誰にでも優しい君だから


 高専に引っ越す前日。いつものように朝食を済ませて、家を出る準備をして、帰ったら仲良く夕食を食べて。最後の日は何事もなく過ごして、でも少し紫さんが泣いたりして、それでもまたねって笑って見送ってもらう、はずだった。その予定はずっと前から考えていたものだったけれど、現実は違った。俺は自分の気持ちを抑えられなかった。ずっと一緒に暮らしてた紫さんに男の影はなかった。紫さんはアイツをずっと思い続けていると思っていたから。それでも、もし隠していただけだったら?俺たちが一緒に住んでいるから遠ざけていただけで、一人の生活になればそれなりの付き合いの男が現れるかもしれない。俺が呪術師として忙しくしている間に、一人で前に進んでしまうかもしれない。そんな考えが突然浮かんで、なんとかして紫さんを繋ぎとめたかった。たとえ今までの関係が崩れてしまっても、俺の気持ちを知っていてほしかったし、もっと一人の男として意識してほしかった。そんな勢い任せで紫さんに気持ちを告げて、その後は。



「………ごめん、急いでるからもう行くね。帰りは遅くなるから、先に寝てて」



 彼女から返ってきたのは、はっきりとした拒絶の言葉だった。俺の気持ちに向き合うことすらせず、なかったことにされたのだ。俺の顔を見ずにそのまま外へと出て行ってしまった紫さんは、結局日付が変わっても帰ってこなかった。俺が朝起きた時には、いつもと変わらない笑顔で引っ越しの準備を手伝い、予定通りの笑顔で送り出してくれた。それからもう一か月。紫さんから当たり障りのないメールは送られてくるものの、あの話題が出てくることはない。俺の気持ちは、彼女にとって迷惑なものなのだろうか。



「なんだよ、ホームシックか?」

「違います。………どちらかと言えば、帰りにくいです」



 隣の席で頬杖をついていた真希さんは、俺の顔を見るときょとんと眼を丸くした。「紫さんと喧嘩でもしたのか?」真希さんの問いには、答えられなかった。正確には、喧嘩ではない。たぶんそれよりももっと深刻だ。なかったことにしたい紫さんと、もっとちゃんと考えてほしい俺。考えてほしい、なんて思いながらも、それが帰りにくい要因を作っていることくらい分かっている。あの人はなんだかんだで寂しがり屋だから、俺がいなくて心細いかもしれない。俺だって、彼女の笑顔を直接見たいし、彼女に触れたい。そう思うのに、これ以上関係が悪化してしまったらと思う自分もいる。生まれてから今までそれなりにいろいろなことは経験してきたし、命の危険を伴った任務だってこなしている。それでも恋は人を臆病にさせるらしく、俺は未だに帰れずにいた。



「休みはどうせ暇してんだろ。ちょっとくらい顔見せてあげろよ」

「分かってます。分かってる、けど、」

「なにビビってんの?」



 訳わかんねえと息を吐いた真希さんは、スマホを取り出すとどこかに電話をかけはじめた。その様子を眺めながら、俺は今日何度目か分からないため息を吐き出した。紫さんと最後に連絡をしたのは一週間前。そろそろ高専には慣れたか、友達はできたか、そんななんでもない会話。一緒に住んでいた頃はいつでも話せたのに、今ではそんなありふれた会話も考えて考えて、やっと文章にして送り合う。これほどまでに距離を感じたことが、今までにあっただろうか。ガシガシと髪を掻き乱しても一向に帰る決意は固まらない。本当は、早く会いたい。たとえ応えてくれなくてもいいから、彼女を感じたい。それでも、俺は。



「ああ、紫さん?今週の土曜、恵が家に帰るってさ」

「ちょっ………真希さん!?」



 誰かに電話をかけているのは分かっていたけれど、真希さんの口から出てきた名前に思わず顔を上げると、真希さんは俺を見てニヤリと笑った。止めようとしたけれど間に合わず、「じゃあそういうことで」と言うと真希さんは電話を切ってしまった。



「何してるんですか!」

「お前がいつまで経ってもウジウジしてるからだろ」



 背中を押してやったんだ、感謝しろよと悪い顔をした真希さんは、俺に何か言われる前に教室を後にした。頭を抱えてそのまま地面に座り込むと、背中が椅子に当たって少し痛んだ。もう、帰らないわけにはいかない。真希さんには文句を言うべきか、感謝すべきか。どちらにせよ俺は家に帰ることが決まってしまったのだ。ここまで来たら腹を括らなくては。もう一度深くため息を吐く。目を閉じると浮かぶには、おかえりと笑ってくれる紫さんの顔だった。







 久しぶりの食卓に並ぶのは、紫さんが作ってくれた俺の好物ばかり。午前中に急遽任務が入ってくるのが遅くなってしまったけれど、紫さんは夕飯を作って待っていてくれた。ただいま、おかえり。それだけを交わした俺達はすぐに食卓に向かい合わせに座ると、今までと変わらず食事を始めた。俺は何から話せばいいか戸惑っているのに、紫さんは何も気にした様子もなく笑顔で箸を口に運んでいる。俺は、一か月ぶりに育った家に帰ってきていた。



「真希から連絡来たときは嬉しかったなあ。恵、あんまり連絡くれないから心配で」

「なかなか、帰れなくて…」

「呪術師は忙しいもんね」



 私も昔は大変だったなあなんていつものように笑う紫さんは、あえて話をそらしているのか、それとも本当に俺の気持ちを忘れてしまっているのか分からない。切り出そうにも紫さんは俺に高専での話を聞くばかりで、割り込む余地もない。久しぶりに見る紫さんの笑顔なのに、俺の頭にできた靄はなかなか晴れなかった。



「紫さん、あの」

「ごはん、美味しい?」

「え、あ、はい。美味いです」

「よかった。久しぶりに作ったからちょっと不安で。おかわりもあるからね」

「ありがとう、ございます……」



 いつもは俺が食事を作っていたから、紫さんの料理を食べるのは確かに久しぶりだ。紫さんの料理はちゃんと美味い。美味いけど、そうじゃない。俺はただこの料理が食べたくて帰ってきたわけじゃない。今までみたいに一緒に住んでいた頃とは違う、俺達の関係。俺が気持ちを伝えてしまったせいで、もう元に戻ることはできない。なら前に進むしかないじゃないか。この食事が終わったら、もう一度ちゃんと伝えよう。どんな答えでもいい。紫さんの気持ちが知りたい。たとえ振られたとしても、まずは一人の男として意識してもらわないと、アイツと同じステージに上がることすらできない。



「ねえ、恵」



 食事を終えて、食器の後片付けをして、風呂に入ってあとは寝るだけ。ソファに座ってテレビを眺めていると、紫さんは隣に腰掛けてこちらを向いた。何かを言いたげな瞳に俺もテレビを消して向き合うと、紫さんは少し気まずそうに視線をそらして俺の袖に手を伸ばした。きゅ、と弱い力で握られるそこを見つめながらどうしたんですかと問うと、紫さんは弱々しくもう一度俺の名前を呼んだ。



「私は、恵のこと家族だと思ってる」



 ひゅ、と喉の奥が鳴った。どんな答えでもいい、そう思っていたのは確かだ。でもいざその答えを前にすると、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。先ほどとは違ってしっかりと俺を見つめる紫さんは、へたくそな笑顔を浮かべて俺の手を握った。俺は言葉を失ったように、何も言うことができない。違う。俺が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。聞こえないように耳を塞ぎたかったのに、紫さんは俺の手を握ったまま放さなかった。



「これからもずっと、私の家族でいてね」






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