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「#エロ」のBL小説を読む
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街の中はすっかり冬の乾燥したようなにおいに包まれていた。
火影の家まで向かう時はカカシさんに抱き抱えられていたからそこまで寒さを感じなかったが、こうして歩きながら肺まで深く息を吸い込むと、透き通った冷たい空気が身体を芯から冷やした。指先や首元から頬、そして鼻先がかじかむ。羽織り物を借りてきたからまだましだが、脚を踏み出す度に太腿のあたりがひんやりとした。空気中の不純物が全て取り払われたような澄んだ冷たさだった。
そのせいか、やたら星が高い位置へ見えた。そして、いつもよりも随分と明るく、星の粒が大きく見えた。
通りに面した店はとっくに店じまいをしており、民家も明かりが消えている。街全体がひっそりと、真夜中の深い藍色に沈み込んでいた。

私とカカシさんは念のため、火影の家からガイさんに送られることになった。カカシさんが力を使わなかったとは言え、身体にどれだけ負担がかかっているかわからないため、とのことらしい。
カカシさん達の使うチャクラが切れてしまうと、倒れたり意識を失ってしまうそうで、その最悪を想定してだと火影様が言っていた。
ちなみに、ナルトくんはアスマさんと紅さんに送られて帰って行った。こんな時間まで気をはり、やっとカカシさんが帰ってきて安心したのか、何度も大きなあくびをしながらよろよろと歩いて帰っていた。

「すまないな、二人きりになりたいだろう。でもお前ら二人の無事のためだ、我慢してくれ」
「いやぁ、こんな寒空の下で倒れちゃ危ないからねぇ。心強いよ」

カカシさんは寒さに鼻をすすりながら笑った。
ガイさんは、今日はとても大人しかった。深夜の住宅街だったからかも知れないが、以前私とカカシさんを送り出してくれた時より力の抜けた表情をしていた。きっと、すごくカカシさんのことを心配していたのだろう。それで、案外元気に帰ってきたから拍子抜けしてしまったに違いない。熱いオーラではなく、今日は穏やかで間延びしたような優しげなオーラを纏っていた。

「しかし、オレは安心したぞ。ライバルの心休まる場所が再び戻ってきたんだからなぁ」
「ふふ、心配かけたね」

ガイさんの、その真っ直ぐすぎる眼差しが私を捉え、ニッと白い歯を見せる。すこし濃ゆいが、きっとカカシさんとの関係性からしていい人なのだろう。

「河原で声をかけてもらったのに、逃げてしまってごめんなさい」

私はずっと気がかりだったことをこの場で謝罪した。声をかけてくれたのが、カカシさんの知り合いで、私を心配してくれての事だったと知ってからずっと反省していた。

「なぁに、気にするな!そう言う時もある!人違いじゃなくて良かった、そのくらいの話だ!」

ガイさんは力強く言って、ナイスガイなポーズをして見せた。前向きで素敵な人だなぁと、私は心があたたかくなった。この明るさを見習いたいなとも思った。

「カナ、これからカカシを頼んだぞ」
「私なんかカカシさんに迷惑かけてばっかりで、頼まれるなんて……」
「迷惑?そんなのお互い様だ。それに、カナが迷惑だと思っても、カカシは迷惑だと思ってないかも知れないぞ」

なぁカカシ、とガイさんは彼の方を向いて呼びかける。

「ガイの言う通りだよ。別にオレは迷惑なんかかけられた覚えは一つもない」
「人は他人を頼り、助けられ、助けた方もその経験を通して成長していくものだ。だから頼ることは悪いことなんかじゃない。そんな小さなことを気にするな!」
「世の中、頼られたいっていう奴もまぁまぁいるしね。ガイもそうじゃない?」
「あぁ、何かあったらいつでもこの木ノ葉の気高き碧い猛獣、マイト・ガイが駆けつけるさ!」
「ちょっと、オレの出番がなくなっちゃうじゃないの」

朗らかにカカシさんが笑う。つられて私も笑う。
幸せだなぁ、と思った。笑顔が心にしみ込むようだった。かたく冷え切った心で、こんな気持ちをまた感じられることがあるのだなぁと感心さえした。
私の空っぽだった胸の奥へ、ぽたり、ぽたりと小さな奇跡の滴が少しずつ注がれていく。

ガイさんとはカカシさんのアパートの前で別れた。
静かな通りでひっそりと「おやすみ」を言い合うと、その声には似つかわしくないほど大きく手を振ってさよならをした。
きっと次に会えたなら、もっとお話がしたいなぁと思った。私の知らないカカシさんの話も聞きたいなぁ、なんて。

懐かしい階段を上がって、二階へと向かう。近所迷惑にならないように忍足で足音を抑える。上がりながら、よくこの階段は買い物帰りに重たい荷物を持って登ったなぁ、としんみりした。
上がりきると、見慣れた薄暗い廊下が覗いた。
手前がカカシさんの部屋だ。玄関の扉は青白い光でぼうっと照らし出されていて、まるで異世界へと繋がる扉のような不思議な雰囲気が漂っていた。
たった数ヶ月だけれど、沢山の幸せをくれた部屋。カカシさんとの思い出がたくさん詰まった幸福の象徴。
カカシさんが、犬の肉球マスコットのキーホルダーのついた鍵をポケットから取り出し、ガチャリとはめ込む。そして抜き取ると、冷たく光る銀色のドアノブをゆっくりと開いた。
瞬間、彼の部屋の匂いが鼻腔へ飛び込み、私はあまりの懐かしさに胸が苦しくなる。感情がぐるぐると渦を巻いて、肺のあたりをムズムズさせた。
久しぶりの家は海の底のように深い濃藍で、静まり返っていた。窓のある部屋から月の光が淡く廊下に伸び、床面が朧げに青白く反射している。
「どうぞ」と優しく微笑む彼の後に続き、玄関で靴を脱いで部屋の中へ一歩足を踏み入れると、足の裏がひんやりと冷たい。この部屋で感じたことのない温度だった。前は暑さと湿度でペタペタとしていたくらいだったのに。こんなところで季節の移ろいを感じさせられる。
カカシさんはそのまま廊下から室内へ向かい、リズムよく各所の部屋の明かりをつけていく。パッ、パッと室内が照らされる度、私はまた胸がいっぱいになった。
身体を取り巻く空気や温度が変わっても、変わらぬその風景。におい。室内に存在している一つ一つが、私の思い出をそのまま切り取ったかのように愛おしく、大切だった。
以前使わせてもらっていた部屋を覗けば、私がここで生活していた痕跡が確かに残っていた。部屋の隅にある棚には、入院した時に差し入れてもらった雑誌が変わらず立てかけられていた。
それから、手を洗いに洗面所に入れば、歯ブラシや化粧品、ヘアゴムなどが何もかもそのまま置かれていた。しかし、埃は丁寧に払われて整頓されている。
きっとカカシさんがひとつひとつ手入れをしてくれたのだろう。それがすぐに分かった。

「カカシさん……これ、」

私は目の淵を潤ませながら彼を見た。
彼は遠い昔を懐かしむような目で微笑んだ。

「きっとまた、帰ってきてくれるような気がしてたから」

自分の記憶のことで精一杯だった時、彼は私を信じて待っていてくれた。その事実が嬉しくて、でも情けなくて、私はポロポロと涙をこぼした。初めてここへ来た時のように、私は感情をどうすることもできなかった。

私は最初からこの世界の住人だった。そして、本当は一人ぼっちだった。大切な人も、帰る場所もとうに無かった。彼がいなければ、私は本当にこの世界で孤独だった。
それが、たまたまこうして居場所を見つけることができた。どんなに幸せな事だろう。ほとんど奇跡に近いこの幸運を、私は今、全身で感じていた。

「あらあら、また泣いちゃって。もう、せっかく帰ってきてくれたんだから、オレはカナの笑顔が見たいよ」
「……ごめん、なさ……い……」

涙の隙間から見ると、困ったように眉をさげて笑ういつもの彼がいた。私はそれがまたすごく嬉しくて、視界は涙で溺れた。私の涙は、長い冬を終えた春の雪融けのように止めどなく流れた。そして、硬く冷たくしぼみ切った私の心に流れ込み、再び小さな花を咲かせるようだった。

「ふふ、相変わらず謝る癖も抜けてないねぇ」

彼の笑顔が心へしみ込んでいくようだった。私は精一杯の泣き笑いを浮かべて彼の言葉に応えるのが精一杯で、しゃくり上げながら何度も何度も涙を手の甲で拭った。

「さ、疲れただろう。温かいお茶でも飲もうか」

カカシさんはそんな私の背中へと手を添え、ダイニングへと誘導する。そのままテーブルのそばへ行くと、椅子を引いて私を座らせ、「ちょっと待ってて」とティッシュを持ってきてくれた。私がすぐに涙をおさえるのを少しだけ見守ると、キッチンへ立って湯を沸かし始める。
その姿は数ヶ月前まで見ていた後ろ姿となんら変わりなかった。私はティッシュで目頭を押さえ、何度も鼻をすすりながらその背中をじっと眺めていた。

温かいお茶は、私が使っていた赤い花柄のマグカップへとなみなみと注がれて私の前へと置かれた。
この花の柄は、よく見ると椿の柄のようで、私は深い意識の底でずっと家族との思い出の欠片を探し求めていたのだなと思った。マグカップを両手で包み込むと、もう二度と私の手にかえることはない姉の掌の温もりを想った。
そして、ふと思い出した。

「……えっ?!私、ピアス向こうに置いてきちゃった?!」

マグカップを置いて自分の耳たぶを触ると、何の引っ掛かりもないことに気づき、私は焦って大きな声を上げた。向こうから帰ってくる時にピアスをしてこなかったのだ。
あの時は何が何だかわからないまま流れるように物事が進んでいったから、私はこちらへものを持って帰ってくることをすっかり失念していた。
涙も止まるほどがっかりして項垂れると、カカシさんがクスクスと笑い声をもらす。なんだなんだと眉根をギュッと寄せて隣の椅子に座っている彼を見ると、どうしてだか余裕の表情を浮かべていた。

「実はこっそり持ってきたんだ」

カカシさんはにっこりしながら懐へと手をやる。それから突っ込んだ手を私の前へ出して開いて見せると、そこには確かに二粒の真っ赤な椿のピアスが乗せられていた。私が気を失っているときに、忘れないようあらかじめポケットへ忍ばせておいたらしい。

「あんまり部屋をいじっちゃいけないと思って、目についたこのくらいしか持ってこれなかった。アルバムはこちらにも控えがあったしね」
「これがあれば十分です……ありがとうございました……」

一気に力が抜けた。私は受け取ると、丁寧な動作で両耳につけた。就職祝いとしてもらった、大切なプレゼント。私が喜ぶと思って選んでくれた椿のピアス。
私はきっと、椿の似合う大人の女性になれたのだろうか。カカシさんが選んでくれたのならそうだ、私は姉の言っていたような女性になれたのだ。
なんだか私は心の底からほっとして、大きくため息を一つもらし、湯気の立つマグカップへ口をつけた。
心も身体も温まり、涙でカラカラになった身体が潤っていく。

「気に入ってくれてたみたいで嬉しいよ」
「だって、カカシさんがプレゼントしてくれましたから」

涙が乾き始めて少しつっぱりだした頬をぐいっと持ち上げて、私は笑顔を作った。カカシさんは「それはよかった」と微笑んで、マスクを下ろし、彼もまたいつも使っているマグカップへと口をつけた。
全てにおいて均整のとれた美しい顔がのぞくと、私の胸は高鳴った。何から何まで素敵だった。その顔の縁取りも、緩やかに上を向くまつげも、そしてマグカップを口元へ運ぶ指先も。全てが芸術のように美しかった。
思わず見惚れていると、カカシさんが「そんなにじろじろ見ないでよ、恥ずかしい」とはにかんでそっぽを向いた。彼が向いた方にはカーテンが中途半端に開いたままの大きな窓があり、彼はそこを向いたまましばらく視線を止めた。
「どうかしましたか?」と訊けば、「ほら、あそこ」と窓の真ん中あたりを指さす。

「今日は随分と月が綺麗だねぇ」
「……あ、本当だ」

指の先を見ると、窓から大きな満月がのぞいていた。
月は、透明な青白い光を放ち、闇の中へぷかりと浮かんでいた。まるで水晶玉のような美しさだった。位置がいいのか、外で見た時よりも何倍にも大きく見える。

「ちょっとだけ電気を消して眺めようか」

照れ隠しなのか、本当に月を眺めたかったのかは定かではなかったが、カカシさんは立ち上がると部屋の隅にあるスイッチをパチンと押して明かりを消した。それから窓辺に向かい、より月が見えるようカーテンをレースごと端まできちんと開いた。

「こうやって落ち着いて眺めると、もっと凄いねぇ。本当に見事だ」
「あんなに月に翻弄されてたのに、こんなに綺麗だと今までのことなんてすっかり忘れちゃいそうですね」

窓を通った青白い光が脇に避けたレースカーテンを透過し、青白さを増徴させていた。レースが微かに揺れて、部屋の中は水面の光を映し出した水底のように揺らめいている。その様子があまりにも綺麗で、もっと近くで月を見たいと思った。
マグカップをテーブルに置き、静かに椅子を下げて立ち上がると、窓際のカカシさんの横へ並んだ。
そして、泣き腫らして重たいまぶたで、神々しいほどに美しいまぁるい形を眺める。眺めながら、考え事をした。
今頃、向こうの私は何をしているのだろうか──彼女の生活は、私達を帰して元通りになる……なんて都合よく綺麗に収まるわけはないだろう。これから職場に復帰という形をとらなければならないだろうし、社会的な信用も私のせいで損ねてしまったかもしれない。大丈夫かなぁ、と私は心配になる。
彼女はこの世界へ飛び込んできてどれほど怖かっただろう。どれほど孤独だっただろう。一体、どんな気持ちで私を探してくれたのだろう。
向こうを出てくる時はまだ頭が追いついていないところがあったか、お礼をきちんと言いたかったなぁ。私は後悔した。

「どうかした?」

カカシさんはいつの間にか私を心配そうに見つめていた。私は驚いて一瞬どきりとしたが、すぐに打ち消して彼の質問に答えた。

「……向こうの世界の私がこれから大変だろうなぁって思うと、なんだか申し訳ないなって……全て私が発端ですし……」
「そうだな。でも、彼女はお互いを元の世界に戻すことを第一に望んでいたから、今頃は悩んだりはして無いんじゃないかな。それにあの子は、カナ自身が幸せになる事を願ってたみたいだったから、カナが楽しく過ごしてた方が喜ぶと思うよ」

「ま、オレの推測だけど」とカカシさんは笑いを含んだような声で言った。カカシさんの想像でも、なんとなく説得力があるような気がした。
私が「ありがとうございます」とフォローしてくれたお礼を述べると、二人共窓の前に横並びになって、しばらく月を眺めた。ただただ静かにその美しい光を見つめていた。



「そういえばさ、」

体感として数分程経った頃、不意に彼が口を開いた。私は月からパッと視線を彼に移す。

「カナ、突然聞くのもアレなんだけど、オレが前に言ったこと、覚えてる?」

カカシさんは私の頬へゆっくり手を伸ばすと、ほんの僅かに残っていた水分を指で輪郭の蓋へと拭い去りながら尋ねた。慣れた手つきだった。

「ほら……多分夜だったから忘れてるかもしれないけどさ、もし、いつかどこかでまた出会えたら、その時は──って」

少し躊躇いながら話すカカシさんは、とても照れ臭そうに笑った。
私はその彼の言動と言葉の切れ端を繋げ、彼の伝えたい言葉を頭へ思い浮かべた。
忘れもしない。忘れるわけがない。
その言葉は、向こうの世界での最後の夜に告げられたものだった。あの時、私はその言葉をはなから叶わないと決めてかかっていた。別れ際に感情のままに任せてこぼす、ある種の呪文のようなものだろうと思っていた。だから悲しくてたまらなかった。
けれど、彼は覚えていてくれた。あの日と変わらず、笑って少し細くなった柔らかな眼差しを向けてくれた。
私は鼻を啜りながらコクリと一度だけ頷き、カカシさんを見上げる。そこからしんとした部屋の中で二人、しばらくじっと見つめあっていた。まるでこの世界に二人きりみたいな気がした。

やがて、キッチンの方から冷蔵庫の低いモーター音が控えめに聞こえてくると、彼は徐に頬から手を降ろした。そして、今度は私の両手を丁寧に彼の両掌へと包んで私をまっすぐに見つめた。その瞳は、先程見た澄んだ冬の夜空とよく似ていた。とても綺麗だった。
うっとりと見とれていると、不意に瞳の中がゆらりと揺れた気がした。
そして深い瞬きを一つすると、ゆっくりと唇を開いた。

「……これからはずっとオレのそばにいて欲しい。いずれまた、悲しいことも辛いことも出てくるかもしれない。けど、オレはカナと楽しいことも、悲しいことも、全部一緒に分かち合って生きていきたいんだ。だから、いつか終わりの日が来るその時までは、オレのそばにいて欲しい。必ず大切にすると誓うよ」

震えるのを抑えるような、低い声だった。実現しないと思っていたあの日の約束は、確かに果たされた。きちんと現実になったのだ。
私は、今度は嗚咽なんて漏らしてられないと必死に声を飲み込み、呼吸を整えようと大きく深呼吸をすると、「はい」と蚊の鳴くような声で答えた。
それ以上の言葉はどうやっても出てこなくて、私は無理矢理唇をキュッと結び、顎にシワがよるのがわかった。必死に結んでいても、きっとその継ぎ目はぐにゃぐにゃだったと思う。
カカシさんは私の返事を聞くと、ほっとしたように「ありがとう」と言って、目元に緩やかなカーブをつくった。

「……全く、オレの分身ったら本物のオレに抜け駆けしてなに言ってるの!ってちょっと妬いちゃったよ。本物のオレがちゃんと伝えるはずだったのに……」

おちゃらけていうカカシさんに、私はついくすくすと笑ってしまう。目の淵は熱を帯びたが、涙はもう流れなかった。

「愛してるよ、カナ」

握る彼の手の力が僅かに強まると、ぐいと彼の方へ身体が引き寄せられた。私は身体の力を抜いて、そのまま彼の胸板へと身を預けた。私よりも幾分か高い体温が全身を包み込む。背中へと回された両腕はいつもよりきつく、ギュッと私をとらえていた。
懐かしくてあたたかい匂いが鼻腔を支配する。私は、「彼のことを好きだ」というたった一つの気持ちで満たされて、ただただ幸せだった。悲しい記憶はその幸せな心に優しく抱擁され、氷のように少しずつ溶かされていく。心の下の方にぽたりぽたりと少しずつ落ちて、小さな水溜りを作った。
きっとこの悲しみの滴は、いつまでも心の底へと溜まっていて蒸発はしてくれない。けれど、その上へたっぷりと幸福な気持ちが注がれてゆけば、いつか薄まって馴染んで行くと思う。いつかカカシさんが言っていたみたいに大丈夫になる日が来る、そんな気がした。半分、確信に近い感覚だった。
私は頬を緩ませ、目を瞑る。世界一幸せな暗闇が訪れる。もう何も怖くなかった。
それから「私もです」と吐息の混じったうっとりした声で呟くと、彼を抱きしめ返す。再び部屋は静寂に包まれ、私たちは冷たい夜の暗闇で二人ぼっち、ただただ幸せと心のあたたかさを噛み締めるように抱きしめあった。
まるで、これからの幸せを互いに誓い合うように。



時は流れ、身が引き締まる程に寒い冬が来た。
あれから私は、以前の私の戸籍ときちんと照合され、めでたく自分の身分が証明された。本当かどうか疑わしくて戸籍の写しを貰うと、たしかに私の名前が記載されていて、私は心底ほっとした。ここにいていいんだよ、と認められた気がしたからだ。
ついでに今まで住んでいた長屋を引き払って、カカシさんの元へと住所を変更した。職場へは、以前同様アカデミーの入館受付で復職することになった。
職場の皆さんは私が急に来なくなって心配していたようで、復帰初日は全員温かく迎え入れてくれた。
全てがカカシさんと出会う前よりもいい状態で、私はとても満ち足りていた。世界の全てが明るく見えて、これからが希望に満ち溢れているように思えた。
それは、あのカカシさんとの生活を始めた直後のキラキラした気持ちと同じだった。

「……山の方はやっぱり、朝は冷えるね」
「……カカシさん、ここ、寒すぎません……?」
「あぁ、もう眠気なんて吹き飛んじゃうね……」

私とカカシさんは夏にきたのと同じ宿へ宿泊に来ていた。なんでも、カカシさんのオフが連日で取れたらしく、再び予約をしてくれたのだった。
もちろんあの日と同じ部屋で、私たちはこうしてまた二人で思い出の場所へ訪れることができたことに喜びを感じていた。
前来た時はいろんな事を考えすぎてなかなか眠りにつけなかったが、今回は何度か愛し合うと揃ってすぐに眠りについた。甘ったるくて幸せで、夢のようなひと時だった。
そして朝、とても早く目が覚めてしまったので、朝風呂に入ろうかという話になったのだった。
部屋の露天風呂に入ろうかとバルコニーに出たが、あまりの寒さに一度大浴場で身体をよく温めてから入ることになった。私達はまだ薄闇の中で支度をし、寒さに身を縮めながら部屋を出た。

大浴場は宿泊棟とは別の棟にあり、途中、大きな窓がいくつもはめ込まれた長い渡り廊下を通る。その渡り廊下は、窓こそ開いていないが木造建築のため隙間から冷気が侵入してきて、廊下全体を冷蔵庫のように冷やし込んでいた。
廊下の窓、右手には花火大会の会場となった湖が、朝の静けさの中へどっしりと構え、鏡のような様相でそこへ鎮座している。
まだ外は夜が明け切っておらず、瑠璃色の空の端だけが白み、僅かにオレンジ色が顔を覗かせていた。
時折風が吹くのか、ほんの僅かな明かりの中で湖面にさざ波を走らせているのが見えた。湖の淵の山肌には朝靄も浮かんでいる。
私達は、そんな冬の冷たい空気に包まれた廊下を、羽織の袖をくいっと手元の方まで伸ばし、背筋を丸めて急ぎ足で進んで行く。

「わ!」

一刻も早く温かいお湯に浸かりたい──そんな一心でスタスタと歩いていた所、私はふと足を止めた。

「なに、どうしたの」
「あれ!見てくださいよ」

私は廊下の右手の窓から見える景色を指差し、カカシさんに言った。

「……ん?あれは……」

湖のずっと向こう、対岸の湖畔にある貸しボート達が宙に浮いているように見えたのだ。

「だれか忍術でも使ってるんでしょうか……」
「あれは忍術じゃなくて、多分蜃気楼だろう」
「湖で蜃気楼なんて見られるんですか?」
「あぁ、湖の前例もあると確か昔に何かの本で読んだことがある。光の屈折の関係で上の実像が反転して、下に虚像が出来るから浮いているように見えるそうだよ」

カカシさんは「実際に見たのは初めてだけど」と感心したような声をあげて、窓の方へ近寄る。その間もボート達はゆらゆらと揺れながら、空中へ浮かんでいた。なんなら船着場も宙へと浮いていた。
私はなんとなく、こちらへ戻ってくる扉があったあの不思議な空間と似ているなぁと思った。あれももしかして、蜃気楼の一種だったのだろうかとありえない想像をする。
あの時の私は確かに"本物"だったし、私の身体自身が見た光景だった。

「向こうからも同じように見えてるんですかね」

私は何と無しに尋ねる。

「恐らくこちらからだけだろう。それにしても、こんなに暗いのに見えるなんて、相当珍しいんじゃないの?」

カカシさんがそう解説すると、ぼんやりともう一人の自分のことを思い浮かべた。
まるで私ともう一人の私は、蜃気楼みたいだったなぁ、と目の前の景色の中で朧げに揺れる虚像を見つめながら思った。

「……蜃気楼って、なんだかロマンチックですね」
「あぁ、そうだな」

カカシさんがその幻想的な風景に魅了されたような、恍惚とした声で言った。実際、とても美しかった。
だからか、寒いのに私達はいつまでもそうして朝靄の中の蜃気楼を眺めていた。今まであったことを、瞳に映る対岸の靄に乗せて思い返していた。
あの日、彼と出会った日のことを。もう一人の自分と出会ったことを。そして、永遠の別れを交わしたことを。
私はこれから、この世界で生きていく──生まれ変わった様な自分の心に、私は静かに言い聞かせた。

ふと、遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。空は次第に明るみ、湖の後ろの山の稜線は紫色に縁取られ、赤い雲がどこからか流れてくる。空の瑠璃色が透明度を増すと、希望にも似た色彩がどんどん空を満たしていく。
私はそれを眺めながら、一粒だけほろりと涙を溢した。涙は頬を伝い落ちると、肌の温度にすっと馴染んで消えてしまった。
きっとカカシさんにはバレないだろう、そう思いながら目頭を擦るふりをして涙の跡を拭った。
もう、私は大丈夫。カカシさんに涙を拭って貰わなくても、前を向いて行ける気がした。

もう間もなく、夜が明ける。


(おしまい)

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