×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


夢を見た。
ずっと忘れていた、大切な人たちの夢。とても心が温かくて、幸せな子どもの頃の記憶。

夢の中で私はまだ子供で、私よりもいくつも年上の姉と歌を歌いながら手を繋いで歩いていた。木枯らしがびゅうと吹く寒い、オレンジ色の光に包まれた夕方だった。空気がとても冷たくて、耳はキンキンに冷えて痛い程で、頬は歌う度つっぱっていた。
家を出る時に母が巻いてくれたお気に入りのマフラーと、姉がきゅっと握っている手だけがとても暖かった。

「わぁ、おはなだ!きれい!」

金色に染められた道の少し先に落ちている真っ赤な赤い花びらを見て、私は足を止めた。
道は丸ごと落ちている花や、風で散らばった花びらやらで埋め尽くされていた。まるで、夕方の陽をキラキラと反射するべっこう飴の海の上に赤い絨毯を敷いたかのように甘く、美しかった。

「これはね、つばきっていうお花よ」

うっとりとする私に、姉は優しく教えてくれた。

「かわいいねぇ」
「かわいいけど、冬の寒さに負けずに綺麗に花を咲かせる強いお花なの」
「すごいねぇ」

私は花びらの絨毯を目の前に、視線をあちらこちらへと動かすと、まだほとんど花びらの散っていない花を見つけた。
「あった!」と姉の手から離れる。落ちている花びらをあまり踏んづけないようにして、見つけた花のそばへ寄って手に取ると、右手で髪飾りのように頭へと添えて姉に見せた。

「おねぇちゃん!かわいい?」
「ふふ、カナは椿の花がよく似合うね」

姉は私に近づきながら優しい顔で笑った。

「本当?」
「うん、とってもかわいいよ!」

そして、目の前まで来ると、そっと両手を頬へと伸ばし、冷え切った私の頬を優しく包み込んでくれた。
褒めてくれたことが嬉しかったのと、姉の掌がとても温かくて私は笑顔でいっぱいになる。

「カナは大人になっても、椿が似合う女の子になれるといいね」
「うん!」

なんて事のない会話。何の意味すら持たない会話が、今はとても愛おしく感じる。もう二度と姉と手を繋いで歩くことはおろか、話をすることも、微笑み合うことすら叶わない。
私は心がむしられていくような心地がした。

それから一度暗転すると、パッと場面が変わった。
今度は温かな陽の光の中で、柔らかな風が髪の毛をゆったりと靡かせた。
ぐるりと見渡すと、私と姉と母と父の四人でカメラの前に笑顔で並んでいた。あたりには桜の花と黄色い菜の花が咲いていて、濃い花のにおいが漂ってきていた。
確か、これは私がまだ五つくらいの頃だった。何でもない日に、「桜の花が綺麗だから写真を撮ろう」と父が言って、急に撮ったのをよく覚えている。
写真なんて滅多に撮らなかったから、母は恥ずかしがって、私と姉は珍しさにはしゃいでいた。私は姉に抱きつきながら写真に写った。
なんて温かいのだろうと思った。むしられた心からじんわりと何かが溢れてくるようで、呼吸が荒くなった。
しかし、子どもの体の私と、今こうしてもう二度と手に入らない幸せを噛み締めている私は別の存在のようで、実際には満面の笑みでカメラの前に立っていた。

そして、写真のシャッターが下りた瞬間、私の周りには何も無くなってしまった。
春の風にそよぐ桜も、菜の花のむせ返るような匂いも、それからあたりを包んでいた陽の光さえ消えてしまった。あるのは消炭色の、しんとした冷たい空間だけだ。
平凡なように見えて、今はそれがかけがえのない宝物だったということを痛いほどに知らされる。
残酷な程に幸せな過去の記憶を見せつけられ、私の胸は今にも張り裂けそうだった。そのまま指先まで千切れて、あの椿の花びらのように身体が散り散りになってしまいそうだった。
目の周りが熱くなって、口元はぐにゃりと歪んだ。


再びパッと全てが無になり、場面が転換する。意識が戻ると、今度は暗闇の中だった。
頭の中がぼんやりとしていて、まぶたは重く開かない。身体も少し動かしてみようと力を入れるが、全身に浮くような感覚がまだ残っていてうまくコントロールができなかった。
ここは一体──目を閉じたまま、神経を研ぎ澄ませてみる。どこかで虫の音が聞こえて、背中がなんとなくひんやりとしてチクチクもする。それから、体表を撫でるように冷たい風が過ぎていき、頭の上の方でさらさらと何かが揺れるような音がした。どうしてだか、胴回りだけは少しだけ温かい気がした。
私はへなへなの身体をどうにかしゃっきりさせようと、深く呼吸をした。それから、ゆっくりとまぶたを開く。
少しずつ広がっていく視界に飛び込んできたのは、綺麗な星空だった。溢れそうなほど、星の粒がチラチラと瞬いてた。そして、頭の上のあたりには木があるのか、闇に染まって真っ黒になった葉が微かに揺れていた。
それを見て、私はすぐに分かった。あぁ、帰ってきたんだ──と。

向こうからこちらの世界へ帰ってきた際、二度夢を見た。
一度目は向こうの世界からあの不思議な空間へ出る前。二度目は不思議な空間からこちらへ来る時だ。両方とも違う内容の夢ではあったが、家族の夢ではあった。前者は残酷で悲しい夢。後者はひだまりのように長閑で温かな夢。随分と私はたくさんのことを忘れてしまっていたんだなぁと思った。たくさん過ぎて、飲み込めきれない自分がいた。
なにが起こったのか思い出せても、それを現実として受け入れたくなかった。


果たしてどちらの方が良かったのだろうかと考えた。
辛いことを全て忘れたり、過去を全て捨ててしまうのが幸せなのだろうか。それとも、辛くても大切な人との記憶を胸に大切に抱きしめて生きていく方が幸せなのだろうか。私は光の点を見つめ、無作為に繋げたりしながらぼんやりと思いを巡らせた。

「あれ、気がついた?」

不意に聴き慣れた声がした。ゆっくりと首を右方向に動かすと、カカシさんが立て膝をついて座っていた。いつもと服装が少し違う。
あれ、と思って視線を動かすと、私の上体の上へ彼のベストがかけられていた。どうりで温かいわけだ。

「カカシさん……」
「あぁ、無理に起き上がらなくていいからね。身体、少し痛むでしょ」

そう言って少しだけまなじりを下げる。カカシさんはいつも通りの優しい瞳をしていた。
私はその中に、どうしてだか幼い頃の記憶と同じ懐かしさを感じた。大切なものを慈しむような目。柔らかく緩んだ、愛を注ぐような視線。
数秒その瞳を見つめていると、吸い込まれていくような感覚がした。そして、目の淵から熱い涙が溢れてきて私の視界はたちまち歪んだ。

「……う、ぅっ……カ、カシさ、ん……」
「え?!カナ?!どうしちゃったのよ?!」

カカシさんは慌てふためいた声をあげながら、私の頭と胸のあたりへ手を添える。
私は涙を止めようとしたけれど、どうにもならなかった。悲しみと幸せが頭の中で絵の具のようにぐちゃぐちゃに混ざって、それを綺麗に洗い流そうと必死になっているようだった。
きっと、彼の瞳を見て思い出してしまった。大切な人を、自分へ惜しみなく愛を注いでくれる人を失うことの怖さを。
私は手で涙を拭おうと右手に力を入れて持ち上げると、その前にカカシさんがきゅっとその手を握った。そして、もう片方の手を頬へと移し、とめどなく流れる涙を優しく拭ってくれた。その手がとても温かくて、私は冬の日の姉の掌を思い出してまた泣いた。信じられないくらいおんおんと声を上げて泣いた。

どうして私だけ生き残ってしまったんだろう。どうして私だけこんなに苦しい思いをして生きていなければならないのだろう。どうしてあの時、私は助けられなかったんだろう。どうして、どうして私は──

「心が苦しくて全部忘れたい、そう思うこともあるよねぇ。けど、その辛いことがあったからこそ、気づける幸せってのもあると思うんだ」

私の心を見通したのか、彼はあやす様に言った。そして、私の上体をそっと抱き上げると、腕の中へおさめた。
彼は続けた。

「それから、その新しく気づいた幸せを手に入れたとしても、また壊れるのが怖いなんて思うこともあるかもしれない。けど、その幸せが同じように壊れるとは限らないし、もしかすると辛いことすら忘れてしまうほど幸せを感じられるかもしれない。それは誰にもわからない。だから、無責任かもしれないけれど、カナには自分を責めずに生き続けていて欲しいんだ」

湿度のない、柔らかな風が吹いた。熱の篭った目元や頬が気持ちよく冷やされていく。まるで氷嚢を当てているかのように心地よかった。
それから、サーっと草木の揺れる音があたりを包み込んで、とても静かになった。虫の音も一瞬にして止まって、澄みわたるような夜の静寂が訪れた。
私の顔を覗き込むカカシさんの向こうに光る星たちは、ますます輝きを増すようで、チカチカという音が聞こえて来そうだった。

「オレも何度も苦しんだ。今もふと思い出して、辛くなることなんてザラなくらいだ。どうしてオレだけが生き伸びてしまったんだ、なんて責めた回数は数えきれない。でも里や他の仲間を守るためには、生きて戦い続けなければならなくてね。途中からは無心になって戦い続けた。オレはどうなってもいいから、最後の時まで守り続けよう、ってね」

声は笑っていたが、その表情は言葉では言い表せない程に哀しそうだった。
彼も悲しすぎる過去を持つ人間なのだ。それも、私以上に大きな悲しみと、責任をずっと背負い続けて来た。
私はだんだん、自分の涙がひいていくのがわかった。

「気づいたらあっという間に大人になっちゃって、ようやく色んな事を飲み込めるようになった。そしてオレは、その気持ちを取り払う事を頑張るんじゃあなくて、共に生きていく事を決めた。これ以上仲間や里の大切な命を失わせないために、力の限りを尽くそう……ってね。本当は、そうやって生きることを肯定してやらなければすぐにでも音を上げてしまいそうだった。最初はやっぱり苦しかったけど、時間が経つにつれてだんだん上手くやれるようになってきたよ」

情けないと思うだろ、とカカシさんは哀しく笑った。恐らく、彼もまだ心の傷は癒えきれていないのだろう。きっと、その悲しみは一生彼の周りを付き纏って、その心を蝕みつづける。
けれど、彼はそれを選んだ。全てを捨てたり、生きることを諦めてしまうのでなく、過去の全てを抱きしめて生きていく事を。

「……カカシさんは今、幸せですか?」

私は鼻を啜りながら尋ねた。思わず口をついて出た言葉だった。

「あぁ。こんな風に幸せを噛み締めながら、のうのうと生きてていいのかなぁなんて思っちゃうくらいにはね」

良かった、と私は安心した。私も同じ気持ちだった。
辛い気持ちや悲しい記憶はしっかりと心に刻みつけれられているのに、それを被覆するように春の陽のような温かさが心を取り巻いていた。
今、私は新しい幸せを見つけて、それを掴もうと一歩を踏み出そうとしている──そうはっきりと自覚すると、胸の奥で何かがぷちんと弾けたような感覚がして、私は息が出来なくなった。

「……よかった……、私、もうカカシさんが居なくなってしまったらきっと……」

冷えて少し痛む身体の力を振り絞って彼の胸に縋り付くと、彼はその温かな腕の力を強めてしっかりと抱きしめ返してくれた。

「きっと、大切な人と何気ない毎日を積み重ねていけることが当たり前なようでいて、こんなに大切だった……なんてのは、今までのオレが無ければ気付けなかったかもしれない。そう思うと、過去の全てが報われたような、悲しい事にもきちんと意味があって、ここに繋がっている、そんな気がするんだ。きっとカナも、そのうちそんな風に思える日が来ると思う」

そして、大きな手のひらが私の後頭部を優しく包み、ゆったりとした間隔で何度も撫で下されるれる。

「……私も、ですかね……」
「あぁ、きっとオレがそう思わせてあげるよ」

言われた瞬間、私はまた涙が溢れそうになった。けれど、それはカカシさんによって阻止された。
気付いたら彼に唇を奪われていて、その温かく切ない感触にすっかり心を奪われてしまったからだ。私はまぶたをゆっくり閉じ、浸った。
世界はまた闇になった。しかし、今度は今までの暗闇とは違った。
まぶたの裏は何も見えやしないはずなのに、何かの残像だろうか、ずっと先を照らす灯火が揺れているのが見えた。

再び風が吹いて、私の頬を髪がかすめる。揺れる草木の向こうでは、どうしてだか星が流れ落ちる音が聞こえた気がした。


世界は、冬支度を始めようとしていた。
キスの後、しばらく余韻に浸りながらも木ノ葉の里へ帰ろうと二人で立ち上がると、周囲が枯れ草だらけなのに気づく。月の光を受けた木々の葉も、よく見ると緑ではなく茶色がかっていた。
カカシさんに尋ねると、私がこちらの世界を去った時からもうふた月程経っているという。そしてここは、私が向こうの世界へ行く前日に訪れたコスモス畑らしい。
たったそれだけの期間でここまで景色を変えてしまうなんて、時の経過というものはどれほどの力を持っているのだろう。
そうやって私の心の傷も、少しずつ薄れていけばいいのになぁ──そんな風に、カサカサと揺れる枯れ草達を見つめながら思った。

「んー、これだと今は、月の角度からして深夜ってとこだねぇ。ちょっと急がないとな」
「え?これから帰るんじゃないんですか?」
「ちょっと火影様の所へ寄らなきゃ行けなくてね。きっと皆待機してる筈だ」

火影様──その名前を聞いた時に、頭の中へ木ノ葉の里で出会った沢山の人たちの顔が浮かんだ。どこの馬の骨かもわからない私をあたたかく迎え入れ、受け入れてくれた人達。

「また皆さんに会えるなんて、なんだか夢みたいです」
「これからは会いたくなくても顔を合わせなくちゃいけないねぇ」
「会いたくないなんて、そんな!」

カカシさんは私が焦って取り繕うと、悪戯に笑った。その表情が、いつか二人で暮らしていた時に見たのと同じで、私は胸がドキンと高鳴った。
何気ない幸せな日々がやっと戻ってきた。ようやくそう思えた。

「ちょっと急ぐから、申し訳ないけど……」
「きゃっ?!」

急に体がふわりと浮いた。何が起きたのかわからずフリーズしていると、視界の端に彼の肩が見えた。そして目線の上には、顎のあたりが見える。

「やっぱりカナを運ぶってなると、これが一番しっくりくるんだよねぇ」

カカシさんは意味ありげに微笑む。デジャブだった。
こちらへ来た初日も、こうしていきなりお姫様抱っこをされて火影様の所へ連れて行ってくれた。
あの日の記憶が鮮明に蘇る。

「途中跳んだりするかもしれないから、しっかり掴まっててちょうだい」
「……はい、」

私は、カカシさんの首の後ろに手を回し、彼の胸に顔を埋めながら返事をした。自身の視界を遮りたかった。そうしなければ、あまりの懐かしさにまた泣いてしまいそうだったから。



「カナ、着いたよ」

どれだけそうしていたのかは分からなかった。
彼に運ばれている間、私はずっと目を瞑ったまま彼の胸板に顔を押し付けていた。
結局、泣きはしなかった。途中でカカシさんがジャンプしたり、物凄いスピードで走るもんだから、肝がすっかり冷えて泣くどころでは無くなってしまったのだ。恐怖からずっと視界を遮断していた。

「……よ、良かった……」
「あれ、怖かった?大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」

私は一呼吸置くと、カカシさんに抱き抱えられたまま目の前の扉を三回ノックした。そういえば、前もこうやって私がノックしたような気がする。

「あれ、もしかして」
「やっぱり、前も私がノックしましたよね」

ふふふ、と顔を見合わせて笑い合う。
これもまた懐かしいなぁ、と私は笑いなが胸がいっぱいになるのがわかった。嬉しいことが沢山ありすぎて、身体の隅々まで幸福感で充実していた。

「火影様、失礼いたします」

はっきりとした声で、カカシさんが扉の向こうに呼びかけた。すると、すぐにドタドタと走り寄る足音が聞こえてきて、バン!と勢いよくドアが開く。

「カナちゃん!カカシ先生!」
「な、ナルトくん?!」

思いもかけない人物の登場に、声が上擦る。
満面の笑みのナルトくんは、私たちを見た後物凄い勢いで室内を振り返り、「二人とも帰ってきたってばよ!」と元気よく呼びかけた。

「おいナルト、今何時だと思ってるんだ。もう少し声のボリューム考えろ」
「なんだよ、せっかく帰りを待ってたってのによー!」
「はいはい、ただいま」

ナルトくんに注意しながらも、カカシさんは笑顔だった。きっと、ナルトくんが待ってくれていたのが少し嬉しかったのだろう。
勿論私も嬉しかった。こうして、私が戻ってきて嬉しいと感じてくれる人がいるなんて。

「カカシィ!よくぞ無事に帰ってきたなぁ!安心したぞ!」
「ガイ……お前も時間を考えてくれ……」

室内には、ナルトくんとガイさん、それから火影様と見たことのない男性と女性がいた。誰だろう、と思いながら見つめていると火影様がこちらへ近づいてくる。

「おお、懐かしい登場の仕方じゃな」
「姫を連れ帰った王子みたい……ですかね」

カカシさんが半分笑いながら応えた。
そうだ。ここへ初めて来た時、火影様は私たちをみて王子と姫みたいだと茶化して愉快そうに笑っていた。
あの時、カカシさんは気まずそうにしていたけれど、今日は自ら笑われにいった。
あれから随分と変わったなぁ──私は、自然と眉間にシワが寄って、唇は歪に震えた。それから目の鼻の間がツンとしてくると、あっという間にポロポロ涙がこぼれてくる。咄嗟に右手で目から下を覆い隠した。

「えー?!カカシ先生が王子?!うげっ……!」
「全く、酷いねぇ……」
「ははは!オレ達が帰そうとしても『心配だから待ってる!』なんて言ってた割にはカカシに冷たいな!さてはナルト、ツンデレか〜?」
「カカシ先生のことが心配だから待ってるなんて言ってねー!オレってば、カナちゃんを心配してたの!」
「『七班の担当がカカシ先生じゃなくなったら、そんなの七班じゃねぇってばよ……』な〜んてカカシのことも心配してたじゃあないか!素直じゃない奴だなぁ!」
「あぁもう!うるせェー!」

二人のやりとりが可笑しくて、私は泣きながら笑った。
もう顔はぐしゃぐしゃで、何度も泣いたせいで目もパンパンに腫れている感覚がした。でも、もう悲しくはなかった。

「カナにティッシュを渡してやれ」
「すみません……」
「構わん。今は感情のままにするが良い」

私はゆっくりとカカシさんの腕から下ろされる。
彼の隣に立つと、火影様の付き人らしき人からティッシュペーパーが手渡される。箱から何枚か抜き取ると、顔を覆うようにして涙を拭き取った。

「カカシの介抱が必要かと思ってきたが、その必要は無かったようだな」

誰かがカカシさんに呼びかけた。聞いたことのない声だったから、おそらくあの見たことのない男性だろうか。

「あぁ、写輪眼は使ってないからな。向こうのカナが戻してくれたよ」
「へぇ、巫女の伝説は本当だったというわけね」

また聞いたことのない声がしてティッシュを持っていた手を下ろすと、今度は女性がこちらを向いて微笑んでいた。様子からして、二人もきっとカカシさんの同僚なのだろう。

「ま、半分本当、半分フィクションってとこだろう。アスマ、紅、わざわざ来てもらったのにすまなかったな」
「なに、任務報告のついでだ」
「それに、もう一回カカシの彼女を見てみたかったってのもあるけどねぇ」
「……もう一回?」

何のことだろうかとカカシさんを見ると、カカシさんは「えっ?!何のことだろう!全然わかんない!」と慌てたように言って、乾いた笑いを浮かべた。
どうも何かあったようだが、きっとこの様子じゃ教えてはくれないだろう。
私は珍しく取り乱したカカシさんにクスクス笑ってそれ以上尋ねるのを諦めた。

「二人とも無事で何よりじゃ。もう一人のカナもきちんと向こうへ帰せたのじゃな?」
「はい、かなりギリギリでしたがなんとか」
「私のせいでタイムロスさせちゃったみたいで……」
「ふふ、随分バタバタとはしたようじゃな。二人とも、彼女にはきちんとお別れは言えたかの?」
「えぇ」

そう返事をしたカカシさんは少しだけ寂しそうだった。私も静かに深く頷いた。
きっとまた、私ならいつか会える。カカシさんにだって、チャンスがあるかもしれない。根拠は全くなかったけれど、そんな気がした。

「それは良かったわい。さ、今日はもう遅い。無事を報告してもらえただけで充分じゃ。詳しいことも聞きたいのじゃが……また明後日にでも来てくれるか」
「明後日……ですか?」

カカシさんが驚いたように聞き返す。

「久しぶりの再会で積もる話もあるじゃろ。それに心身共に激しく消耗しているはずじゃ。またカナの身の回りを整える必要もあるだろう」

カカシさんはハッとしたような顔をすると、「お心遣い、感謝致します」と深くお辞儀をした。私もぺこりとお辞儀をする。

「なに、気にするでない!とりあえず今日は帰ってゆっくり寝て、また元気な顔を見せておくれ」
「……ありがとうございます」

私は再び深く頭を下げて礼を述べた。
そして、心の底からこう思った。
この世界で、カカシさんと、そして木ノ葉の里の方達と出会えて本当に良かった──と。

再び顔を上げると、火影様の向こうに大きくはめ込まれている窓の外には月が覗いていた。もう月食は終わったようで、いつも通りに青白く透き通るような光で、私たちを見守るかのようにぷかりと闇夜に浮かんでいた。
その姿になんとなく、あの不思議な世界で出会った神様の姿を重ねた。


back