あぁなんて盲目的な恋心


 生まれて初めての一人暮らし。身の丈に合わないほど広いリビングと必要のない部屋たちは、余計に寂しさを感じさせる。静寂を感じるのが嫌で、テレビは常につけっぱなしになっていた。そんなある日、誰も訪れることのない部屋に突然インターホンの音が鳴り響いて、扉の前に立っていた人を見て私は心底一人暮らしを始めて良かったと思った。傷のついた口角を上げて私を見下ろした彼は、「久しぶりじゃん」と私の頭をガシガシと撫でた。



「甚爾、さん」

「こっちに引っ越したって聞いたから。デカくなったな」



 禪院家で何度か会って以来、ここ数年会っていなかった甚爾さん。どこかで婿入りしたと聞いていたけれど、目の前に現れた彼は以前と何も変わらず、意地悪な顔をして私を見つめる。遠くに行ってしまった気がしていたけれど、また私に会いにきてくれた甚爾さんは優しく私の名前を呼んで、部屋に上がった。その背中を追いかけながら、私はこっそり溢れた涙を拭った。

 それから、甚爾さんはよく私の家を訪ねてくるようになった。朝にふらっと来る日もあれば、そのまま泊まっていく日もある。彼が訪ねてくるときはいつも決まって女の人の香水の香りがしているけど、あまり気にはならなかった。風の噂で子供がいるとも聞いた。それでも、こうして私に会いに来てくれるだけで十分だ。窓際に座って空を見つめる甚爾さんは綺麗で、儚くて、それを見つめるのが好きだった。たまにごはんを作ってあげると、美味しそうに食べてくれた。彼はあまり自分の話をしなかったし、今誰とどういう生活をしているのかも知らない。私も、あまり深くは聞こうとはしなかった。生活に余裕はなかったけれど、たまにくる甚爾さんのために呪術師として活動してお金を稼いだ。運よく構築術式をもって生まれた私は、呪具を作り出せるために依頼は途切れなかった。甚爾さんがいない日は学校に通って、帰ったら呪具を作る。甚爾さんがいる日はひたすらに甚爾さんのためだけに動いた。たとえ、私が誰かの代わりであっても。



「お前、何も聞かないんだな」



 甚爾さんはいつもただ黙って空を見上げていた。電気もつけていない少し薄暗い部屋から覗く青空は鮮やかで、雲の少ない日は眩しいくらいだった。その隣に並んで一緒に空を見上げていたら、甚爾さんは突然私の方を向いて目を細めた。試されるような視線に下を向くと、「ん?」と優しい声が降ってくる。膝を抱えて背中を丸めれば、触れていた肩が少しだけ体重を増したような気がした。



「……だって甚爾さん、そういうの嫌そうだから。私も、話したくないことあるし………」

「ハッ、よく分かってるじゃねえか」



 私の答えに声を出して笑った甚爾さんは、いつものように私の頭を乱暴に撫でた。外から帰ってきた瞬間よりほんの少しだけ優しくなるその目元は、今は私だけを見つめている。その視線に特別な意味がないことは分かっている。彼にとって私は自分と同類で、“禪院家の可哀そうな子”だ。私はまだまだ子供で、彼が暇つぶしに愛する対象にすらならない。そんなことは分かってはいるけれど、私はこの視線に期待せずにはいられない。その度に、心臓がきゅっと苦しくなる。



「俺、紫のそういうところ、まあまあ気に入ってる」

「まあまあ、なんだ」

「あとはお前の成長次第だな」



 青空を背に笑った甚爾さんの顔は、今でもよく覚えている。珍しく眩しい笑顔。何度も何度も夢に見た。好きで好きでしょうがなくて、本当はもっと近づきたかった。彼が私のために何かをしてくれることは無かったけれど、それでも私は甚爾さんの傍に居たかった。どんなポジションでもいい。一緒にいられるなら、それでよかったんだ。







「紫さん、ここ、ごはん粒ついてます」



 恵の声にはっと息を吸うと、恵が食卓の向こう側で自分の頬を指差して私を見ていた。「……あ、うん」と気の抜けた返事をして口元を拭うけれど、ごはん粒は見つからない。すると恵の長い指がすっと伸びてきて、「ここです」と私の頬についていたごはん粒を取ってくれた。



「ごめん、なんかボーっとしてた」

「大丈夫ですか?」



 目の前に並ぶ料理は、私がよく甚爾さんに作っていたものばかり。甚爾さんはいつも美味いと言っておかわりまでしてくれたっけ。今日このごはんを作ったのは私ではなく、恵だ。私が、彼に作り方を教えた。ここ数年で前にも増して忙しくなった私のために、恵は家事を代わりにしてくれるようになった。朝ごはんを作って、起こしてくれて、仕事から帰ったら晩ご飯も用意してある。恵も学校生活が忙しいだろうに、私にお世話になっている恩返しだといろいろなことをしてくれた。母の日にはお花なんかも買ってくれたりして。津美紀が呪いで倒れてからは、ますます尽くしてくれるようになった。どれもこれもが、甚爾さんとは違う。恵は優しくて、真面目で、私のことを誰よりも大切にしてくれる。甚爾さんの子供なのに、まるで別人だ。お母さん似なのかな。それでも、たまに見せる笑顔や細かい仕草なんかはやっぱり甚爾さんに似ていて、時々言いようのない感情が身体を支配する。彼は、甚爾さんじゃないのに。どうしたって甚爾さんを思い出させた。それが苦しくもあって、懐かしくもあって、どうしていいか分からなくなる。



「疲れてるならもう休んでください。片付けは俺がやりますから」

「いいよ、そこまで甘えられないよ」

「生活の面倒見てもらってるんだから、それくらい甘えてください」

「でも、恵だって明日学校でしょ。試験だって近いのに」

「俺は大丈夫ですから。あんた、倒れそうだ」



 そっと遠慮がちに目元を撫でられて、少し戸惑う。堂々と触れてきた、甚爾さんとは違う。触れてもいいものかと迷いながらも、優しく、壊れ物でも触るみたいに、ゆっくりと。そこに恵の優しさが詰まっているんだろうけど、そんな反応をされると正直困る。彼が、津美紀に向けるものとはまた別の意味を持った感情を私に向けているのは、なんとなく分かっていた。熱を含んだ熱い視線はいつも向けられていて、それに気づかないほど私は鈍感じゃない。それでも、彼を傷つけたくなくて、私はずっと気づかないふりをしてきた。恵はまだ中学生で、きっとこれからいろんな出会いがある。学校でも目立っているようだし、容姿もいいのだからきっとモテるだろう。高専に行けば、同じ境遇の仲間にも出会える。一つ上には同じ禪院の子もいる。恵が私に持っているこの感情は、きっと今だけだ。いつかはいい思い出だったと、あれは憧れだったと思える日が来る。



「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

「明日はまた同じ時間でいいですか?」

「明日は休みだから、起こさなくていいよ。ありがとう」

「分かりました。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」



 頬に触れていた恵の手をそっと放して、部屋に戻ろうと席を立つ。柔らかく見つめる恵の視線を感じながら部屋の扉を閉めると、キッチンの方から食器を洗う音が聞こえてきた。恵は、優しい。年齢に見合った幼さはあるけれど、同世代よりは大人だし、気遣いもできる。男の子として、いずれは男性として、とても魅力的な人になるだろう。呪術師としての将来性もあるし、あの五条悟とも交流がある。そんな彼が私に好意を抱いてくれるなんて、有難すぎるくらいだ。それでも、私はきっと、この先恵を好きになることはない。私の中にはずっと甚爾さんが残っていて、死んでしまったからこそ、色あせることはない。彼は私の中で永遠で、他の人が入る隙なんてない。それでなくたって、甚爾さんの子供である恵を、好きになんてなれない。好きになっちゃいけない。私の中の恵は、どこまでいっても甚爾さんの子供だ。私は甚爾さんに頼まれたから面倒を見ているだけで、好意で彼を育てているわけじゃない。きっと甚爾さんに託されなければ、恵がどうなったって知りたいとも思わなかった。だから私は、恵の気持ちを知ってはいけない。彼の中でこの感情が消化されるまで、いい大人でなくちゃいけない。ずっと、そう思ってきたのに。



「俺、紫さんが好きです」



 私の目を真っすぐに見つめた恵は、もう熱い視線を隠そうともせずにそう言った。頬を撫でる恵の手が熱い。聞きたくなかった言葉に今更耳を塞ぐこともできず、ただ、恵の吐息と心臓の音だけが聞こえる。明日から恵は高専の寮で暮らして、出会いもたくさんあって、私への感情なんて、忘れるはずなのに。どうして今、そういうことするの。



「………ごめん、急いでるからもう行くね。帰りは遅くなるから、先に寝てて」



 私は恵の腕を抜け出して、足早に玄関に向かった。恵はいい子だ。だからこそ、傷つけたくなかった。結果私の行動は恵を傷つけてしまったかもしれないけど、それでも面と向かって、「私はあなたのお父さんが好きだから無理です」なんて言えるわけがない。本当は仕事は夕方には終わるけれど、今日はもう顔を合わせたくなかった。恵は何か言いかけたみたいだったけれど、私は聞こえないふりをして振り返ることなくマンションを飛び出した。








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