これはたぶん一目惚れ




「彼氏からの連絡待ち?」

「っげほ…っ、え!?」



 オフィス街でたくさんのビルに囲まれた、スーツの人たちで溢れかえる人気のカフェ。今日は仕事も落ち着いているしランチでもと同僚に誘われたその場所で、私は盛大に咽た。周囲の視線を感じながらゲホゴホと涙目になる私にティッシュを差し出した同僚は、そんなに動揺しなくても、呆れた顔をした。



「彼氏とか、いないけど…どうして?」

「さっきからスマホ気にしてるから。最近ずっとそんな感じじゃない?」



 ほら、と指差された場所には、惜しげもなく画面を上に向けてテーブルの上に置かれた私のスマホ。一日に何度もスマホを確認していることは、自分でも何となく気づいていた。通知音は一向に鳴らない。連絡なんて来ないとわかっている。それでも、確認せずにはいられない。



「……実はね」



 仙台出張から戻って二か月。出張先で出会ったのは、全身黒ずくめで少し怪しい五条悟という男。たまたま新幹線で隣の席になって、帰り際に連絡先を渡されて。あの後どうしても五条さんが気になった私は、喜久福を分けていただいたお礼と、そのお礼にお食事でもどうですかと連絡をした。私としてはすごく勇気を振り絞った行動だったのだけれど、彼からは時間ができたら連絡すると返ってきたきり、何の連絡もない。単純に忘れているのかもしれないし、そもそも軽い気持ちでナンパしただけで、そんなつもりもなかったのかもしれない。揶揄われたんだ、と思う反面、もしかしたらと思い続けて、もう二か月も経ってしまった。



「何それ、絶対騙されてるよ」

「やっぱりそう思う?」



 自分の中でもうすうすは感じていた感想に、すでに冷めてしまっているコーヒーに口をつける。あんたも馬鹿ねという同僚には返す言葉もない。あんなにかっこいい人がどうして私なんかに声をかけたのかも理解できないし、夢だったんじゃないかとすら思える。彼にとってはただなんとなく声をかけただけなのだろう。たまたま彼女が途切れていたとか、そういう気分だったとか。それなのに、彼の真剣な碧い瞳を思い出しては何とも言えない感情が湧いてきてしまって。



「かなりのイケメンだったんでしょ?話せただけでもラッキーじゃん」



 私だって、最初はそう思っていた。今後の展開がなくても、イケメンにナンパされただけで十分いい思い出になる。でも日が経つにつれ、彼の声を、彼の体温を、間近で見た彼の青い瞳も。思い出しては恋しくなって、会いたくて堪らない。彼の隣は、どうにも居心地がよかったのだ。



「たった1回会っただけなのに、好きになっちゃったみたい」



 五条さんがどんな人なのかも詳しく知らないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。向かいの席から聞こえるため息がどうでもよくなるほど、私の頭の中は五条さんでいっぱいだ。今まで一目ぼれなんてしたことがないし、そんなに面食いではなかったはずなのに。もう一度会って、この感情が本物なのかどうか確かめたい。

 ブブブ…


 変な関係にならないように気をつけなさいよ?とお会計伝票をもって立ち上がる同僚を追いかけるように席を立った時、カバンの中でしまったばかりのスマホが震えた。慌ててスマホの画面を確かめると、そこには“五条悟”の文字。ついに来た!と目で合図すれば、それを理解した同僚はもう一度席に座った。突然の展開に緊張で指が震える。間違えて電話を切ってしまわないように慎重に画面をタップして、恐る恐る耳を傾けた。



『もしもし向坂さん?ごめんね突然。いま大丈夫?』

「はい、全然、大丈夫です」



 よかった、と耳元で五条さんの声がする。久しぶりの声にドキドキして、うまく口が回らない。慌てふためきながらもにやけが止まらない私を見て、同僚はやれやれと肩を竦めた。



『今日の夜、空いてる?やっと休みが取れたんだ』

「19時に仕事が終わるので、その後なら空いてます」

『じゃあお店予約しておくから、そこで待ち合わせよう』



 またあとで連絡するね、と少し早口で言った五条さんはすぐに電話を切った。電話の向こう側で「五条先生急いでください」と男の子の声が聞こえていたし、本当に忙しいのだろう。それより、学校の先生と言っていたのは本当だったんだと少し安心する。今のところ嘘はつかれていないらしい。何よりも、当たり前のように食事に誘ってくれたことがうれしかった。まあ以前誘ったのは私なんだけど。



「で、ゴジョーさんはなんて?」

「今日の夜空いてる?だって!食事に誘われた!」

「今日って…また急だね」



 再び会計伝票を手に立ち上がった同僚は、気を付けなよ、とレジへ進んだ。私もその後に続きながら、大丈夫だよ、と小さな声で答えた。

 同僚の言葉の意味が分からないほど、もう子供ではない。大人の男女2人が夜に会うリスクくらい分かっている。それも当日にいきなり誘われたとなると、そういう目的なのかもしれないと思ってしまうもの。もちろん、そうなった時はきちんと断ろうとは思っている。思っては、いるけど。本当に断れるだろうかと不安に思いながらも、五条さんに会うために私は急いで仕事を終わらせた。








 電話の後少しして五条さんから送られてきたお店は、都心のおしゃれな隠れ家的レストランだった。五条悟で予約されていると思うんですけど、と声をかけると、店員さんは愛想よく微笑んで、奥の個室に案内してくれた。個室の中はしんとしていて、誰もいない。五条さんはまだ来ていないようだ。

 一人で座って待っていると、今から五条さんとふたりきりで食事をするのだと、今更ながら実感がわいてくる。私の服、変じゃないかな。化粧も直したつもりだけど、崩れてたりしないかな。そう考えるとどんどん不安になってきて、慌てて手鏡でチェックする。うん、リップも派手じゃないし、髪も崩れていない。安心して手鏡をカバンに戻したのと同時に、個室の扉がノックされて、サングラス姿の五条さんが顔を出した。



「お待たせ。遅くなってごめんね」



 久しぶりに見る五条さんの笑みに心臓がトクトクと早くなっていく。なんと答えるのが正解なのか分からず口をモゴモゴさせていると、はいこれお土産、と席につくなり五条さんは私に紙袋を渡した。ありがとうございますと震える指先で受け取った袋の中身を確認すると、そこにはかの有名なお菓子が入っていた。



「白い恋人って…北海道?」

「正解!ついさっきまで北海道に行ってたんだ」

「また出張ですか」

「そ!先週まではオーストラリアに居たよ」

「お、お忙しいんですね…」



 僕って最強だからね、と笑ってみせた五条さんは、さて何を食べようかとメニューを開いた。私もメニューから食べたいものを探しながら、五条さんの言葉を頭の中で思い返した。

 教師という職業がどれほど忙しいものなのか、私には分からない。そもそも教師が出張で世界を飛び回るものなのだろうか。どちらにしても、出張ばかりの忙しい日々の合間を縫って私との時間を作ってくれたことが嬉しかった。



「喜久福のお礼にって言ったのに、またお土産もらっちゃった」

「じゃあまたそのお礼に、僕と会ってくれる?」

「ふふ、それなら仕方ないですね」

「そしたら次もまたお土産持ってくるけどね」



 慣れた様子でさらりと会話をこなす五条さんはさすがとしか言いようがない。必死に答える私とは違って全く照れている様子のない五条さんは、注文を終えると頬杖をついて私の顔を眺めた。サングラスの隙間から覗く青い瞳が、私を見つめている。そう思うだけで、体中の熱が一気に顔に集まった。



「なんだか今日は雰囲気違うね」

「そうですか?」

「うん。お化粧のせいかな?」

「えっ、濃いですか!?」

「ううん、可愛い」



 かわいい。五条さんの口から発せられた言葉に、今まで以上に顔が熱くなって、思わず俯いた。可愛いなんて、お世辞に決まってる。そう自分に言い聞かせて見ても、顔の熱はなかなか引かない。茹でダコみたいと笑う五条さんに言い返してやりたいけれど、なにも言葉が出てこなくて、真っ赤な顔で睨むしかなかった。











「向坂さん、明日は仕事?」



 五条さんに何度も揶揄われながらも食事を終え、時刻は9時半を過ぎていた。彼といるとあっという間に時間が過ぎていく。食後のデザートは甘さ控えめのティラミスと紅茶。途中、紅茶にドバドバと砂糖を入れているのには驚いた。ブラックコーヒーとか飲んでそうなのに、意外と甘党らしい。



「いえ、お休みです」

「じゃあまだ時間あるよね」



 紅茶を片手にこちらを見た五条さんと目が合い、ごくりと唾を飲み込んだ。彼の言葉の意味を何度も頭の中で考える。明日は休みだから、今日は遅くなってもかまわない。朝帰りだって、問題は、ない。突然濃くなった大人の空気感に、心臓が大きな音を立てる。それって。つまり。そういう。



「僕はもうちょっと向坂さんと一緒に居たいんだけど」



 テーブルの上に置かれていた私の手に、五条さんの手が重なる。するりと指先を絡められて、肩がぴくりと揺れた。青く光る真剣な瞳が、私を捉えて離さない。こんなの、ダメに決まっている。断らなければ。そう思うのに、目が逸らせない。



「あの、私…」



ピリリリリリッ!!

 言いかけた言葉は、大きな着信音で遮られた。鳴っているのはテーブルの上に置かれた五条さんのスマホだ。出なくていいんですかと聞くと、さっきまでの綺麗な顔を嘘みたいに歪めて五条さんは電話に出た。私の手を、握ったまま。



「伊地知?いま取り込み中なんだけど」



 明らかに不機嫌な五条さんの声に、伊地知さんと呼ばれた人は電話の向こうで怯えているようだった。仕事の電話だろうか、五条さんにしかお願いできないんですと声を震わせている。その様子に五条さんはため息を吐くと、店まで迎えに来て、と電話を切った。



「ごめんね。仕事が入っちゃった」

「いえ、お仕事なら仕方ないですよ」

「ほんと、人使いの荒い職場だよ」



 突如消えた甘い空気にそろそろ出ようかとようやく手を離した五条さんは、スマートに会計を済ませると店の外に向かって歩き出す。しまった、払わせてしまった。またお礼をしなくては、と思いながら後を追えば、店の前には黒塗りの車が1台停まっていた。



「本当は送ってあげたいところだけど…」

「いえ、お気遣いありがとうございます」



 気を付けて帰るんだよ、私の髪をサラリと撫でた五条さんは、停まっていた車に乗り込んだ。運転席の男性、おそらく伊地知さんは、私を見ると驚いた顔をしていたけど、五条さんに何か言われてすぐに車を出した。私は五条さんが帰り際に言った「またね」の言葉を何度も思い出しながら、車が見えなくなるまで見送った。







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