ソファーから起き上がると、尾形はいなくなっていた。またどこかに行ってしまった。
尾形はまるで、ノラ猫みたいだ。
(どうせまた、戻ってくる…)
気を紛らわせるように、私は携帯を開いた。
9時58分。何かあったような……。
数秒ほど虚空を見つめたあと、私は慌てて飛び起きた。10時にヤクザの事務所に行く約束をしてた!
やばい、やばいやばいやばい!
元はと言えば、これは尾形の落とし前のための交換条件で。それ以上にヤクザとの約束に遅刻だとか間抜けすぎる。
着替えも準備もそこそこに、私は外へ飛び出した。原付に飛び乗り、運転しながらヘルメットをかぶった。固定用のベルトなんてつける余裕はない。
どうやったって、間に合わない。間に合うはずもない。内心で乙女らしからぬ悪態を吐きな
がら、私は2つめの信号をシカトして、フルスピードで事務所まで向かった。
その後、私に起こった出来事は2つ。
1つ。私は間に合わなかった。事務所の前に到着したのは10時5分だった。
そしてもう1つ。
約束は無くなってしまった。
立ち入り禁止と書かれた黄色いテープの向こう側に、私の自転車が見える。事務所の前には人だかりができていた。数台の救急車、その倍くらいの量のパトカーが事務所の前で、赤いサイレンをピカピカ点灯させている。
「………………」
こういう時、周囲の会話や警察の会話に聞き耳を立てて状況を知らなければいけない。携帯を開き、検索すればすぐにリアルタイムの情報が飛び込んでくる。
でも、私は何も分からなかった。耳も聞こえない、頭にぽっかりと大きな穴が空いていたからだ。
それは、私が昨晩必死に忘れようとしていた、不安・恐怖・後悔・焦燥。それらが全て消えて無くなってしまった。
それからどうやって家に帰ったのか分からない。ただ、気がつくと私は家に居て、煙草の匂いが染み付いた空間に横たわっていた。
全ての出来事がまるで嘘のようだった。ヤクザ?落とし前?そんなドラマみたいな事、本当にあるわけない。
尾形も、本当はいなかったのかもしれない。
いつもその発想に行き着いた。でも、そう考える度に、何度も背中に感じた鼓動が蘇ってくる。
尾形は確かにこの部屋で、
私とセックスをして、
私を抱きしめて、
確かに生きていた。
「………………」
数日後、ニュースでは何度も何度も、私の街の繁華街が映し出された。その度に、不気味な人の裏側を覗くような目の男と、まるで従順な闘犬のような男の写真が映し出される。
月島・鶴見。その名前の横には黒枠に囲まれた文字で『被害者』あるいは『死亡』と書かれていた。
私は尾形に会いたかった。
あの男に会って、あの鼓動は本当にあったのか確かめたかった。
もう、感覚の記憶は薄くなっている。
+
数日後、警察から私に連絡があった。
「遺体は綺麗にしてあるので、安心してください」
案内された遺体安置室にそれはいた。そっと、胸の部分に触れたけど、まるで人工物のような肌がそこにあるだけで、ただただ気味が悪い。
目を閉じて、行儀よく死んでいる顔。こんな顔だっただろうか。
「彼の胃の中から、貴方の住所が書かれた紙が出てきたんです。心当たりは、ありませんか?」
婦警が、私の顔を覗き込む。
「……………………………知りません」
←back / next→
14 / 15
book mark
back