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空は低く、鉛色に鈍く光っている。厚く重なった雲からは、均しくずっしりとした雨粒が降り注ぎ、街全体を洗い流す。屋根を打つ雨音さえやたらと煩くて、気を塞いだ。
こんな日はとにかく心が沈んでいつまでも上がってくる事はない。それは弟も同じようで、いつも仕込みをしながらペラペラよく喋る弟が、今日はやけに静かだった。
おしゃべりな母が実家に数日泊まりがけで出ているせいもあったかもしれない。

カカシくんはあれから私の前に姿を現さなくなった。
当然だ。あんな酷いことを言ったのだから。
私の胸にはぽっかりと大きな穴が空いて、いろんな感情が機能しなくなっていた。毎日店に出ても頭の片隅にはあの日のことが浮かんで、全く身に入らない。
母と弟は、理由も言わずにずっと気を塞いでいるこんな私をたいそう心配して、仕事を休むよう気を使ってくれた。しかし、理由が理由なので、勿論休むなんてとんでもないと思った。抜け落ちた心の端に、僅かにしがみついていた自我が、怠けることを許さなかった。
それに、店に出ていればもしかしてカカシくんが来てくれるかも──そんな浅はかな考えが、なかなか消えてくれなかった。
自ら傷つけ、彼を突っぱねておいてまた会いに来てほしいなんて、どれだけ都合が良いのだろう。期待と自己嫌悪が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜた汚い絵具のようにどす黒く染まっていく。
私は仕込みの手伝いをしながら、絶えず彼の言葉を反芻する。最後に会った時の彼の幻を頭の中で延々と映し続ける。
彼は、私がガイを応援した嫉妬からいじけた、なんて言っていた。果たしてそうだろうかと何時間も何日もかけて記憶を掘り返していくうちに、うっすらと記憶の網に引っかかるものが見つかった。

確かあれはカカシくんが言っていたように、秋の気配を感じる、少し涼しい午後のことだった。
私を含めた女の子四人、公園で遊びながらおしゃべりをしていた。おしゃべりの内容はといえば、女の子が集まれば決まって始まる恋の話だった。子供なので誰がかっこいいとかその程度だったが、その場にいた他三人の女の子がカカシくんをかっこいいと言っていて、私の番になった時、とても気まずかったような記憶がある。
だから、私はその時カカシくんではなくてガイを応援したのだろう。そんな些細な事でカカシくんがひどく傷ついて、小さな溝ができ、それまで同じだった世界が分断されていったなんて、その頃の私には想像もつかなかった。

この年になるまでに大きな悲しみは段階を踏んで私の心を蝕んできた。一度目は小さな失恋、二度目は身近な人の非業の死、三度目は自分の無力さを思い知らされ、そして最後は父との死別だ。これらがなければ、私はもう少し明るくてまともな性格だったようにも思う。……まぁ、これは責任逃れに過ぎないが。
一度目の失恋は、幼い頃だったせいもあって、自分の力でなんとか乗り越えられていた。誰にでもこういう叶わぬ淡い初恋の思い出はあるだろう。だから失恋だけではそれほど昏い気持ちにはならなかった。
問題はそこから先だった。
もう少し成長して、色んな物事がわかるようになった頃、再び私を悲しみが襲った。サクモさんの自死だった。
私の心へはっきりと翳りを落としたのは、これが人生で初めての事だったかのように思う。

その当時、木ノ葉の里は毎日のように任務絡みで死者が出て、里中がピリついていた。人が死ぬのは当然で、とにかく心を殺して任務を完遂させることが全てだった。娯楽もなく、知らず知らずのうちに蓄積されていくストレスを発散させる事もできない。心が弱い者は、たまに爆発して失踪したり、任務を終えて心身喪失状態に陥る者もいたりと本当に悲惨だった。人々が皆、やり場のない感情を胸の内に溜め込んで、いつ破裂するかわからない自分の心を押さえつけている──そんな世相だった。
当然、あんなに賑わっていた店も、その一時だけは客足も疎らになり、色んな意味で父は頭を抱えていたのをよく覚えている。母も、いつアカデミー生の私たちが任務に駆り出される事になるか不安そうにしていた。

その日は朝からものすごい大雨だった。空からバケツをひっくり返したような雨で、父を手伝おうと店の暖簾をかけに店の軒先に出ると、雨粒の跳ね返りのせいで一瞬にして足元がびしょびしょになった。
こんな日にアカデミーなんて行きたくないなぁ、休みにならないかなぁと思いながら店の中に戻ると、母は顔を真っ青にして胸元を押さえ、ぼーっと佇んでいた。
見たこともない程様子がおかしかったので、「お母さん?」と声をかける。母は胸元に置いていた手をギュッと握りしめて、「……カカシくんのお父さんが、亡くなったの」と無理やり絞り出したような声で言った。弱々しい母の声とは裏腹に、頭を金槌で殴られたような衝撃が走った。
それまで遠い遠い親戚の告別式に出たことがあるくらいで、身近な人の死を体験したことのなかった私には、まだこの段階ではピンときていなかった。
サクモさんは父と仲が良くて、しょっちゅう会っていたから余計だ。それに、ついこの前だってカカシくんと一緒に遊びに来ていた。
信じられないのと同時に、これからカカシくんはどうなるんだろうと、子供心ながらに気がかりだった。
父は静かに泣いていた。茫然と立ち尽くす母の向こうの座敷席に腰掛け、俯き、硬く結んだ拳を両膝の上に置き、肩を震わせてポタポタと涙をこぼしていた。時々苦しそうな息継ぎの音だけが聞こえていて、人は本当に悲しい時、声すら出ないことを知った。
店の中は耳鳴りがするくらい静かで、ザァザァと絶えず雨音だけが響いていた。


その翌日、私達は通夜に呼ばれた。
雨のしとしと降る昏い宵に、闇に溶けてしまいそうな程黒づくめの服で身を包み、人目を気にしながらこそこそとカカシくんの家へと向かった。やたら裏道を通るし、前日の大雨のせいで道はぬかるんでいて、歩いているだけなのに泣きたくなった。半ベソをかきながら、カカシくんは大丈夫かな、とずっと心配だった。

カカシくんの家へは何故か裏口から入っていった。
それから、家の外観もいつも通りだった。お通夜の時は大抵門のあたりに通夜を知らせる看板を出す家が多かったのだが、その日は無かったと記憶している。
当時はわからなかったのだが、全てはカカシくんの親戚側の配慮だったらしい。
サクモさんの自死が任務失敗による周囲からの非難によるものであったことから、親しかった私たちを危険に晒さないためと、事を知った者たちによって騒ぎを起こされないよう、通夜を営んでいる事を知られないようにしていたそうだ。
親から死の理由を聞かせて貰えなかった私は、ただただ不思議で仕方なかったが、今になってみれば本当にカカシくんも、カカシくんの親戚も大変だったろうなぁと思う。その証拠に、喪主として通夜を取り仕切っていた親戚らしきおじさんは、ひどくやつれていた。

カカシくんの家は何度か遊びにいったことがあった。いつも通りの室内なのに、その時だけはやたら呼吸がしづらい感じがした。重苦しくて、薄ら寒い。その場にいた大人は誰一人きちんと前を向いていなくて、皆少しだけ俯いているような気がした。

「この度は……本当に……」
「……いえ、本日はご参列頂きまして本当にありがとうございます」

香典袋を手渡す時に言葉を発した以降、父はほとんど口を開かなかった。おそらく、悼ましい事実を目の当たりにして開けなかったのだと思う。
チラリと表情を見れば、棺の方をじっと見ながら、真一文字に結んだ唇を震わせていた。涙はもう見せなかった。
その姿を見て、私は思わず泣きそうになったが、親戚達の座る一番前の辺りで、静かに姿勢良く座っているカカシくんの後姿を見るとどうしても泣くまいと涙を堪えた。

通夜は随分と小規模で、カカシくんと、数人の親戚と、私たちだけで行われた。これも後から聞いたのだが、本来であれば亡くなった理由が理由で、私たちは呼ばれない筈だったらしい。拒絶ではなく、私たちを巻き込まないために、と。しかし、父がどうしても最期、サクモさんを見送りたいと言って無理やり頼んだらしかった。
誰かもわからない親戚の通夜の際は、もっと人が多くて、花もたくさんあって、賑やかで。その場にいる皆が酒を酌み交わしながら死を悼み、故人との生前の思い出を語らい合い、時にしんみりし、ある時は涙の間に笑顔がぽっと咲くような朗らかな場だった。
しかし、その夜は明らかに違った。
かつて里の英雄であった人物との別れとは思えないほどこぢんまりとして寂しく、その場にいる全員が彼の死を受け入れることが出来ないという顔をしていた。
こんなに哀しくて惨いことがあるのかと、私は小さな胸でやるせなさ感じきった。

通夜の間、カカシくんはずっと顔を上げて、しゃんとしていた。
読経の間は背中しか見えないので、お焼香で前に出た際に横目で彼を盗み見ると、まぶたは泣きはらしたように薄いピンク色に染まっていた。しかし、目の淵は乾いていた。
きっと今にも大声で泣き叫びたい筈なのに、彼は一通りの儀が終わるまで、涙を拭う仕草さえも見せなかった。ただただ、静かに座っていた。
私も、お父さんも、お母さんも、その日のカカシくんには何も声をかけてあげられなかった。いつもうるさいあきらでさえ、この異様な空気感を感じ取ってか、黙ってじいっとカカシくんのお父さんの遺影を見つめていた。

そのあとの通夜振舞いはいただかず、通夜が終わってから父がしばらく祭壇の前でボーッとした後、親族の方の邪魔にならないよう足早に帰った。その頃にはもう雨は上がっていた。
とても空気が冷たくて、空に浮かぶ月の周りに光の輪のようなものが曖昧に光っていた。とても綺麗だったけれど寂しい気がして、歩きながら心の中でカカシくんを思い浮かべた。
散々降った後だったので来た時よりもかえって足元が悪く、私は足の悪い父に寄り添いながら歩いた。

その晩、私はなかなか寝付けなかった。必死に歩いて身体の芯からぐったりと疲れたつもりだった。
目の下あたりまで布団に潜って天井をじっと見つめ、母親も父親もいなくなってしまうなんて大変な事だ、と思った。消灯後の夜の静けさに沈んだ暗闇で、そっと瞼を閉じて考えてみる。想像もつかない悲しみを同い年で心に抱えたカカシくんは、今、どんな気持ちなのだろう。悲しみ、不安、喪失感──どれもしっくりこなかった。そんな陳腐な言葉で表せる程の物じゃないと思った。
私は頭の中で、カカシくんの心が傷つきすぎてすり減って、とても冷えて小さくなっているのをイメージした。瞼の裏のカカシくんは、身体を縮こめ、肩を震わせてずっと泣いていた。彼の涙なんて一度も見たことがないのに、そんな気がした。


ほとんど眠れないまま夜が明けた。
もやもやとしたものを胸に押し込まれて、何をしていても落ち着かない。気が塞ぐので部屋に篭っていたが、そうするのもうんざりする程に神経が昂っていた。
結局、陽が傾き始める頃、私は寝不足でギラリと冴えた目をパチパチさせながら再びカカシくんの家の前まで行った。
すでに色々な事が済んだ後だったらしく、カカシくんの親戚らしき人が数人帰ろうとしていたところだった。
流石に今日は来てはダメだったかと思って帰ろうと踵を返したが、「カカシくんのお友達よね?」と見送りに出ていた二人の親戚の人に呼び止められた。
怒られるのかなぁと思って恐る恐る振り返ると、声をかけてきたらしきおばさんとおじさんは優しい笑顔を浮かべていて、家に上がっていくよう言われた。
きっと、大人達もあまりに不憫なカカシくんの事をどうしていいのかわからなかったんだろう。私が首を縦に振ると、ホッとしたような顔をしていた。

家の中は、もう昨日のような哀しさは流れていなかった。いつもの少し古いけれど落ち着くような、穏やかな空間。居間に通されると、美味しそうな団子と熱いお茶を淹れてくれて、厚くもてなされた。
サクモさんも、たまたま家にいた時はこんな風に私に良くしてくれた。私の父がカカシくんを大切にするように、サクモさんも私を大切にしてくれた。
見慣れた湯呑み、見慣れたお皿。いないのはサクモさんだけで、私はじわりじわりとサクモさんがいなくなってしまったことを実感し始めた。人が死んでも、世界は同じように続いていくことがこんなに悲しいなんて知らなかった。私は鼻がツンとするのを、熱いお茶でなんとか誤魔化した。
それからカカシくんの姿が見えなかったので、お団子を持ってきてくれたおばさんに尋ねる。おばさんは人の良さそうな顔でにっこり微笑むと、「部屋にいるからちょっと待っててね」と彼を呼んで来てくれた。

「……カナちゃん」

現れたカカシくんは顔色が悪くて、目の下に青黒い隈を作っていた。もともと色白なのに、今日は一段と青白い。血管が透けて見えそうな程だった。
フラフラとした足取りで私の右隣に座ると、丁度おばさんがカカシくんの分の団子とお茶を持ってきてくれた。それから、私とカカシくんをみてまたニッコリすると、「おばさん達今から急いで買い物に行ってくるから、少し二人でお留守番しててね」と言って、おじさんと二人で出かけて行った。
バタバタと出て行く二人の背中を見て、カカシくんを連れて行くのも躊躇われるし、一人にもしておけなかったんだろうなぁと思った。
二人きりになると、部屋の中は耳鳴りがしそうなほど静かだった。一定のペースで時を刻む秒針の音と、時折外で鳥が鳴くのが聞こえるくらいであとは何も聞こえない。湯呑みから立ち昇る湯気の音さえ聞こえてきそうなほどだった。
私はとりあえず、無音を凌ぐために「いただきます」と言ってお団子を口に運んだ。美味しいはずなのに、今日はどこか味気ないような気がした。その間、カカシくんはじっと団子を見たまま、いや、どこを見ているのかわからない目で俯いていた。
私は全身を針で突かれるような気まずさを感じていた。目線だけ彼に移して、「……大丈夫……じゃないよね」と声をかけた。
カカシくんは予想に反して、「大丈夫だよ」と答えた。私はびっくりして言葉が出なかった。そして、自分の思慮のなさに閉口した。こういう時、何て声をかけたらいいのかわからず、どうして私はここに来たんだろうとさえ思った。
心配に思っているのに、それをどう伝えたらいいかわからない。どう声をかけてあげたらカカシくんの悲しみが少なくなるのかわからなかった。

「……何か私に出来ることがあったら、教えて欲しいな」

そんなことなんてあるかわからないけど、と心の中で呟きながら私は言った。

「ありがとう」

カカシくんはゆっくり私の方へ顔を上げると、力なく微笑みを浮かべた。目の奥の光は消えていて、空洞みたいに見えた。カカシくんの心はどこかへ行ってしまったように思えて、少しだけ怖くなった。カカシくんがどこかへ消えてしまうんじゃないか不安になった。

「じゃあ、おばさん達が帰ってくるまで一緒にいてよ」

ものすごく単純なお願いに、私は拍子抜けしてしまう。

「……それだけでいいの?」
「うん。あ、オレのお団子もあげるよ。カナちゃん、このお団子好きでしょ」
「いいよ、カカシくんの分なんだからカカシくんが食べなよ」
「オレはあんまりお腹空いてないから」
「食べなきゃダメだよ……」
「食べてるよ」
「嘘、」
「本当だよ」

絶対に嘘だと思った。だって、マスクをしているからこそよくはわからないものの、この二日間でみるみる目の周りが落ち窪んできている。歩くのだって足元が僅かにフラフラしているし、服の袖から覗く両手だってまるで生気が失われている。
それなのにカカシくんは「ちゃんと昼ごはんも食べたよ」と上辺だけの笑みを見せる。

「心配してくれてありがとう」

無力だ。こうして寄り添うことしか出来ない。私は大人じゃないからカカシくんのご飯も作ってあげられないし、結婚していないから一緒に住むこともしてあげられない。話を聞いてあげてもこの悲しい現実がどうにかなるわけでもないし、私は彼じゃないから彼の気持ちを丸ごと理解してあげられるわけでもない。
ただ悲しみの沼にどっぷりと飲み込まれた彼を助けることも出来ず、傍で座っていることしか出来ない。私はキュッと下唇を噛んで、俯いた。
自分の非力さを悔しいと思ったのはこれが初めてだった。

ふと、カカシくんの左手が私の右手に伸びて、繋がれた。夏に手を繋いだ時よりも弱々しくて、瑞々しさが失われていた。

「しばらくこうしててもいいかな」
「……うん」

カカシくんはまた私から視線を移し、虚空を見つめる。
私は二人以外時が止まってしまったかと思うほどしんとはりつめた空間の中で、一生懸命彼の気持ちを想像した。泣きたいのかなぁ、甘えたいのかなぁ──でも、私にはきっとわかってあげられないような気がした。理解出来るなんて思う事は、むしろ失礼になる気がした。
分からない、となると私は喉の奥から急に不安が迫り上がってくる。

「……カカシくん、もしかしておばさん達のところに行っちゃうの?」

しばらくの沈黙が流れた後、私は唐突に口を開いた。
子供一人で生活をするなんてあり得ない。となると、可能性として高いのは、今買い物に行っているおばさん達に引き取られることだ。もう会えなくなるのかなぁと気に掛かって仕方なかった。

「ううん、オレは行かないよ」

視線はそのまま、彼は意外な答えを口にした。

「えっ?!一人で暮らすの?」

私は素っ頓狂な声をあげる。

「うん。そんなにびっくりした?」
「だって……私、一人で暮らしてって言われたら……そんな自信ないから」
「まぁオレの場合、父さんが任務でいなかった時は一人で暮らしてたようなもんだったから」
「そっか……」
「カナちゃんは、オレにおばさんのとこに行って欲しかった?」

普段の彼なら冗談っぽく茶化していいそうなのに、その日の彼は抑揚のない声で、投げやりな印象を受けた。
感情を表に出さないよう無理をしているのは明白だった。そんな彼の横顔が、私の胸へずんと重たく突き刺さった。

「ううん、違うの!もう、会えなくなっちゃったら……寂しいなって」

私は極めて明るい声で取り繕うと、カカシくんは「それはオレも嫌だな」とまた無理やり表情を緩めた。
私は少しホッとしたが、本当にもうそれ以上なんて声をかけたらいいのか分からなかったので、口をつぐんだ。何を言っても彼を傷つけてしまうような気がした。
遠くで楽しそうに笑う子供達の声が聞こえてくる。気づけば引き戸にはめ込まれたガラスから差し込む陽はすっかり飴色になって、部屋の中に濃い印影を落としていた。
たった壁一枚を隔てているだけなのに、外の呑気な子供達とはもう一生分かり合えない気がした。それくらい、死というものは人を孤独にさせた。

「父さんと約束したんだ。オレは誰よりも強い忍になってこの里を守る、って」

突然カカシくんが口を開いた。思い出したというよりは自分に言い聞かせるような語気の強さだった。
昔聞いた時は「父さんみたいな立派な忍に」だった。そこから「父さん」が抜かれた事の大きさを、わからないなりに感じ取っていた。

「……カカシくんはもう十分強いよ、」
「オレはまだまだだよ」

カカシくんは笑っていた。堪えきれず、私は鼻がツンとするのと同時に、胸が握り潰されたように縮こまっていくのがわかった。
ぎゅっと熱が凝縮され、それは喉を伝ってどんどん上へ上がってくる。顔の中心までくると、一気に涙へと変わってぽろぽろ溢れていった。

「どうして笑うの……?悲しくないの?」

これではどちらが慰めに来たのか分かりやしない。情けないなぁと、私は鼻をすすりながら手で涙を拭った。どんなに払ってもすぐに視界は熱くぼやけて、あのいつもの困った顔のカカシくんがゆらゆらと揺れていた。

「……泣いたって、父さんは帰ってこない」

震えそうなのを抑えたような声で、カカシくんは呟いた。
私は余計に悲しくなって、大きな声を上げて泣きたかったが、喉の奥でグッと堪えた。

「悲しんだって、父さんが死んだ事実は変わらない……それに、きっとこの先も、戦いや任務に出たら人が死ぬことなんて日常茶飯事だ。忍の心得第二十五項にもあったでしょ、忍はどのような状況においても──」
「も、う……いいよぉ……」

私は、勢いよく左手を伸ばし、彼の左手をガバッと両手で包み込んだ。
耐えられなかった。悲しみをそうやって、忍の定めと受け止めてしまうカカシくんがあまりにも痛々しくて、彼の言葉を止めようとしてのことだった。
嗚咽が漏れそうなのを、俯き、歯を食いしばってなんとか我慢する。

「カカシくんは、もう充分、強いから……悲しい時は、泣いても、いいんだよ……」

涙のせいで息が熱い。呼吸が苦しい。息継ぎをしながら彼にそう言うと、カカシくんは私の両手をギュッと握り返してくれた。
なんとなく、彼の心が伝わってくるような気がした。

「カナちゃん……ありがとう、」

カカシくんは息を吐きながら掠れた声で呟くと、何度も鼻を啜っていた。




「──ちゃん、おい、姉ちゃん!」
「……え?」

あきらの声で意識が引き戻される。
随分ボーッとしていたらしく、下処理をしていた食材がまな板の上で乾きかけている。手に持っていた包丁は途中で切ることを諦めたのか、人参の輪の真ん中あたりで動きを止めていた。
あきらは厨房ではなく電話台のところに立っていた。心ここにあらずな私をじろりと見て、彼は小さく溜息をつく。

「今日、こんな天気だし弁当の配達なしだってさ。客も来ないだろうから、臨時休業にしちゃう?」
「……あ、……そうだね……」

いつの間に電話がかかってきたのだろうか。
それすらもわからないくらい考え込んでしまっていた自分が恥ずかしくなる。
狼狽えながら今の状況を確認しようと辺りを見回す。すると、あきらが厨房へ入り、水道で丁寧に手を洗い、「ちょっとそこいい?」と声をかけて私の前へやってきた。

「姉ちゃん体調悪そうだしさ、もう今日は休んでていいよ。明日の仕込みくらいなら後はオレがゆっくりやっとくから」
「そんな、大丈夫だって」
「いいって!こんな日くらい休んでよ」

こんな日──そう言ったあきらの目の奥は、わずかに悲しみの色が混じっているような気がした。
今日は休業するなら、あきらに任せてしまえばいいか。明日の開店前には母も帰ってくると言っていた。

「……ごめん、」
「この店の跡継ぎはオレなんだからさ!気にすんなって!」
「あー!感謝してたのに。本っ当一言余計なんだから」

弟のいつもの調子づいた様子が今日はありがたい。
私とあきらは二人で顔を見合わせ、ふふ、と笑い合う。
自分の心模様を察して、それに寄り添ってくれる人のいることがどれだけ幸せなことか。こういう時、そのさり気ない優しさが心になによりも深く染み入る。
私は遠い記憶の中の自分が、果たしてそれを実現できていただろうかとぼんやり想った。

「早く雨、あがんねーかなぁ」

あきらは濡れ止まない窓の向こうを見つめ、退屈そうに独り言ちる。
遠くの方で閃光が空を裂いた。しばらくして地を割るような轟音が鳴り響き、屋根を撃つ雨音は激しさを増していく。


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