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後悔の日々が始まってから早くも三週間が経とうとしていた。
目が痛いくらいに真っ青だった夏の空は、時折湿度の低いカラッとした秋の気色を見せることもあった。遠い遥か向こうにもくもくと高くそびえ立つ入道雲も、姿を見せる回数が減っていた。あれだけうるさかった蝉の鳴き声は、店の中で作業をしていれば気にならない程だ。

季節が次に進もうとしているのに、私は未だに気持ちを切り替えられないでいた。それは、カカシくんを傷つけてしまった後悔と、二十年近く温めて続けてきた初恋を、心の準備もなく手放してしまった悔恨の念のせいだろう。いつだって私は自分の気持ちを前に進めるのが下手くそだ。

「あ、みやび、そっちの片付け終わったら、調味料補充しといてもらえない?」
「うん、わかった」

慌ただしい昼飯時を乗り越え、店は静閑のひとときを迎える。
あきらが順調に店の仕事に慣れてきたので、最近はみやびちゃんも本格的に店を手伝うようになった。
今日は雑務をお願いしている合間に、ランチメニューにつけるプチデザートの試作をしているようだった。店内には優しい甘い匂いが充満していた。
母には暫し夏休みという形で店を休んでもらい、私が二人の指導係とアルバイトの子たちを取りまとめ、店を回している。
若い二人がてきぱきと働く姿は見ていて気持ちがよく、店の常連からもよく褒められていた。二人は褒められるたびに謙遜しつつも有難がって、客から見えないところで嬉しそうに私に報告してくれた。それが私にはたまらなく嬉しくて、彼等と同じようにたいそう喜んだ。

そして、その度に思い知らされる。私はもう前に進まなければならない。この場を自ら離れなければならないのだ、と。
あきらはこうして自ら伴侶を選び、新しい道を切り開いている。彼はいつだって過去の悲しみや薄昏さを感じさせない。お気楽な性格もあるとは思うが、意識して隠している様子もなく、自然体だ。

「あれ……?」

突然、きびきび動いていたみやびちゃんが止まった。不思議そうな声だった。
見ると、彼女は厨房から出て右手の方にある窓を呆然と眺めている。

「どうした、みやび」
「なんだかゴーゴー音がしてると思ったら、雨が……」
「え?」

私はびっくりして仕込みをする手を止め、厨房から客席へと出た。
しっかりと窓枠にはめ込まれた少し大きめのガラスからは、確かに白い光が真っ直ぐに差し込んでいる。上部には僅かに、青空も覗いている。しかし、ガラスの向こう側にはキラキラとした無数の雨粒が輝いていた。眺めていると、次第に小さな水の粒同士が引き合うようにくっついて、大きな水滴になる。やがて重力に耐えきれず、ゆっくりと流れ落ちていった。
窓に近づいて空を見上げると、文字通りお天気な空が広がっている。もくもくとした真っ白な真綿のような雲と、一切混じり気のない澄み渡った青い空が眩しいくらいだ。

「わー、凄い!お天気雨!」
「え、まじ?こんな晴れてんのに?!」

まごうことなき晴天なのだが、絶えず雨粒はガラスを優しく打ち続ける。室内はいつのまに屋根にぶつかるくぐもった雨音に包み込まれていた。

「すっげぇ、めちゃくちゃ土砂降りじゃん!」
「通り雨かなぁ」
「今朝、瓦版で見た天気予報は一日晴れみたいでしたけど……」
「まぁこういう時もあるよね。すぐ止めばいいんだけど」

雨が降れば、当然外出する人が減って客足がまばらになる。今日は天気も良かったから、いつも通り仕込みを始めてしまっている。店にとっては突然の雨は痛手だ。
私はしばらくその場から不可思議な空模様を見上げていると、そおっと入口の戸が開く音がした。
まさかこんな天気でお客さんなんて──そう思いながら店の入り口へ視線を移し、じっと僅かな戸の隙間の向こうを見つめた。

「ごめんください……今、準備中かしら?」
「紅!」

様子を伺うように扉の向こうからから顔を覗かせたのは、元同期の紅だった。しばらく会っていなかった。久しぶりに来てくれたことが嬉しくて、私は「いらっしゃい!」と笑顔で彼女を迎え入れた。

「急に降られちゃって……ちょっと雨宿りさせてもらえないかな」
「もちろん!今タオル持ってくるからちょっと待ってて!」
「ごめんね。ありがとう」

私はプールから上がってきてそのままみたいにびしょ濡れな紅からくるりと背を向けると、店と繋がる家の中へと駆けた。


紅とはアカデミーの頃から親友と呼ぶには少し距離があり、ただの友達と呼ぶには心を打ち明け過ぎている関係だった。
普段は遊んだり、蜜に連絡を取りあったりする間柄ではないのに、私は思い悩んだときやクヨクヨした時、彼女によく話を聞いてもらっていた。
一つ上で安心感があったからという点と、落ち着いた彼女の雰囲気、それからあまり距離が近すぎない方が話しやすかったというのもあるだろう。中忍になってからは、特によく二人で話をした。
まぁ、カカシくんのことはついぞ打ち明けなかったが。

主に相談するのは私だったけれど、くノ一同士、戦場に出た時に先頭に立って仲間を守ることのできない歯痒さや、次々と失われていく仲間の命をどうにもできない虚しさを互いに漏らしていた。
話すことでやりきれない思いを発散して、腐らず、また前を向けるよう心を整えていた。たまに紅のアスマとのくすぐったいような恋の話を聞いて、年頃らしく盛り上がることもあった。いずれも、辛い時世を忍としてなんとか生き抜く同世代の女の子だった。
紅はどうだったかはわからないが、あの頃の私はお互いの弱いところをよくわかって、共感することで小さな救いとしていたような気がする。

それは私が忍を辞めても、大人になっても緩やかに続いた。
一般人になってからしばらくして、あれだけあった戦も落ち着いた頃、私には再び人を好きなれるような余裕が少しずつ生まれていた。
店を手伝いながらいろんな人と出会って、関わって、ぼろぼろになった心が少しずつゆるんでいき、そのうちに自分を好きと言ってくれる人が現れ、彼氏だって出来た。
自然と話の種は互いの恋の話が中心になって、私が彼氏と別れた時も、その心の傷が癒えてようやく新たな小さな恋の始まりに気付いた時も、紅は私の心に寄り添うように耳を傾けてくれた。
そうしていくうちに、外から見た私はすっかり過去の傷なんて埋められた普通の女の子になっていった。
確か、一番最後は数ヶ月前に彼氏と別れたことを聞いてもらってそれきりだったと思う。

「ありがとう、本当に助かったわ」

紅はびっしょり濡れた身体を、私が渡したバスタオルでくまなく拭きとりながら言った。
私は彼女を店から居間へとあげ、羽織るものと温かいお茶を用意した。彼女の衣服は普通の服ではなく忍具だから、そこまで体温は下がらないらしいが、大切な友人が風邪をひいては困る。

「ううん。あんなお天気じゃあ降るなんて思わないもんね」
「本当、こんなに綺麗に晴れてるのにね」

私と彼女は、畳敷の居間のちゃぶ台前で横並びに座り、明るい窓の外を眺める。たっぷりと日差しが注いでいて、ちょっぴり室内より明るい気がした。

「ねぇ、そう言えばさっきお店にいた子が例のお嫁さん?」

紅は二人しかいない空間で、声をひそめていたずらっぽく言った。好奇心に目がキラキラとしている。
彼女はまだ見たことがなかったかと思いながら、「そう、とってもいい子よ」と笑顔で答えた。
紅は「かわいい子ね」と微笑み返した。

「カナのところはお母さんもいい人だし、羨ましいわね」
「どうかなぁ。自分の親だからわからないけど、仲良くやって欲しいよね、小姑としては」

「小姑」と言うなり、紅は「私達も随分と大人になったものね」とクスリと笑った。

「アカデミーで修行してた頃が懐かしいわ。あきらはまだ赤ん坊で、カナの真似ばっかりしてた。大人になってもお姉ちゃんと同じように店を継ごうとするなんて」
「身体はデカくなっても、弟は弟よ。私の中ではずっとあの頃のかわいい坊やの感覚」
「まぁ、そんなもんよね」

紅は笑いながら青磁の湯呑みに口をつける。

「素敵なお嫁さんまで連れてきてくれて、店まで継ぐなんて本当に親孝行の弟よ。私も心の底から安心した」
「じゃあ、そろそろカナも自分のやりたい事に専念できるのね」

彼女の言葉がぐさりと胸に刺さった。
私のやりたい事ってなんだろう──考えてもまだピンと来なかった。
私は、忍を諦めてから自分のしたい事なんてほとんど考えることもしなかった。辛い現実から目を背けるのに精一杯で、毎日他の人と同じようになんの悲しみもなさそうな顔をして生きることに取り憑かれていた。
この店は私の悲しみの隠れ蓑で、それがなくなったら私は何をしたいのだろうか。考えあぐねて、私は返事を躊躇った。
紅はそんな私のことなど気づかずに続ける。

「この前街で見かけた時は元気なさそうだったから、ちょっと安心したなぁ」
「……え?」
「同期で飲んだ帰りに、ちょうど大通りの焼き鳥屋さんから出てくるカナを見かけたの。友達といたみたいだったから声かけなかったんだけどね」

同期、ということはカカシくんもいたのだろうか。
焼き鳥屋に行ったのは、確か花火大会に行った日からちょうど一週くらい経った頃だったから、声をかけてもらわなくてよかったと思った。
かえってその場に居合わせてしまっていたら、気まずかっただろう。

「あぁ、そうだったんだ。全然気にしないで」

私は努めて爽やかに言った。それは、もうこの時の話を掘り下げないでもらいたいと牽制の意味も込めてだった。
すると、紅の表情が突然曇る。

「……ねぇ、久しぶりに顔合わせてこんなこと聞くのもなんだけど、カカシとなんかあったの?」

私の遠回しすぎる牽制は、彼女には届かなかった。これは愚策だったと気持ちを切り替えて、私は「なんで?」と明るく尋ね返し、しらを切れそうか様子を伺う。本当は嘘でも否定したかったが、そうすることでかえってややこしくなっては困ると思った。

「ちょっと前に、大きな花火大会があったじゃない?あの日、カナとカカシが二人でいるところを見ちゃったの」
「あぁ……」
「その時は茶々を入れるのもどうかと思って黙ってたんだけど、カカシもなんだか最近元気ないみたいだったから何かあったのかと思って」
「随分といろんなところで目撃されちゃって、なんか恥ずかしいなぁ」

私は首のあたりから徐々に熱っぽくなっていくのがわかった。

「ほら、任務じゃない時のカカシって、人混みだとちょっとだけ目立つじゃない」

言われて、少しだけ頭の中で人混みにいるカカシくんの姿を思い出してみる。記憶の中の彼はいつでも目立っていた。
好きな人という存在はいつでもどこでもキラキラ輝いて見えるものだ。
私は「そうね」とだけ返事をして、意味もなく手櫛で髪の毛を整えた。

「でしょ。本当にたまたまなのよ」
「カカシくん、なんか言ってた?」
「秘密主義だからねぇ。どうせ言わないと思って聞いてないよ」
「そっか……」

カカシくんをやっぱり傷つけてしまったんだろうか──
誰にもこぼすことが出来ず、胸の中でじわりじわりと膨らんでいた負の感情が、みぞおちのあたりで弾ける音がした。勿論それは紅には聴こえるはずもなかったが、その直後、とても心配そうな眼差しで私を見つめていた。私はそれが、衝動的に聖母のように感じられ、全てを話したいと思ってしまった。
もしかすると幻術の一種だったかもしれない──いやそんなわけはないか、と打ち消して自分自身に呆れた。
それでも、そんなことはどうでもいいと思えてしまうくらいに誰かにこの行き場のない感情を打ち明けてしまいたかった。
誰かに話したって、カカシくんの傷が癒えるわけでも、自分がしたことが赦されるわけでもないのに、彼女に話したら楽になれる気がしていた。

「……実はあの日、カカシくんに好きだって言われたの」

私は苦しくてパンパンになった胸から、負の感情の塊を吐き出すような気持ちで呟いた。先程までお茶を濁そうと思っていた気持ちは、鉛のように重たい鈍色の塊に押し潰されてしまった。

「そう。それはよかったじゃない」
「えっ、驚かないの?」

予想外の彼女の反応に、私の声は居間の壁に跳ね返ってよく響いた。思わず店の方まで聞こえていないか、後ろを振り返ってしまう。
厨房の方からはみやびちゃんが洗い物をする音と、あきらが食材の下処理をする小気味良い包丁の音が聞こえていた。聞こえているわけがないか、と私は再び紅へ視線を戻す。

「驚かないわよ。なんとなくわかってたし」
「そう……なの?」

すっかりバレていたらしく、紅は可笑しさを堪えるように私を見つめていた。私の頬は一気に火照りを増していく。

「だって、カナもカカシも、他の子と接する時と雰囲気違うんだもの。カナはカカシを目で追ってるし、カカシはカカシでカナをたまに目で追ってるし。それに、今はナチュラルに呼んでるけど、昔は「カカシくん」なんて普段呼ばないのに呼んでたりしたから」
「そうだったっけ……」
「うちの下忍たちにもいるわ。好きな男の子だけくん付けで呼ぶ女の子」

かわいいわよねぇ、と微笑ましそうに紅が言う。私は恥ずかしさのあまり肯定も否定もできなかった。

「でも、初恋の人にいまも想ってもらえてるなんて素敵じゃない。まぁ最近じゃ昔の生真面目さなんてみる影もないくらい飄々としてるけど、悪くないと思うわよ」
「そうなんだけどさ、私……きっとカカシくんを傷つけるようなことしちゃって」
「傷つける?もしかして、振ったの?」
「そういうつもりはなかったんだけど……結果としてはそんな感じかなぁ」
「どうせカカシがふざけて余計なことでも言ったんでしょ。気にしなくて大丈夫よ、きっと」
「いや、そうじゃないんだけどね……」

私はカカシくんと再会してから後悔だらけの日々を迎えるまでのことを事細かに話した。
花火大会に誘われて、とても気まずくて、断りたくて、でもそれが出来なかったこと。カカシくんを見ていると、どうしてだか哀しい気持ちになってしまうこと。自分が随分とちっぽけで、虚しい存在に思えてしまうこと。そして、やっぱり心のどこかで彼を好きだと言う気持ちがあって、それを捨てきれなかったことも。
紅に話していくうちに、不思議と自分の胸から形もなく溢れ出た感情達が、一つずつ気持ちの結晶のように形を成していき、胸の内にすっと収まっていくような心地がした。
熱くなっていた首筋も、いつの間にか平熱に戻っていた。

「どうりでカナもカカシも元気が無いわけね」

一通り話を聞き終えた紅は渋い顔をしていた。まるでベテラン情報部員のようだった。

「冷静に考えたら、励まそうとしてくれてたってわかるんだけど、その時は頭をスルーして心と口が直結しちゃったみたいになっちゃって。本当めんどくさい女だなぁって今は自己嫌悪だよ」
「まぁ、そういう時もあるわよ」
「あって欲しくなかったんだけどねぇ。自業自得なんだけど……」

腹の底から深いため息をつく。
覆水盆に返らず。言ってしまった言葉はもうかえってこない。そして、私の前から去っていったカカシくんとももう会えない。
そんなことを考えると再び濁りきったため息が出て、そのまま猫背になって項垂れた。

「そんなに落ち込まないでよ」
「ごめんね。悲劇のヒロインぶりたいわけじゃないんだけど、どうしても自分の中で消化しきれなくて」
「そういう時は気が済むまで凹んだ方がスッキリするわよ」
「そうかなぁ」
「だって、気持ちを切り替えてって言われても無理でしょ?」
「……まぁ、」
「だったらもうしっかり凹みきる。それで、さっさと立ち直る。それに尽きるわ」

紅はさっぱりとした口調で言い切って、再び湯呑みのお茶を口にした。
彼女のいう通りに実行できたらなぁと思った。現実はそうもうまくいかない。けれど、そうしなければ自分の心も体もどんどん弱っていくのもわかっている。

でもね、と飲み口についたリップを指で拭いながら彼女は再び口を開く。

「私はカナからしか話を聞いてないからなんとも言えないけど、カカシはカナが酷いことを言ったから避けてるってわけでも無いんじゃない」
「えぇ?そんなことある?」
「まぁ、確かにカカシはカナの言葉で傷ついたかもしれないよ。でも、カカシはカカシでカナを傷つけたと思ってるんじゃない?それでしばらくカナに合わせる顔ない、って引っ込んでるとか」
「いくらなんでもそれは優しすぎじゃない?」
「そう?昔から結構繊細だったからあり得ると思うけど」

言われて、たしかに彼は人一倍周囲に敏感だった様に思う。その上で、気づいていても気づいていないフリをしたり、うまく受け流したり、時には正面から受けて立ったりとうまく立ち回っていた。
それだけ、色んなことを気にしていたのだから、紅の言っていることも一理ある。

「その日のカカシはきっと、好きな女の子とデートできて、お酒も入って浮かれちゃったのよ。本当は力になりたかったんじゃないかな。カナを励ましてあげたいって。結果、それが空回りしちゃったんじゃないかしら」
「自分で言うのも変だけど……わからなくもない……かも」
「思い切ってカナから会いに行ってみたら?まだ好きなんでしょ?」
「うーん……まだ勇気がないかも、」
「すぐにとは言わないけどね。そのうちね」

最近の彼をよく知っている紅が言うのだから、過去の彼ばかりの私が想像するよりもよっぽど正解に近いのかもしれない。けれど、もう私のことなんてあの一件で冷めている可能性だって充分にある。
それを無視して、彼が私に対して申し訳なさを感じているなどと仮定するのは、随分と自惚れていて傲慢な考え方に思えた。

「それと、余計なお世話かもしれないけど、医療忍者、もう一度目指してみたら?今は戦うことだけが任務じゃないから、忍の家系じゃなくても忍を目指してる人もいるし。ブランクはあっても、少し動けば勘も取り戻せるかもよ」
「やっぱりそういう人、いるんだ」
「いるいる。結婚して一回辞めたけど戻ってくる人もいるし。まぁ大変みたいだけどね」

カカシくんの言うことはどうやら本当だったらしい。あの時、彼の言葉を拒絶してしまったことがひたすらに悔やまれた。
紅の話をこうして聞いている今も、あの時の苦い味が口の中へじわりと蘇ってくる。

「ついつい引け目を感じちゃうかもしれないけど、カナが思ってるより、みんなが皆、心も身体も強いわけじゃない。同じ人間よ。それにあの時は事情が事情だった。最初は踏み出すのが怖いかもしれないけれど、新しい場所に連れていってくれるのは他人じゃなくて自分だけよ。人生まだまだこの先長いんだから、試しに色々やってみるのもいいんじゃない?」

帰する所、全部カカシくんの言う通りなのかもしれない。多分、私のことをそんなに注目する人もいなければ、わざわざ傷つくようなことを言ってくる人も少ないだろう。それはあくまで世間の常識からは逸脱した考え方の人間がすることであって、私が忍の道を投げ出したからとか、悲しい現実から目を背けるために日々をこなしていることなんて普通の人からしたら批判する材料にもならないのだな、と改めて実感させられた。
カカシくんの横にいたら比較されてしまうと思うのも、きっとただの自意識過剰なのだろう。
酷いことを言いたがる人間はどこの世界でもいるものだし、そういう人達はどうしたって変わらないから、自分でうまく策を考えてかわしていくしかない。かわせなければ自分がより深く傷つくだけだ。

私は傷つくのをひどく恐れて、目の前のぬるま湯にずっと浸っていた。なんの刺激もない、なんの変化もない、そばに家族がいてくれる限り永遠に変わることのない平和な世界。
ただし、その永遠も実際は永遠ではないが。

母もまだまだ元気だけれど、年々目尻には皺が深く刻まれていき、ふっくらとして艶のあった手は少しずつ節くれ立ってきている。
弟は新しい家族を見つけ、いずれ新たな命を授かるだろう。
このままこの和やかで千篇一律な毎日は続かないし、居座ろうとすればいずれ私は一人ぼっちになってしまう。
私は本当にそれが良いのだろうか。私が心の底から望んでいるのは、そんな寂しい未来なのだろうか。

「あ、今また後ろ向きなこと考えてるでしょ」
「多少ね」

私はちゃぶ台の上に左手で頬杖ついて、わざと明るく返した。図星だった。

例え私が自分の殻を破ろうと一歩を踏み出したとして、カカシくんはどう思うのだろう、と想像した。
彼も同じことを言ったのに、紅が言ったから素直に言うことを聞いた、と思ったらさらに傷ついてしまうのではないだろうか。また私の心には翳りがさした。
そんな私の心模様を紅はいとも簡単に読み取って、優しく微笑む。

「また医療忍者を目指すかどうかを決めるのはあくまでカナ自身よ。私とカカシに同じことを言われたのに、カカシの時には反発して、私の時は受け入れるなんて……なんて変な罪悪感は持たないでね」
「バレた?」
「相変わらず顔に出やすいのね」

紅はクスクスと笑っていた。

「カカシもさ、本当はカナに会いたいと思ってるんじゃない?」
「えぇ?」

私は頬杖をついたまま、右眉をくいっと上げる。

「同期飲みの帰りにカナを見かけた時も、アイツったら飲んでる間はいやに萎れてたのに、カナを見つけた途端ちょっと元気になってたし」
「カカシくんもいたんだ」
「うん、珍しく人数が多く集まってみんないたのよ。アスマが最初に気がついて私に教えてくれて、その時カカシも私の隣にいてね。じーっと見た後少しテンション上がってたわよ」
「カカシくんがテンション上がるなんて、なんか信じられないな」
「ね、嘘みたいでしょ。でも本当なのよ。急に声のトーンがちょっと明るくなって、アスマもびっくりしてた」

想像してちょっとだけ可笑しくなって、頬杖をついていた手のひらをそのまま口元へやった。
カカシくんが私の姿を見つけて喜んでくれるなんて、とても信じがたかったが少しだけ罪の意識が和らいだ。
勿論、すぐに会いに行くなんて決心がついたわけではないけれど。

「あの、」

突然背後から声がした。この声はみやびちゃんだ。

「お話中ごめんなさい。ケーキを焼いたんですけど、お二人ともよかったらいかがですか?」
「さっき焼いてたやつだ!食べたい!」
「あら、私もいいの?」
「もちろんです!いまランチメニューのプチデザートを考えているので、よかったら感想もいただけると嬉しいです!」
「随分と仕事熱心なお嫁さんね」
「いえいえ、そんな」

先程からみやびちゃんがせっせと作っていたケーキが焼けたらしい。
そういえば紅を紹介するのを忘れていたと、みやびちゃんにささっと私の古くからの友人であることを伝えると二人とも丁寧に頭を下げて微笑みあっていた。大切な人同士が知り合いになるのはとても素敵なことだと思った。
みやびちゃんは「それじゃあ持ってきますね」と嬉しそうに言うと、軽やかな足取りで厨房へ戻っていった。きっと、この仕事にやりがいなり楽しさなりを見つけてくれたのだろうか。素直に羨ましいと思った。


どうぞ、と机に置かれたのは生クリームが乗せられたシフォンケーキだった。クリームもスポンジもキメが細かくて、丁寧に泡立てて焼かれているのがわかる。生地の断面は綺麗なクリーム色をしていて、たっぷりと卵が使われているようでとても美味しそうだ。
紅も「わぁ、とても美味しそうね!」と驚いていた。みやびちゃんは「お口に合うといいのですが」とはにかんだ。
私はそんな二人を横目に抜け駆けするように「いただきます」をして、ケーキをフォークでそっと丁寧に切り取り、口に運ぶ。

「うん、とっても美味しい!」
「本当ですか?ありがとうございます!」

ワンテンポ遅れて食べ始めた紅も、口に入れた瞬間笑顔になる。

「本当に美味しいわ!ランチだけじゃなくて、ティータイムメニューでも良いんじゃないかしら」
「ええっ?!本当ですか?」

みやびちゃんは満面の笑みでそう言って、持っていたトレーで口元を隠した。目元が三日月のように綺麗に山なりになっている。

「本当に美味しいよ!これ、お店で出したいから、後で材料費と調理時間教えてくれる?」
「はい!」
「カナ、ケーキを食べてすぐに「材料費」って言葉が出てくるなんてさすがね」
「あはは、それが仕事ですから」

美味しいものを食べると心が豊かになる。店の話となるとお金のことも頭に浮かぶが、美味しいものを食べたり、どうしたら美味しいものを作れるかを考えている間は悲しみが薄れていくような気がしていた。そういうこともあって、この仕事は好きかどうかはわからなくても、よそ見をする暇もないくらい没頭できるから自分には向いていると思っていた。とりあえず忙しく動いている間は何も余計なことを考えずにすむから。

けれど、もう私は提供する側でなくても良いのだと改めて確信した。
単純にこの店を愛し、みやびちゃんのように人に喜んでもらうことに喜びを感じる人こそきっと、この仕事は天職だ。
料理は、自分の感情を圧し殺すために作るものではない。遅かれ早かれ、やはり私はこの店を離れるべきだ──

そんなことを考えながらボーッと窓の外へ視線をやると、窓ガラスの雨粒が流れずに留まっていることに気づいた。
外の光を受けて、無数の水滴がダイヤモンドをちりばめたように輝いている。雨が上がったらしかった。
私は口の中でしゅわしゅわと溶けていく幸せを味わいながら向こうへじっと目を凝らすと、うっすらと虹がかかっているのを見つけた。


***


「しののめさん、次は女性フロア回るのでついてきてください」
「はい」

あれからしばらくして、秋がやってきた。まだ暑い日があったり、冬がもう訪れたのかと思うくらい気温の低い日が交互に繰り返され、慣れない環境に身を置く私は少しばかり疲労を感じていた。

結局私は、木ノ葉病院で研修生として白衣を身に纏うこととなった。もちろん、中忍時代に取得した低級の医療忍術資格しか持っていないので大した医療行為は出来ないのだが、もう一度基礎から学ばせてもらうために、アシスタントとして現場へ入れてもらえることになったのだった。
自分でも情けないと思う。
励ましてくれようとした彼の気持ちを信じてあげれなくて、結局紅の言葉が背中を押してくれたのだから。彼に合わせる顔がこれで本当に無くなってしまった。一方で、もう過去に引きずられないように退路を絶てたという点ではこれで良かったとも感じていた。

現場に入る前の研修で一度、医療忍術を先輩に見てもらったところ、なかなかに褒めてもらえた。諦めきれない弱い心もあって、密かに独学で学び続けていた甲斐があったと、少しだけ努力が報われた気がした。母もそこそこ腕のいい医療忍者だったから、適正というものもあるのだろう。木ノ葉病院には母の事を知っている人も何人かいて、親しみを持って接してくれる人もいた。

新しい世界は私が心の中で思い描いていたより何倍も温かかった。
忙しいなりに様々なことを教えてもらえたし、何よりも仲間としてすぐに私を受け入れてくれた。それから関わる人が皆、大切な人を失う痛みをよく知っていた。
長年の呪いがやっと解かれた──嬉しいと言うよりは、そんな気持ちだった。
次の上級に値する医療忍術検定は必ず受験し、合格するよう上司から指導された。まだ関わりのない先輩達からも、早く現場で一緒に働こうと声をかけてもらえることもすごく嬉しかった。

「お先に失礼します、お疲れ様でした」
「お疲れさまー。あ、そうだ、師長が差し入れくれて休憩室にあるって言ってたからカナちゃんも貰って帰りな」
「ありがとうございます!」

ある日の帰り際、他愛もないことで指導員の先輩に声をかけられ、ナースステーションの真ん中でふと足をとめた。
いつものなんでもない日常風景。まだここへきて1ヶ月も経っていないが、大分馴染めてきた。「職場に先輩がいる」というのは店でずっと働いてきた私としてはすごく新鮮で、また小さな喜びでもあった。
中忍をやめて以降、家族やアルバイトの子達としか仕事をしていなかったから、人間関係も随分と広がった。そして、いかに自分の視野が狭まっていたかを気付かされた。
今までは卑屈になっていたせいでどうにもならなかっただけで、本当に自分が叶えたいことがあるのなら、どんなスタート地点からでも進んでいけるものなのだなと感慨深い気持ちになった。

指導員の先輩にもう一度挨拶をして軽く頭を下げると、目の前のデスクの上に日勤者からの申し送りが置かれているのが視界に入った。午後のラウンドの申し送りかなぁ──そんなことが頭に過った瞬間、私の目は一つの名前をはっきりと捉えた。

──はたけカカシ

まさか、この病院に入院しているのか。

名前の隣には「203号室」と書かれてある。
突然のことに気が動転し、申し送りの内容は目が文字の上を滑るだけで全く頭に入ってこない。けれど、彼がここへ入院していることだけは理解できた。

周囲に動揺しているのがバレないよう私はサッと顔を上げると、無理やり表情筋を持ち上げ、笑顔でナースステーションを去る。
本来であれば休憩室に寄ってから更衣室に向かうところを、私の足は自然と203号室へと向かっていた。
誰かに見られていないか、辺りを注意深く見回しながら、静かに白く清潔な廊下を進んでいった。


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