邪魔はちゃんと排除する


 重いため息を吐くのは、もう何度目だろう。今まで甚爾さんを追いかけるばかりでロクな恋愛をしてこなかったせいなんだろうか、私の考えた解決策はすべて最低なものだった。恵が告白してくれた時もそう、そして、久しぶりに帰ってきた時も。恵が帰ってくるのは嬉しかったけれど、内心ずっとなんとかしなきゃと思っていた。返事もないまま恵を高専に送り出してしまった時から、ずっと喉に小骨が刺さったような気がしてすっきりしなくて、だからなんとか返事をしなきゃって。でも、いざ恵を前にすると、なかなか思うように言葉が出てこなくて。それでもなんとか分かってもらおうと出した言葉に、恵はすごく傷ついたようだった。



「それは、俺の気持ちに向き合う気はないってことですか」



 いつもより低い声に思わず掴んでいた手を放すと、恵はそのまま目を合わせることもなく部屋に戻ってしまった。結局恵は朝まで部屋から出てこなくて、帰り際、小さな声で「昨日は、悪かった」と言って高専へと戻っていった。それから恵から連絡は来なくて、自分から連絡する勇気もなくて、もう何日が過ぎたんだろう。スマホを何度も確認しては、ため息を吐いて、その繰り返し。私は、どう答えるのが正解だったんだろう。恵のことは好きだ。でもそれは家族としてであって、そもそも家族になったのも、甚爾さんの遺言があったからで。私と恵の間には、どうしたって甚爾さんがいるのに。恵の気持ちには応えられないし、応えちゃいけない。恵は甚爾さんの代わりじゃ、ないのに。メッセージアプリを閉じてスケジュールを確認すると、午後の予定には「修繕依頼」の文字。依頼人は五条悟で、場所は高専だ。正直、気が進まない。恵に会ってしまうかもしれないし、恵の異変に気付いた五条さんにまた揶揄われるかもしれない。五条さんから恵を預かってから何度か会っているけれど、あの人はなんだか苦手だ。遠慮というものを知らないのか、ズケズケと人の中に入り込んでくる。甚爾さんのことだって、なるべく触れられたくないのに。恵は、私が自分の父親を好きだったなんて知ったら、いったいどう思うんだろう。軽蔑、するだろうか。



「………………行かなきゃ」



 私の気持ちを無視して進む時計は、一秒だって待ってくれない。仕方なく重い腰を上げるけれど、唇からこぼれ落ちるため息は一向に減らなかった。









 私の顧客は御三家がほとんどで、高専を仕事で訪れるのは年に一度あるかないか。今回も何年ぶりだろうか、久しぶりに見る校舎は相変わらず古っぽい。事前に送られてきた地図を頼りに指定された部屋を訪れれば、いつもの呑気な声が出迎えてくれた。



「お久しぶり〜。一人暮らしはどう?」

「まあまあです。五条さんは相変わらずお元気そうで」

「期待の星が入学してくれたからね。そりゃもう絶好調」



 去年は包帯で隠していた目元を黒い布に変えたその姿は、以前にも増して表情が読みづらい。適当に相打ちを打って壁に掛けてあった薙刀を手に「これですか?」と問いかけると、「そう。先が欠けちゃってね」と五条さんは私の分のコーヒーを淹れてくれた。正直あまり長居はしたくなかったけれど、大人しく向かいのソファに座ってコーヒーに口をつけると、五条さんはにんまりと口角を上げて頬杖をつく。依頼された呪具の損傷はそれほど酷いものではない。私の呪術でも数分もあれば直せそうだ。



「で、恵と何かあった?最近不機嫌みたいなんだけど」

「……べ、つに何も」

「ハハ、ウケる。紫ってほんとに嘘つくの下手だよね」



 ボチャボチャと角砂糖をコーヒーに投げ入れながら笑った五条さんは、「まだまだ青いね、お互い」と言うと窓の外を眺めた。その言葉にむっと眉を潜めながらも、指先に集中して呪具を修繕していく。その間もペラペラとデリカシーのないことを話す五条さんは私の様子を気にもとめることもなく、ずるずると音を立ててコーヒーを啜った。これだから、この人は嫌なのだ。私と甚爾さんの関係を知りもしないくせに、どこかからか聞きつけた噂だけで私のところに訪れて、弱みにつけ込んで恵を預けて。そもそも私から甚爾さんを奪ったのも、この人なのに。



「恵とアイツって、似てるよね」

「………そうですね」

「やっぱり二人を重ねて見たりしてるの?」



 ニヤニヤとした口元、すごく嫌い。一体どういうつもりでその質問をしているのか、私には分からない。私が恵を甚爾さんの代わりにしているとでも思っているのだろうか。五条さんが恵を自分の後継として育てたいと考えているのは以前から知っている。彼は禪院家相伝の十種影法術を受け継いでいるし、その当主になる素質も十分にある。呪術界にとってそれほど大切な存在を弄ばれるのは、さぞ気に食わないのだろう。そもそも甚爾さんと関係のある私に恵を託しておいて、なんて身勝手な話だ。それに、私が恵に手を出すことがどれほど罪深いものなのかは、私が一番よく分かっている。



「恵は恵です。甚爾さんとは、違う」



 呪具から目を離して五条さんを睨みつけると、彼はただ微笑むだけだった。やはりその笑顔は居心地が悪くて、早く済ませてしまおうともう一度呪具に集中する。私がこの仕事を始めたのは、甚爾さんのためだ。もちろん生きるためでもあったけれど、普通のアルバイトよりも稼げるこの仕事は甚爾さんを支えていくのに都合がよかった。そもそも私の術式を自分で受け入れられたのも、甚爾さんに出会ったからだ。相伝の術式でないと生きる価値がなかった世界で、甚爾さんだけが、私に生きる意味を与えてくれたのだ。恵を育てたのだって、たとえもう死んでしまっていても、彼に嫌われるのが怖かったから。そんな甚爾さんを愛し続けた自分を裏切りたくはないし、恵だって、こんな女、嫌に決まっている。



「僕は、死んだ奴を想い続けるより、恵を恵として好きになった方がよっぽど君のためになると思うけど」



 静かにこちらを見つめる五条さんの視線は、まるで生徒に向けられるものみたいに優しい。私はこの人とそんなに親しくはないし、生徒になったこともない。心配されるほどの関係でも、ない。自分の理想のために私をうまく利用しているだけ。そう、思っていたけど。私の気持ちを読み取ったのか、「これでも君には感謝してるんだよ。おかげで恵はいい子に育ってくれたし」と五条さんは天井を仰いだ。その言葉にどう反応していいか分からずにいるうちに、コンコンと小さく部屋の扉が叩かれて、補助監督が顔をのぞかせた。「五条さん、そろそろ」という補助監督の言葉に、五条さんが重い腰を上げる。呪具の修繕なんて郵送でも構わないのに、わざわざ私を高専に呼び出したのは恵と、それから私のことを心配していたからなのだろう。



「それ、直ったら真希にでも渡しといて」

「五条さん、あの」



 補助監督に連れられて部屋を出ていこうとする五条さんを呼び止める。私も立ち上がって頭を下げれば、五条さんは少しだけこちらを振り向いた。



「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫です。私が恵を好きになることは、ありませんから」



 半分は自分への誓いのようなものだった。恵を見ていると、どうしても甚爾さんを思い出す瞬間がある。彼といると心地が良い。それが甚爾さんの血に惹かれているのか、恵自身に惹かれているのか、自分でも分からなかった。戸惑う度に、甚爾さんが私を見ている気がして。頭を上げて五条さんを真っすぐに見つめると、五条さんは少し困ったように頬をかいて扉の外を見やった。



「あー…、それ、本人にちゃんと言った方がいいんじゃない?」

「え?」










 紫さんが高専に来る。突然そう言いだしたのは五条先生で、おかげで午前中の授業はほとんど頭に入らなかった。あれ以来、一度も連絡を取っていなかった紫さんが、なんのめぐり合わせか高専にやってくる。あの日、確かに紫さんの言葉には傷ついた。でも半分は自分がいい返事を期待していたからであって、別に紫さんが悪いわけじゃない。そう頭では分かっていても、やっぱり納得することはできなくて、つい冷たく当たってしまった。せっかく帰省したというのに、俺のせいで台無しにしてしまった。帰り際に一応謝ったけれど、目も合わせることもできず、きっと紫さんも戸惑っていただろう。そのことをきちんと謝りたい一方で、なかなか素直に言い出せない自分もいて。それを察したのか五条先生は紫さんが来る時間と場所を教えてくれて、俺はとりあえず会わなければと指定された場所へ足を向けた。一足先に部屋の前で待っていた補助監督の人に軽く会釈をして、五条先生が出てくるのを待つ。扉を開けて飛び込んできた言葉に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。



「私が恵を好きになることは、ありませんから」



 気のせいだと思いたいが、これは紛れもなく紫さんの声。それまで五条先生とどういう会話をしていたのかは知らないが、五条先生の気まずそうな顔を見ると、彼が言わせたわけでもないんだろう。俺には、家族だなんだと言っていたのに。五条先生と入れ替わるようにして部屋に入れば、紫さんは目を丸くして酷く狼狽えた。「恵、」と久しぶりに聞く俺の名前を呼ぶ紫さんの声。あんなに好きだったのに、今は聞きたくなかった。



「恵、あの」

「どういうつもりで言ったかなんて、どうでもいいです」



 なんとか弁解しようと口を開く紫さんに近づいてその腕を掴むと、紫さんの肩が小さく跳ねた。紫さんは、こんなにも小さかっただろうか。控えめに見上げてくるその目を見つめると、少し湿り気を帯びているように感じる。俺は今、どんな顔をしているんだろうか。



「五条先生には、素直に言えるんですね」



 五条先生と紫さんは御三家同士で交流があって、俺が出会うよりももっと前から面識がある。俺を紫さんの元に連れて行ってくれたのだって五条先生だ。それはどうしたって変えようのない事実だし、一緒に暮らしたからって埋められないものだって分かっている。それでも、無性に腹が立った。俺の父親との関係を何も話してくれないのも、どうして俺たちを引き取ってくれたのかも、どうして、家族だなんて曖昧な言葉で俺を遠ざけたのかも。五条先生は知っているのに、俺は知らない。紫さんの肩を軽く押すと、紫さんの体はすとんとソファに収まった。そのまま囲うようにひじ掛けに両手をつくと、カタンと音をたてて傍にあった薙刀が床に転がる。紫さんはきっとこの呪具を直しにきただけで、俺に会いにきたわけじゃない。あれ以来連絡だって一度も無かった。目を合わせようにも俯いてしまった紫さんは、「ごめん」と小さな声で謝るばかりで。俺がタイプじゃないから?まだアイツが好きだから?他に好きな奴がいるから?俺が、まだ子供だから?俺達は血なんか繋がってない。それなのに家族だからダメって、どうして。



「…ッや!恵!」



 俯く彼女の顎を無理矢理持ち上げて、薄く色づいた唇に自分のそれを押し付ける。驚いて必死に肩を押してくる紫さんの腕を捕まえて、そのまま力でねじ伏せた。キスなんてまともにしたこともない。それでも、この腹の底から溢れてくる感情をこんな形でしかぶつけられなかった。唇の隙間から甘い吐息を漏らしながらも抵抗をやめない紫さんに腹が立つ。



「恵ッ…やめて!」

「アイツとは、俺の父親とはどんなキスしたんだよ!」



 先ほどまで暴れていた紫さんの動きが、ピタリと止まる。どうして知っているのか、そんな顔で俺を見つめる紫さんの瞳がゆらゆらと揺れた。紫さん本人から、アイツの話は聞いたことがない。面識があったことも、愛人だったことも。おそらく津美紀も知らないだろう。俺が紫さんに気があると知っていながら、一度だって教えてはくれなかった。家族だなんてずるい言葉で片づけようとして、俺が、どんな気持ちであんたを想っていたのか考えもしないで。



「俺とアイツは、そんなに似てますか?」



 はらりと、紫さんの瞳から涙が溢れた。答えなんて聞かなくても分かってる。紫さんはいつだって懐かしそうに、少し熱い目で俺を見つめていたから。それでいて絶妙な距離を保ったまま近づくこともなくて。きっと、俺にアイツの姿を重ねていたんだ。何も言わない紫さんにもう一度唇を押し付けたけれど、もう抵抗することはなかった。ただすすり泣く声を聞きながら、俺は自分の気持ちを紫さんに押し付ける事しかできなかった。






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