君の視線が僕に向くなら

 数年ぶりに一人だけの空間に戻った家は、ただいまと零しても返事はない。電気もつけないままに足を進めて、カバンも肩に引っ掛けたままソファに沈むと、遠くで17時半を告げる鐘がこだましているのが聞こえた。すでに夕日が傾いて薄暗くなりつつある部屋は、いつもよりもなんだか寂しく感じる。さっきまで確かに傍にあった温もりを思い出すと、胸がきゅうっと苦しくなった。



「俺とアイツは、そんなに似てますか?」



 恵から甚爾さんの話を聞いたことは一度もない。五条さんから彼らを私に預けることになった経緯は聞いていたし、恵も、甚爾さんに対してあまり大きな感情を持っていないようだったから。だから私も、恵には甚爾さんのことを一切話さなかった。最初は恵が憎くて仕方なかったというのもある。でも恵が大きくなるにつれ、子どもじゃなくなっていく姿を見て、私と甚爾さんの関係を知られたくないと思うようになった。幼い頃に私が見てきた、私の実の母親と父親の関係は、私にとって汚らわしいものだったから。だから絶対恵には知られたくなかった。それなのに。



「アイツとは、俺の父親とはどんなキスしたんだよ!」



 今までに聞いたことのない大きな声で、恵はそう言った。私を見つめる恵の瞳は怒りと戸惑いに揺れていて、私はそこから目が離せなかった。私の腕を掴む恵の手が熱い。無理矢理重ねられた唇が熱い。責めるような瞳で見つめられた心が、痛い。いったいいつから私たちのことを知っていたのだろう。知っていて、どうして黙っていたのだろう。彼はどんな気持ちで、私に好きだと言ったのだろう。そっと唇に触れると、家を出るときに塗ったはずのリップが落ちて少しカサついている。今まで恵の気持ちに気付きながらも、それ以上二人の関係が進んでしまわないようにある一定の距離を保ってきた。今でも大好きな甚爾さんを裏切りたくはなかったし、私の恵に対する感情も、きっと彼が甚爾さんを思い出させるからにすぎないと思っていたから。そしてなにより、私と甚爾さんの関係を知られて、恵に嫌われたくなかったから。だから今まで何も見えていないふりをして、恵と家族として生きてきたのに。

 荷物を床に下ろしてそのままズルズルとソファに横になれば、カーテンの隙間からはまだ少し赤みの残る夜空が見えた。甚爾さんと恵は、似ている。私の名前を呼ぶ声も、少し硬い指先も、まるで夜空みたいに深い瞳も。似ているからこそ、分からなくなるのだ。私は恵を見ているのか、恵を通して甚爾さんを見ているのか。



「甚爾さん………」



小さく呟いた声は誰に届くわけでもなく、部屋の隅に吸い込まれていく。寂しさに体を抱えると、頭の中に浮かぶのは恵の体温ばかりで。



「甚爾さんッ…!」



 もうずっと前から感じられなくなった温もりを思い出そうと必死に過去の記憶を辿る。甚爾さんの声、甚爾さんの視線、甚爾さんの、腕の中。優しく私の名前を呼んで、隣に座って、髪を撫でて。それから――――………








「何しけたツラしてんだよ」



 二人で寝るには少し狭いベッドの上。壁側を向いて黙り込んでいる私の顔を覗き込んだ甚爾さんは、前髪をサラリと撫でると「こっち向けよ」と囁いた。その言葉に渋々と体の向きを変えると、甚爾さんはただ黙って私を見つめる。私が悩んでいる時や落ち込んでいる時はいつもこうだ。私が話し始めるまで、ただ黙って甘やかしてくれる。するすると髪を撫でる指が心地いい。



「…甚爾さんにとって、私って何?」

「何って、紫は紫だろ」

「そうじゃなくて!」



 きゅ、とシーツを握りしめると、甚爾さんは深いため息を吐いた。その吐息の中にはお酒の匂いと、微かな香水の匂いがする。遅くに彼が訪ねてくる時はいつもそうだ。夜の雰囲気を纏わせた気怠い瞳と、女の人の香り。今まで何をしていたかなんて聞かなくても分かる。それも会う度に違う匂いを連れて帰る。甚爾さんが“そういう人”だと言うのはなんとなく分かっていた。それでも好きだったし、その行為を咎めようと思ったこともない。それでもどうしても納得できないのは、彼が、私にはちゃんと触れてくれないからだ。いつもこうやって一緒に寝るだけ。ただそれだけなのだ。



「なんで、私には触れてくれないの?」



 こんな質問をすること自体が子供じみていると分かっている。それでも、聞かずにはいられなかった。幾度となく私の元を訪れる甚爾さんは、一体私のことをどう思っているのか知りたかった。家族でも愛する人でも性の相手でもない、宙ぶらりんな私の存在を。祈るようにじっと甚爾さんを見つめても、彼は何も答えてくれない。ただ漆黒の瞳がゆらゆらと揺れるばかりで、甚爾さんが何を考えているのか分からない。

 私が、子どもだから?じゃあどうして私の元にくるの?たとえお金目当てでもいい。宿目当てでもいい。甚爾さんの中に、はっきりとした私の居場所がほしい。もし望めるなら、甚爾さんに私のすべてをもらってほしい。私は、甚爾さん以外何もいらない。

 手をついて体を起こせば、ギシリとベッドが軋む。そのまま少し上体を傾けて、私は甚爾さんの唇に自分のそれを押し当てた。

 好き。好きなの甚爾さん。お願い、私を見て―――……



「……ッ!?」



 その瞬間、両肩を掴まれて勢いよく体が反転した。背中が柔らかいベッドに沈んで、視界が甚爾さんでいっぱいになる。驚いて固まっていると、今度は甚爾さんが私に唇を押し当てた。少し開いていた唇の隙間から無理矢理舌をねじ込まれ、逃げ回ってもどこまでも追いかけられる。両腕は頭の上に固定され、逃げられないように顎を掴まれ身動きができない。舌を吸って、唇を咬んで、唾液を混ぜ合って―――こんなキス、私は知らない。



「……ッう…や、甚爾さ…ッ!」



 顔を背けようにも甚爾さんの力には敵わない。ただぎゅっと目を瞑って耐えるしかなかった。分厚い舌が口の中を蹂躙して、息がうまくできない。顎を掴んでいた手が離れ、するりと服の中へ侵入してくる。冷たい甚爾さんの手のひらが腹の上を這って、ゾクゾクと背中が震えた。いや、やだ、こわい。



「嫌ッ…甚爾さん…っ!」

「…………ハッ」



 覚悟はしてた、はずだった。甚爾さんにすべてを捧げたいと、本気でそう思っていた。それでも突然の展開に気持ちが追い付かなくて、カタカタと体が震える。私の言葉に甚爾さんはすっと体を離すと、冷たい目で私を見下ろした。私の瞳からははらはらと涙が零れて止まらない。怖かった。大好きな甚爾さんなのに、私はあんな彼を、見たことがなくて。まるで知らない人みたいで怖かった。違う、違うの甚爾さん。そんな顔、しないで。



「わ、私…ッ」



 嫌われたくない。でも触れられるのが怖い。甚爾さんが嫌なわけじゃない。そう伝えたいのに、唇が震えてうまく話せない。ぼろぼろ、ぼろぼろ。涙は一向に止まる気配がなくて。ただ嗚咽を漏らしながら泣き続ける私を見て、甚爾さんはベッドから降りるとそのまま部屋を出ていこうとする。行かないで、そう言いたいのに言葉にならない。



「ガキが、大人の真似事してんじゃねえよ」



 カタンと静かな音を立てて、甚爾さんは部屋を出て行った。そのまま玄関の扉が開かれる音を聞いても、私の体は動かない。いつもなら涙を拭ってくれる彼の指先は、私に触れることなく離れていった。少しだけ傷ついたような、怒ったような、甚爾さんの顔が忘れられない。私は、自分で彼に近づいておきながら、彼を傷つけてしまった。私は、何の覚悟も出来ていなかった。

 甚爾さんが私に触れたのは、これが最初で最後だった。彼にちゃんと謝りたかったのに、彼が私の元を訪れることは、なかった。









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