私はソファーの上に腰掛け、膝の上に尾形を乗せて、ずっと気になっていた事を尋ねた。
尾形を印象付けた、あの事件の事だ。
「…ああ、あれか」
私の膝の上に置いた手を、思い出すような素ぶりで動かす。
「くすぐったい」
膝を動かす私の姿を、尾形はにやにや笑いながら見つめていた。
「アイツをぶん殴る機会を狙っていた。それだけだ」
「植木鉢落とすなんて、シャレになんないのにね」
「ガキだからな」
足に当たる尾形の髪の感触が柔らかい。
まるで猫の毛みたいだ。
指の間で尾形の髪を弄びながら「そういえば」と呟く。
「尾形と私って、クラス一緒になった事あったっけ?」
「俺は学校に行っていない」
「え、そうだっけ?」
「俺には戸籍がない。義務教育は受けてねえ」
「……あれ?じゃあどうして私は尾形の名前知ってたの?」
「あ?手紙を渡したからだろ」
「手紙?そんなの貰ったっけ?」
「…………………あ」
尾形はそう言ったきり、黙ってしまった。
しまった、と表情に出ている。
「ねえ、手紙って何?」
「なんの話だ?」
「さっき言ったじゃん」
「知らんな」
「ごまかさないでよ」
「知らん」
「もう、教えてよ」
聞く耳持ちませんという表情で、尾形は黙り込んでしまった。
はあ、とため息をつき。手のひらで尾形の髪の毛を撫でる。
ワックスの取れた髪がさら、と指の間を伝って揺れた。
「紬」
「なに?」
「…鶴見とはもう関わるな」
「………………無理だよ。仕事頼まれてる」
「…!?受けたのか?」
「1回30万。それが条件だって」
「馬鹿ッ!お前…!」
起き上がった瞬間、開いた傷口が痛んだのか、尾形はすぐに顔をしかめて再びソファーの上に身を倒した。
「また血が出るよ。せっかく止血したのに」
尾形は膝の上で首を回すと、怖い顔で私を睨みつけた。
「……………………正気か?」
「仕方ないじゃん。それしか方法がなかったし、断れる雰囲気じゃなかったんだもん」
「だもんもクソもあるか、自分が何やってるのか………」
私は尾形の口を手のひらで塞いだ。
「いいから。明日の事は明日の私に任せよう」
「………………」
尾形はまだ何か言いたそうにしている。
「今日の私は、このままここで尾形と寝る。明日の尾形は、私と一緒に朝ごはん食べる。オッケー?」
無責任な言葉の答えは、私が消した電灯の音で遮った。
かけ布団もかけず、私はソファーで眠る尾形の隣に寝転がった。
真っ暗な闇の中、動く気配は呼吸を吐き出し続ける、私と尾形の肺。
そして、尾形の胸の鼓動だけだ。
私は尾形の胸元に手を当てながら、その鼓動がやけに心地いいと感じている事に気が付いた。
暗闇に馴れていない視界の中で、尾形がわずかに私の前髪をなで付ける気配がした。
唇に触れて、そして一瞬戸惑い、額に柔らかい感触がした。
微かに部屋に響くリップ音。
「おやすみ…尾形……………」
「…おやすみ」
目を剥く男の顔、険しい表情の男、尾形を殴る男。
私を殴る男、私を虐げる男、私を抱く男、私を蔑ろにする女、私を産んだ女…。
様々な人間の顔が頭の中で交差する。が、どれも私にとってあの人は生きているという実感がない。
唯一、私を抱き寄せる尾形の掌の温度と、鼓動の感覚だけが、この男は生きていると実感させた。
将来への不安や、尾形の不安げな表情が脳裏を過ぎる。
ただ、その不安も今は体温に溶かされて。私の意識は重みのない夢という意識の中へ、ゆっくりと
落ちていくのだった。
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