ちゃんとした言葉




 何日も降り続いていた雨がようやく終わり、久しぶりに明るい太陽が顔を出している。廊下の窓から差し込む光が寮全体を明るく照らして、気分まで持ち上げてくれるようだ。ここ数日お見舞いと称して通い詰めた部屋はたくさんの花で溢れており、まるで花屋のように甘い香りを充満させている。高専に運ばれて三日目に目を覚ました梨央はその光景を見て、「なんだか死んだ人みたいだから、お見舞いはお花より食べ物がいいな」と三日間眠り続けた人の第一声とはとても思えない言葉を発した。そのリクエストにお答えして今日は駅前の百貨店で買ってきたお菓子を持参したが、みんな考えることは同じらしく、今度はテーブルの上がお菓子でごった返していた。



「みんなして私を豚にするつもりですか?」

「君が食べ物がいいって言ったんじゃないか」



 ベッドの上で上半身を起こした梨央は呆れたような顔で私を見つめると、誰かからもらったであろうお見舞いの品を開けて頬張った。昨日よりだいぶ顔色も良くなっている、いつ来てもベッドサイドに腰掛けている最早インテリアと化した悟の看病のおかげだろうか。梨央が起きたというのに不機嫌そうに「また来たのかよ」と呟いた悟は、随分ご立腹のようだ。日に日に増えていく見舞いの品の数々を見ればなんとなく理由は分かる。きっと毎日のように誰かが訪ねてくるもんだから、なかなか二人きりになれないんだろう。それだけ梨央が皆に愛されているということだ、喜んでやればいいのに。



「体調はどうだい?」

「だいぶ良くなりました。あと二日休めば動いてもいいって」



 椅子を引っ張ってきて悟の隣に並ぶと、梨央は「ほらくっついてるでしょ」とTシャツの裾を捲ってお腹の傷を私に見せようとしたが、瞬時に伸びてきた悟の手によって阻まれた。「んなもん見せてんじゃねーよ」と再び不機嫌になる悟に梨央は不満を漏らして「別に減るもんじゃないし」と反論していたけれど、これ以上悟の機嫌が悪くなっても困るので丁重にお断りした。あの任務で二人の間に何があったかは聞いていないけれど、きっと収まるところに収まったんだろう。悟は付きっきりで看病しているし、前以上に独占欲を剥き出しにしている。悟にどんな心境の変化があったかは知らないが、ようやく素直になれたらしい。



「傑、お前何で毎日来るの?暇なの?」

「梨央が心配だから時間を割いて来てるんだよ。来ちゃいけなかったか?」

「そんな、私は夏油さんが来てくれて嬉しいですよ」



 へらりと笑った梨央はいつも通り可愛い後輩で、心配しているのは本当だ。ただ、半分は悟への冷やかしでもあるけれど。悟が硝子と一緒に血まみれの梨央を抱えて帰ってきた時、こいつにもこんなに必死になることがあるのかと少し感心したものだ。硝子の反転術式で一命は取り留めたもののなかなか目を覚まさなかった梨央にずっと寄り添っている悟を見て、確かに“愛”を感じた。齢十八にも満たない私が愛を語れるのかは何とも言えないが、きっと悟と梨央はこの先も長い間お互いを思い続けるのだろうと漠然と思った。悟の態度や言動は相変わらず粗暴だが、梨央を見つめる瞳はやはりどこか優しく、慈しみを含んでいる。それが少し羨ましくもあり、そう簡単には生まれない感情であることも理解している。便所、と言って立ち上がった悟を見送って、梨央は改めて私にお礼を言った。



「先生の許可が下りたら、また皆でババ抜きしましょ。次は勝てる気がする」

「そうだね。でもそれより先に悟の相手をしてあげて。ずっと梨央が目覚めるのを傍で待ってたんだよ」

「知ってます。起きたら右手が五条さんの手汗でべたべただったから」



 握りすぎですよね、と笑った梨央は前よりスッキリした顔をしている。悟はいつもあんな態度だが、梨央もちゃんと彼の気持ちを分かっているようで安心した。「五条さんが優しい人だって、ちゃんと分かってますよ」と穏やかな顔をして、悟にもらった見舞いの花に視線を移す。あの悟が花屋に行く姿を想像して、二人でこっそりと笑ったのは悟には秘密だ。












「傑、帰ったの?」



 梨央の部屋に戻ったら、先ほどまで居たはずの傑の姿はなかった。ベッドで上体を起こしたままだった梨央は「ついさっき帰りました」と言って、ベッドの上で広げていたお菓子の箱を一つ一つ丁寧に片付けている。俺がやるから寝とけ、とその箱を奪ってテーブルの上に積み上げていくと、梨央は大人しく掛布団の中に潜った。顔だけを布団から出した梨央は「五条さん、」と小さく俺を呼んで、隣に来いと手招きをする。いつもの定位置に座ってなんだよ、と声をかければ、梨央は小さく微笑んで俺の手を握った。



「傍にいてくれて、ありがとうございます。この手のおかげで、戻ってこれました」

「勝手に死のうとしてんなよ」

「五条さんが怒るかなと思うと、死んでも死にきれなかったです」



 いつもみたいにへらへらと笑う梨央は「また会えてよかった」と馬鹿みたいなことを言って、俺の手に頬を摺り寄せた。望み通り頬を撫でてやれば嬉しそうに目を細めて、俺の存在を確認するように何度も「五条さん」と呼んだ。その温かさを感じて、俺もまた安心する。弱いくせに呪霊の前に飛び出して、それも俺を庇うために、梨央の腹から溢れる血を見た時は本当に頭が真っ白になった。どんどん冷たくなっていく体と弱くなっていく脈、もうあんな思いはごめんだ。自分が死にかけた時でさえ感じなかった、怖いという感情。それを自覚した時、もう自分の気持ちをどうすることも出来なかった。俺はあの時、こいつが好きだと思った。失いたく、なかった。



「もうあんな馬鹿なことするなよ」



 梨央のTシャツの裾に手を入れてもう完全に塞がった傷口をなぞると、ぴくりと梨央の肩が揺れる。その反応を見たら腹の底から熱が湧き上がってきて、ぐっと唇を咬んでその感情を飲み込んだ。相手は怪我人で、まだ安静の身だ。代わりに枕元に手をついて顔を寄せると、梨央は潤んだ瞳で俺を見つめて、「待って」と顔の前に手を出して弱々しく呟いた。なんで、と顔を近づけたままその手を取って問いかけると、梨央は困ったような顔をして視線を左右に泳がせる。赤く染まった頬に心臓が早くなって、この微妙な距離がもどかしい。



「五条さん、私、言葉にしてくれないと分からないんです」



 その言葉に、そういえば自分の気持ちを一度も梨央に伝えていなかったことを思い出す。というか、自覚したのもごく最近のため、伝えるとか伝えないとかそういう問題でもなかった。心のどこかで、伝えなくても分かるだろうと思っていた節もあるけれど。切実な瞳で訴えかけてくる梨央に、ごくりと唾を飲みこむ。羞恥心すらもどうでもよくなるほど、俺は梨央の願いを聞いてやりたいと思った。



「好きだよ」



 掴んでいた手を放してそのまま頬を撫でて、できるだけ優しく口づけた。目を閉じた梨央に気をよくして何度も啄むように口付ければ、はぁ、と梨央の唇から熱い吐息が漏れて思わずこの先のことを想像してしまった。今手を出すわけにはいかないと心を落ち着けるために一旦唇を離すと、梨央は目を蕩けさせて、それで恥ずかしそうに笑った。その姿が堪らなくて頬にも口づけて、柔らかい髪を撫でてやる。いつも賑やかな部屋には今は二人しかいない。その状況が心地いいようなもどかしいような、何とも言えない感情が心を支配した。



「悟、って呼んでもいい?」

「……好きにすれば」



 なんとなく気恥ずかしくてそっぽを向いたら、梨央は嬉しそうに何度も「さとる」と俺の名前を呼んだ。時折混ざる「好き」という言葉に、胸の辺りがむずむずしてくる。恋人同士みたいだね、と馬鹿なことを言い始めた梨央に恋人なんだろ、と無理矢理布団を被せると、布団の中からくぐもった声で「そうだね」といつもの笑い声が聞こえてきた。







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