般の学校の教師として普通に生きていた。そうして10年の時が過ぎて、呪いなんてたまに見かけるだけの、その程度の存在にまでなってしまっていた。そんな普通の毎日の中に、突然現れた呪術界最強の男と“特級呪物”と呼ばれるもの。私は未だそれらに馴染めないでいる。



「で、美月は学校辞めたんだって?」



 充分重要な話だったと思うけれど、まるでここからが本番だとでも言うように悟は身を乗り出して私を見つめた。真っ黒なアイマスクの奥でどういう表情をしているのかはよく分からない。



「うん。怪我人が二人も出ちゃったし、悠仁は宿儺の指食べちゃうし。さすがに何食わぬ顔で先生は続けられないかなって」



 見慣れないアイマスク姿を凝視していると、彼は気を利かせたのかアイマスクに指をかけるとするりとそれを引き下ろした。真っ白な睫毛に縁取られた青い瞳が姿を現して、ごくりと唾を飲みこむ。久しぶりに見る彼の素顔は私が知っている時よりも少し歳をとっていて、それでいてどこか少年っぽさも残っている。再会した時から分かっていたはずなのに、彼が五条悟なのだとようやく理解できた気がした。何度も何度も見つめてきた、青い瞳。途端に思い出す、彼と過ごした青春の日々。あの頃は楽しかったな、と思うのと同時に、今この場にはいないもう一人の同級生を思い出して私は目を伏せた。



「じゃあ今は絶賛ニート中ってわけだ」

「そうですけど。何か問題でも?」

「いや、ちょうどいいよ」



 何がちょうどいいのかは知らないが、ぐっと顔を寄せた悟は私の顎に手をかけると無理矢理上を向かせて視線を合わせた。昔からどこか距離感がバグっている奴だったけれど、大人になってからそれに拍車がかかったらしい。漫画やドラマでしか見たことのない状況にドキドキと心臓が高鳴る。少しでも動けば唇が触れてしまいそうで、私は浅く呼吸をするので精一杯だった。



「美月。呪術高専に戻っておいでよ。僕には君が必要なんだ」









 ―――――――とまあ、こんな経緯で私は呪術高専で一年生の副担任として呪術師に復帰することとなった。本当は二度と呪術とは関わらないと決めていたけど、悟に半ば強引に口説かれて、悠仁のことが心配というのもあって復帰することを決意した。かつての担任だった夜蛾先生は快く受け入れてくれて、私はこうして教壇に立っている。



「え、美月ちゃんって呪術師だったの?」

「うん、まあそんな感じ」

「僕の同期だよ。昔はここに通っていたから、君たちの先輩だね」



 つい先日まで同じ学校で顔を合わせていた悠仁は私がここにいることに驚いているようだった。私もまさか自分が呪術師として教壇に立つ日が来るとは思わなかったし、隣に悟がいるとも思わなかった。生徒たちから“先生”と呼ばれる彼は得意げに私のことを紹介すると、ほらほら見て〜とどこから引っ張りだしてきたのか昔の写真を勝手に生徒たちに見せている。うわあ美月ちゃんが幼い!とか五条先生がサングラスだ!と騒ぐ悠仁を横目に、私は悟の脛を思い切り蹴りつけた。無下限のせいで当たらないのが無性に腹が立つ。



「まさかあなたが一年の担任だったなんて知りませんでしたよ、“五条先生”」

「え〜言ってなかったっけ?」



 わざとらしく惚けてみせる悟を睨みつけると、彼は「これからよろしくね、美月せんせ!」とウインクをしてみせた。前にも増してクズさが増しているこの男は10年の間に悪い方向に成長してしまったらしい。呪術師に復帰するだけでも頭が痛いのに、こいつと同僚として一緒に働かなければならないなんて。ここ数日で何度目か分からないため息を吐いた私は、可愛い生徒が無事だっただけ良しとしようと心の中で呟いた。











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