初めてのキス




 窓の外を眺めると、今にも雨が降り出してしまいそうな分厚くて黒い雲が空を覆っていた。天気予報では夕方から雨が降るって言っていたけれど、それまでに帰れるだろうか。すれ違う車たちもどこか急いでいるように見えて、皆雨は嫌いなんだなあと当たり前のことを考えた。



「五条さん、お昼にラーメン食べたでしょ」

「食べた。にんにくマシマシのやつ」



 隣で資料を眺めながら大きな口を開けて欠伸をした五条さんは、はあっとわざとらしく私に向かって息を吐いた。「くさい!」と顔を背けた私にいつもみたいにケラケラ笑って、携帯で撮ったらしい今日食べたラーメンの写真を見せてくる。どんぶりから溢れそうなほど野菜が乗った超大盛ラーメンは高専生の間でも少し有名になっていて、男性陣は空いた時間によく食べに行くと聞いたことがある。美味しそう、と思いはするものの、いつ任務が入るか分からないのに、女の子がにんにくを香らせるなんてヤバいだろうという今までで培ってきた唯一の女子力を発揮させ、私はまだ食べたことがない。良かった食べなくて、こんなに匂うものなんだ。



「五条さん、エチケットって言葉知ってます?」

「顔がいいから気にしたことないね」

「デリカシーもないですもんね」

「しばくぞクソガキ」



 大きな手で両頬をつままれて、「いひゃいです」と抵抗すれば、変な顔だとまた笑われた。五条さんに勢いで告白してから、そろそろ一か月が経つ。私たちの関係は相変わらず先輩と後輩という枠組みを超えてはいないけれど、前に比べたら二人でいることが増えたし、前より五条さんがよく笑うようになった、気がする。何度告白しても五条さんは相手にしてくれないが、脈はそこそこあるんじゃないかな。だって夏油さんも硝子さんも、私たちを見るたびに優しく笑ってくれるから。本当に脈がないなら、夏油さん辺りが「脈ないからやめた方がいいよ」と平気で言ってきそうだし。もうすぐ現場に着きますよと補助監督さんに叱られて、私たちは大人しく資料に目を通した。

 今日祓う予定なのは1級呪霊が一体と、その他の低級呪霊が複数体。本当ならば五条さん一人で事足りるけれど、場所が商業施設の中であることと、呪霊の数が多いことを踏んで私と二人で討伐に当たることになったのだ。現在休業中のその商業施設では、突然人が暴れ出したり、従業員が投身自殺を図ったりと不運な事件や事故が続き、高専へ調査の依頼が回ってきたらしい。どうやら墓地だった場所を埋め立てて建てられたために、呪霊が集まっているそう。早くなんとかしないと施設自体が潰れてしまう、と施設の管理者が泣きついてきたのだ。



「できるだけ建物に傷をつけるなって……難しいですね」



 五条さんの術式は基本的には広範囲の攻撃になるため、狭い場所や入り組んだ場所とは相性が悪い。今までは何も気にせずに壁ごと吹き飛ばしていたけれど、“傷をつけるな”と依頼されてしまえば途端に戦いにくくなる。もちろん彼は“最強”なので、呪霊を祓うのには何の問題もないが、一体一体相手をするとなれば時間がかかるだろう。面倒くせえ、と呟いた彼がどこまで依頼を遵守するかは分からないけれど。



「俺は1級やるから、雑魚は自分で何とかしろよ」

「わかってますよ」









 新宿のビルの合間を縫って、補助監督さんは人気の少ない細い道に車を停めた。見上げたビルからは複数の呪力の残穢を感じ、ごくりと唾を飲む。念のため人払いを済ませてある路地は天気のせいもあって薄暗く、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。でも以前の任務と違うのは、今日は五条さんが一緒にいるということ。それだけで、任務前の独特の緊張感はいくらか和らいだ。



「一応人払いはしていますが、念のため裏口から出入りをするようにお願いされています。帳も下ろすので大丈夫だとは思いますが……」

「変な噂を立てるなってことだろ。いちいち注文の多いやつ」



 行くぞ、と五条さんの声を合図に、辺りに帳が降りて次第に夜になっていく。呪霊を誘き出すために真っ暗にされた店内は避難誘導灯だけが灯っていて、まるでホラー映画の中に入ってしまったかのような気分になった。BGMもない静かな店内には私たちの革靴の音だけが響いていて、物音はしない。広い店内には呪霊が数体いるはず。別行動をした方が捜索効率は良さそうだが、中には1級呪霊が紛れているために一人行動の許可は下りなかった。いつどこから攻撃されてもおかしくはない、そんな不安を常に感じながら、五条さんの後をひたすら追う。施設は五階建てで、まずは一階から捜索を始めた。店内の隅々、バックヤードまで隈なく探しても、呪霊の姿はなかなか見つからない。そこかしこに残穢を感じるせいで、場所の特定がなかなか難しかった。



「地図、出して」



 五条さんに言われた通り事前に貰っていた地図を確認する。今いるのは三階で、このフロアには店舗が8つ、それから化粧室と喫煙スペースがある。店舗はすでに見て回ったから、あとは化粧室と喫煙スペースを探すだけだ。



「お前、女子トイレ見てこい」

「え、五条さんは入らないんですか?」

「俺は男子トイレ見るから」

「意外とそういうの気にするタイプなんですね。平気で入りそうなのに」

「うるせーさっさと行け!」

「ぎゃあ!」



 ガンっと長い足でお尻を蹴り上げられ、押すタイプのドアにぶつかってそのまま女子トイレの中に倒れ込んだ。うう、痛い。いくら掃除されているとはいえ、トイレの床に転がるのは御免だ。かろうじて付いた腕に力を入れて起き上がる。女子トイレの間取りはなんてことない普通の作りで、入り口には洗面が4つと化粧スペースが3つ、その奥には個室トイレが6つほど並んでいた。帳のせいで明かりの入らないトイレは不気味なんてものじゃなくて、ひく、と喉が音を立てる。一つ一つを確認するように個室の中を覗きながら足を進めていくと、奥から三番目の個室だけ扉が閉まっていることに気付いた。三番目って、花子さんかよ、なんて冗談を心の中で呟いてなんとか緊張を取り払うと、いつ呪霊が出てきてもいいように心の準備をして、ゆっくりと扉を押した。



「……………ッひ!」



 扉の隙間から複数の蠢く目玉と目が合って、呪霊だ、と認識した途端に個室からたくさんいるうちの数体の呪霊が弾かれたように飛んできた。慌てて距離を取って数を確認すると、個室の外に出ているだけでも10体はいる。きっと個室の中にはまだ何体もいるはずだ。これは私一人では対処できない、咄嗟にそう思った頭のまま慌てて足を動かして女子トイレから飛び出ようと試みたが、突然足に重みを感じて再び床に転がった。じゅう、と肉が焼ける音がして、足首辺りに痛みが走る。振り返って確認すれば、呪霊に掴まれた部分が嫌な音を立てて煙を上げていた。すぐに術式を発動して足元に転がる呪霊を祓ったが、次から次へと呪霊が個室から溢れ出てくる。これはマズいかも、と思ったと同時に、急に濃くなった呪力を感じとったらしい五条さんが女子トイレの扉を蹴破って入ってきた。



「お前なにやってんだよ!」

「ごめんなさい、あんなにたくさんいるとは思わなくて……」



 五条さんに腕を引っ張り起こされて、引きずられる様にして女子トイレを飛び出した。右足が地面に着く度に、焼けた皮膚に痛みが走る。五条さんはすぐに私の異変を感じ取ったが、こんなに狭い場所では戦えないと判断したのか、スピードを緩めてはくれなかった。



「マジかよ…最悪だな」



 必死の思いで中央の広いホールに辿り着いたら、そこには待ち構えていたかのように1級呪霊が佇んでいた。はあ、と上がった息を落ち着けるように深呼吸をして、痛む足で踏ん張りなおした。「動けるか?」と視線だけを寄越す五条さんに頷いて、背後に迫ってくる大量の呪霊たちに向き直る。大丈夫、数は多いけれどほとんどは3級や4級だ、五条さんが1級を祓い終えるまでなんとかして持ちこたえなければ。










 それから起きたことは、まるでスローモーションのようだった。1級呪霊もだいぶ弱り、低級呪霊の数もだいぶ減ったころだった。私の術式を逃れた呪霊が一体、不意をついて五条さんに狙いを変えたのだ。1級の相手をしていた五条さんは一瞬気づくのが遅れて、それを見逃さなかった私はとっさに五条さんの前に飛び出していた。呪霊の攻撃がお腹の辺りに当たる感覚がして、すぐに膝から崩れ落ちた。五条さんは私の体を抱きとめると同時に、今まで苦戦していたのが嘘みたいに“蒼”を使って周りの店舗ごとその場に居た呪霊をすべて祓った。崩れていく壁や床に散乱した売り物を見て、「傷をつけるな」という依頼を思い出した。



「ッおい!梨央!」

「ごじょ、さ…」



 私の体重に引かれるようにして二人で床に座り込むと、お尻の辺りに濡れた感触がした。私のお腹から溢れた血が足を伝って、地面に水溜まりを作っている。そのまま広がっていくそれは五条さんの膝も濡らしていった。すぐに傷口を押さえた五条さんはどこかへ電話をかけると、「すぐに硝子が来る」とだけ言って近くに落ちていた売り物であろうタオルを私のお腹に巻き付けた。



「何いっちょ前に庇ってんだよ。馬鹿じゃねーの?」



 いつも以上に不機嫌さが詰め込まれた眉間に、すいません、と苦笑するしかなかった。そうだ、五条さんは無限があるから別に私が飛び出さなくったって大丈夫だったはずなのに。今更そんなことを考えても仕方がないのに、無駄なことをしてこんな顔をさせてしまっていることがとても申し訳なく思えた。いつもの怒っている顔ではない、心配するような、少し泣きそうな顔。五条さんもこんなに必死な顔をするんだ、と不思議と頭の中は冷静だった。



「好き、だから。つい体が動いちゃって……」



 そんな顔をしないでと伝えたくて五条さんの頬に触れたら、彼の白い頬が私の血で赤く染まった。いつの間にこんなに血が出ていたんだろう。力が入らなくて落ちかけた手を五条さんは握りしめると、悔しそうな顔をして私の体を抱きしめた。「バカヤロー」と弱々しい声が耳元で聞こえて、私を包む腕に力が入る。いつもは私を苛めてばかりの五条さんが口は悪くても優しくしてくれることが嬉しくて、好きです、と言葉を絞り出したら、五条さんは「もう黙ってろ」と言って私の口を自分のそれで塞いだ。人生で初めてのキスは、血とにんにくの味がした。






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