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久しぶりに訪れた公園は随分と寂しげだった。
公園の周囲に見えない壁を一枚隔てているかのように周囲の音を隔絶し、そこだけまるで別の世界だった。
鈴を転がすような虫の鳴き声以外には、私達の足音だけがやたらとはっきりと聞こえるだけだ。目の前の道をまっすぐ行った通りの方から聞こえて来る賑やかな雑音は随分と遠くに感じられた。

「この公園も随分と寂れたなぁ」

感慨に浸るように、私の前方に立ったカカシくんが言った。
暗闇の中で街灯に照らされ、ぽっかり浮かび上がる公園内は、あらゆるところから過ぎた歳月の長さを私達に知らしめた。
舗装されていない隙間を埋め尽くすように緑が生茂り、あの頃木材の表面にハリのあったベンチは枯れ木のように白茶け、無数の傷が刻まれている。あれだけつやつやだった遊具の表面も、すっかりガビガビになってところどころ錆ついていた。
カカシくんは躊躇なく園内のベンチを見て回ると、一番状態のまともなベンチの座面をささっとハンカチで払って私を手招いた。
私は無言で彼の元へ歩み寄る。

「人混みで歩き疲れたろ。少し座ろう」

先にカカシくんがベンチに浅く腰掛ける。私はそこへ一人分くらいの間隔をあけて腰を下ろした。
座るなり、カカシくんは手に下げていた袋からジュースの缶を取り出し、ぐいぐいあおる。バテていたのはそっちじゃないの、とツッコミたくなるが、生憎私も暑さと色んなことのせいでクラクラしていたので、彼と同じように自分の袋からジュースを取り出して喉を潤した。

時折生温い風を身に受けながら一息つくと、カカシくんが往時を偲ぶように語り始めた。

「カナちゃんと公園に来るなんて何年ぶりだろうねぇ」
「もう二十年くらいじゃない?」
「へー、そんなに経つ?そりゃオレもおじさんになるわけだ」
「じゃあ私はおばさんになるけど」
「いやいや、カナちゃんはまだまだおねぇさんだよ」
「誤魔化したわね」
「やだなぁ、そんなことないって」

お互い同じように年齢を重ねられた事に、二人とも笑みがこぼれた。

「そう言えばまだオレがアカデミーにいた秋頃だったかな。その日は用事があって急いでたのに、帰り道、ずっとガイが絡んできてさ。巻こうと思ってこの公園に駆け込んだら、カナちゃんと女の子達がいてね」

そんなことがあったかなぁ。公園と夜空の間をぼんやり見つめ、記憶を引っ張り出そうと眉頭をきゅっと寄せる。しかし、思い出せない。
彼は続けた。

「あんまりガイがしつこくて食い下がらないから、女の子達に審判を頼んで忍組手を一戦交えたんだ。そしたら、他の女の子三人はオレを応援してくれてたのに、カナときたら一人だけガイを応援してたんだよねぇ」
「……そんなことあったっけ?」

私は首を傾げ、彼を見た。
カカシくんは「あぁ」と呟いて、両肘を膝の上に乗せ、少し前屈みの体勢で目を細めながら向こうを見ていた。口元のマスクには少しシワが寄っている。彼の頭の中で、幼い頃の映像でも流れていそうな雰囲気だった。
懐かしさを共有したいがために、私もどうにか思い出そうとするが、記憶の引き出しの中には該当するものが見つからない。私はもやもやとした気持ちをジュースで喉の奥へと流し込んだ。
同時に、少しずつ心も穏やかさを取り戻し、私の頭の中はここへ来た時よりも幾分かクリアになっていた。
ふと、あまりの私のリアクションの薄さに気付いたカカシくんが我にかえったような顔で私を見る。

「まさか、覚えてないの?」
「うーん……」

私は唇をへの字に曲げながら、笑って誤魔化した。

「えぇ?本当に?」
「覚えてるような、覚えてないような……」
「まぁ無理ないか、オレもカナちゃんも小さかったしなぁ」
「ごめん、」
「別に謝ることじゃないさ」

カカシくんは缶のジュースを飲み干すと、その場からゴミ箱に向かって缶をひょいと投げ入れた。缶は綺麗に放物線を描いて、ゴミ箱ど真ん中へと吸い込まれるようにホールインした。思わず私の唇から「お〜」と感嘆の声がもれる。
カカシくんは自慢げに親指を立て、少しだけ笑った。それから脚を組み、右肘を背もたれに乗せ、空を仰ぐようにしてベンチへもたれかかった。

「その後さ、なんでオレを応援してくれないんだー、って一人でいじけてしばらくカナちゃんと遊ばなくなったんだ」

急に、彼の声のトーンが下がる。本能的に、なんだか嫌な予感がするのを感じ取った。
私は若干の気まずさを覚え、もうほとんど残っていないジュースの缶に口をつけ、静かに彼の言葉に耳を傾ける。

「そしたらさ、それまでしょっちゅう顔付き合わせてたのに、話しかけるのも難しいような気がして。今日は行こうか、でも修行があるとか教室で話してたような気もするし、明日にしようか、いやでも明日は……なんてもたもたしてるうちにオレはアカデミーを卒業することになって、本当に会うチャンスが無くなった」

アカデミー卒業の少し前ならば、この思い出話はあの花火大会の日の後ということになる。
とすれば、カカシくんは私と両想いだと分かっていたからこそいじけていたということだろうか。その頃にそんな風に嫉妬されていただなんて知らなかった。やっぱり彼は当時から心もずっと私より大人びていたのだと思い知らさせる。

「ずっと後悔してたんだ」

少しだけ彼の顔がこちらへ傾き、一瞬目と目が合う。街灯の光が映り込んだ黒い瞳は、しっとりと憂いを帯びていた。
あの日の彼に似ている──目を奪われていると、スッと彼の視線が夜空にはめ込まれた月へと逃げた。

「初めて好きになった子に告白して、カッコつけて身勝手な口約束までしといてそれっきり。結局何にもしてあげられなかった。情けないよなぁ」

ため息まじりに吐かれたその言葉は、私の胸の深いところにグサリと突き刺さった。そして、閉じた古傷をザクザク切り開いていく。
私は感情が波立つのを抑え込むように、努めて深く呼吸をした。とにかく平静を装う。

「そんなことないよ。子供の頃の口約束だもん、そういうもんだよ」

それは、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
カカシくんと話せなくなったって、私が中忍になってもそれが変わらなくたって、私は「子供の頃の事だから」と気にしないようにしてきた。そんなものをいちいち嘆く方が恥ずかしいと思ってさえいた。
しかし、彼は違った。
この言葉が彼の真意なのかは定かではないが、こういう事で嘘をつくような人でもない。だからきっと、彼は今まであの約束を気にかけてくれていた──思いがけない事実がますます私を動揺させた。襟足がじりじりと痒くなり、一筋の汗が首筋へ垂れてくる。掻いてしまいたいが、心の乱れを悟られたくない。太ももの上でキュッと拳を作って我慢をした。

「そうかなぁ」
「そうだよ、気にすることなんかじゃないよ。私にとってはずっと、素敵な初恋のいい思い出だったし」
「いい思い出ねぇ。その割にはオレが店に行った時、嫌そうだったじゃないの」
「それは……」

鋭い指摘に、一瞬狼狽る。熱のこもった脳内で必死に頭を絞ると、私は頬をぐいっと持ち上げて、愛想のいい笑顔を作った。

「なんか、緊張しちゃって。ギクシャクしたまま自然消滅……っていうか会えなくなっちゃったから、その頃の雰囲気を引きずっちゃったのかな」

ちらりと彼の黒い瞳が再び私を捉える。一拍置き、今度は私の方へ顔まで向けて、まじろぎもせず私を見つめた。その間、私はずっと笑顔のままだ。
これが意外と辛くて、私はまた襟足を汗が伝っていくのをじっと我慢していた。

「オレさ、あの時カナちゃんに『どうして来たの?』って聞かれて、『あいつらが食べたいって言ってたメニューが全て揃ってるのがこの店だけだったから』って言ったろ?」

唐突にカカシくんが問いかける。私はまた何か突っ込みを入れられるのだろうかと身構えながら、「うん」と返事をする。頬はゆっくりと、ぎこちなく元の位置にまで下がる。
彼は、しばらくそのまま私と目を合わせていると、突然困り笑いを浮かべた。そして、「あれは嘘だよ」と小さく呟くように言って、再び月を仰いだ。
私はそれがどういう意味なのかを考える余裕もなく、ただただフリーズするだけだったった。
彼は続ける。

「本当は、カナちゃんの夢を見たからなんだ。それも何日も連続でね」

「こんなこと言って、ちょっと気持ち悪いよねぇ」とカカシくんは自嘲した。私は黙ったままカカシくんの顎から首かけてのラインをじっと見つめ、彼の言葉に意識を傾けた。引いた訳ではない。彼と同じタイミングでお互いの夢を見ていた偶然に、気が動転していた。
私はなるべく音を立てないように、胸いっぱいに深く息を吸い込んだ。身体の中心でじたばたと暴れている心臓を落ち着かせなくては──。

「子供の頃、アカデミーの奴らだけで行った花火大会の帰り道の夢だった。それまでも同じ夢を何回か見たことがあったけど、毎日出てこられると、もういてもたってもいられなくて。普段奢りなんて絶対にしないのに、上手いこと口実を作って会いに行ったってわけさ」

信じられなかった。同じ夢を見ていた事もそうだが、もう何年も私の前に進んで姿を現さなかったカカシくんが、たったそれだけの事で私の前に現れる気になったなんて。本当に理由はそれだけなのだろうか。私は考えつく限りの理由を思い浮かべてみる。
何か企んでいる?それとも、茶屋で話をした時のように忍に戻そうとしている?しかし、平々凡々な私を忍に戻す必要など里にとってなんの利益があろうか。そんなはずは無い。
じゃあ、一体──

「それ、本当なの……?」

私は視線を地に落とす。どんどん自分の表情が険しくなるのが分かった。

「勿論。流石にこういう事で嘘なんかつかないよ」

カカシくんは微笑みを含んだ声で答えた。
私は顔を右斜め上へ上げる。すると、声色とは裏腹に、カカシくんは無の表情だった。遠くを見つめたまま。
彼は本当だというけれど、やっぱりそんなのは嘘なのではないだろうか。疑念が心の中で渦を巻き始めた頃、彼が口を開いた。

「夢の中で、オレはやっぱりカナちゃんを好きだった。夢から覚めても好きだった。ずっと昔から、カナちゃんだけは特別だった」

風が止まった。虫の音も、草むらの葉の擦れる音も、遠くの雑音も全て止まって、真の静寂が訪れた。音だけでなく時も止まってしまったようで、私は息ができない。一瞬のうちに記憶の中の彼と、目の前の彼とが重なった。
本当は彼の言葉に「嘘だ」と反論したかったのに、声が上手く出せない。到底平常心なんかではいられなかった。

カカシくんは脚を直し、姿勢良くベンチに座り直す。
少しだけ膝を私の方へ向けて両足を揃え、膝の上に手を乗せると、真剣な表情で私の目を真っ直ぐに見た。

「……オレに、あの日の約束の続きを叶えるチャンスをくれないかな」

彼の口から放たれた言葉は、心のどこかで淡い期待をしながらも、自分の中で考えないように圧殺していた「彼が私の前に現れた理由」だった。

「勿論、今すぐに返事はくれなくていい。少し考えてもらえないか」

無表情と思っていた彼の瞳は、よく見れば情感をこれでもかというくらいにたたえていた。真剣で、射抜かれるような真っ直ぐな視線。情熱的なのに、哀しい瞳の奥。私は身動き一つ取れなくなる。
心変わりしたからだと思っていたのに。子供の気まぐれで、ただの思いつきで言われただけだと蓋をしていたのに──あの頃の気持ちが、ありありと蘇る。
今目の前にいるカカシくんは、私の中で時を止めていたカカシくんと同じだ。だから、彼と共に過ごすという事は、私にとって、目を背けてきた過去全てを飲み込んで、新しく前を向いていくという事に他ならなかった。私にそんな勇気はない。
彼を信じるのが怖い。二人の間に流れていた長い空白の時間と、そこに息を潜めている悲しい現実を受け入れるのが怖い──そう感じた。

それに、どうして今なのか。
彼にも色々な事があったし、きっと恋愛なんてしている余裕なんてなかったのだと思う。とは言え、ずっと好きだったと言うならもっと早くそう言ってくれれば良かったじゃないか。顔くらい見せに来てくれても良かったんじゃないか。
やりがいや目標を失いかけ、これから先どうしようなんて途方に暮れている女が、今は里の一、二を争う優秀な忍の隣に並んでいいはずなど無い。ましてや私は忍の道から逃げた。いつかは彼に迷惑をかけてしまうことになるだろう。

「……そんな風に言ってくれるのは嬉しいし、光栄な事だとは思うけど、きっと私じゃカカシくんの期待には応えられないと思う」

私の口からは、自然とそんな言葉が出ていた。

「今の私は、カカシくんとは見ている世界も生きてる世界も違いすぎるよ……」

彼は子供の頃からの夢をここまで守り抜いた。私はどうだ。夢なんて途中で投げ捨てて、自分の心の安寧のためだけに上辺だけ気丈に振る舞い、仕事で気を紛らわせてきた。夢のためにひたすら精進してきた彼とは土台が違いすぎる。

久しぶりに会った時はそんな事は考えもしなかった。それどころか、彼との関係を期待さえしていた。それなのに、こうして彼との距離が近づいて、現実になろうとすると私は躊躇してしまう。
私の心は、忍を諦めたあの日から成長出来ていないのかもしれない。

「オレはそんなことは無いと思うけどね。どうして?」

深掘りしようとするカカシくんに、チクリと胸が痛む。

「私は忍を辞めたただの一般人。他に秀でた才能があるわけでもない平凡な人間。片やカカシくんは優秀な忍。どう考えたって不釣り合いじゃない?きっと周りからも色々言われるよ」
「それは気にしすぎじゃないかな」

私をおさめるためか、のんびりとした口調だった。それが、私にはとても辛かった。
彼としては励ますつもりだったのかもしれない。けれど、自分のこの苦悩を軽くあしらわれたような気がして、とても悲しく思えた。

「同じ忍をしていたって人それぞれ事情がある。それをとやかく言う権利は他人にはないし、あの頃よりは穏やかな世の中になった今はそんな事を言う奴もいないさ」
「カカシくんがそう思っても、他の人はどう言うか……」
「今は色んな奴がいる。あの頃は時代が悪かった。今の里にはオレやカナちゃんと同じような奴らがたくさんいる。だからそんなに心配しなくても──」
「……そんなわけない」

咄嗟に出た言葉だった。

「……え?」
「……カカシくんに私の気持ちなんて……わからないよ」

昔から人よりなんでもできて、頭も良くて、かっこよかったカカシくん。誰よりも影で努力をしていたのに、それを誰にもひけらかす事なく、褒められても決して奢ることなく、さらに努力を重ねてきたカカシくん。きっと彼は、努力を放棄した今の私をよく知らないからそんな事が言えるだけだ。
後から知っていくうちに、何もない私を見て彼はさぞ幻滅するだろう。それも私は怖かった。

「……結構カナちゃんのことはわかってるつもりだったんだけどな、」

カカシくんは当惑した様子だった。
しまった、またやってしまった──私はハッと我に帰って、彼から顔を逸らす。
迫り上がってきた感情に任せて漏らした言葉が、カカシくんを傷つけてしまった。

「……ごめん、私、酷いこと言った」

ギュッと目を瞑って、その場で頭を下げる。心底後悔しながら謝罪した。胃のあたりはずっしりと重くなって、嫌な汗が全身からじわりと滲み出た。
しかし、カカシくんは「そんな、謝らないでよ」と至極穏やかな声色で私を宥める。

「……カナちゃんの言う通りだよ。オレこそ分かった風な口を聞いて悪かった。ゴメン」

「顔を上げてよ」とカカシくんが私の左肩へ手を添える。
こんなにも蒸し暑いのに、どうしてだか彼の掌の温もりは嫌な感じがしなかった。それどころか、心の中心に温かな光が差し込むような気がした。

「そんな、カカシくんは悪いことなんて……!」

バッと勢いよく頭を上げ、私はカカシくんを見る。

「いいんだ、元はといえばオレの勝手な約束だ。カナちゃんは悪くないさ」

彼は微笑んでいた。微笑んでいるのに、とても寂しそうだった。
私は途端に胸が苦しくなった。
言ってしまった言葉は戻らないし、傷つけてしまった彼の心も謝ったところで元には戻らない。残るのはひどい事を言った事実と、罪悪感と後悔だけだ。

長年私達の間にあった壁を自ら越えてくれた彼を、私は独りよがりな感情で彼を撥ねつけてしまった。
きっと彼にだって、私に会いに来るまでの間、色んなことがあったに違いない。カカシくんのお父さんが亡くなって、その後に私から一度会いに行って、確かそれきりだった。
私は、これまでのカカシくんの人生のほんの一部を共に過ごしただけなのに、その短い時間の中で彼と言う存在を決めつけてしまっていた。いつまでも過去の彼にしがみついて、自分の傷から目を背けていただけだった。この壁はもう、きっと私からは超えることができない。

「さて、そろそろいい時間だし帰るとするか」

カカシくんは公園の時計をチラリと見た後、一度大きく伸びをし、ベンチから立ち上がった。そして、「今日は来てくれてありがとう」とにっこり微笑んだ。目は弓なりになって、穏やかな笑顔だったが、やっぱり彼の本心が気がかりだった。

「カカシくん、本当に……」

謝っても仕方のない事とはわかっていた。けれど、どうしてももう一度きちんと謝りたくて声を振り絞る。
彼はこちらを振り向いて、左手でポンポンと私の頭を優しく叩いて「大丈夫」と私を落ち着かせるように穏やかな声で言った。

「オレの事は気にしないで。困らせるような事、言ってごめんね。もうこの話は終わりにしよう」

カカシくんの低くて甘い声が、私の胸を締め付ける。彼さえ目の前にいなければ泣き出してしまいそうだった。
昔から不器用で素直になれない私に、いつも大らかな心で接してくれたカカシくん。私がつんけんしても、彼はいつも笑っていてくれた。私が困らせても、私の真意を見抜いていつも寄り添ってくれた。
カカシくんはいつも、私のことを誰よりもわかってくれていた。なのに、どうして私は彼にあんな酷いことを言ってしまったんだろう。益々自分が嫌になる。

「……本当にカカシくんは優しいね」
「そう?ありがと」

誤魔化せないほど震えた私の声は、再び煩くなり始めた虫の声にかき消されそうなほど弱々しかった。
カカシくんはとても嬉しそうに笑っていた。立ち上がって顔の位置が高くなったからか、月の光が彼の右頬の輪郭を曖昧に照らす。幻のような透明な美しさで、そのまま淡い光に溶けて消えてしまいそうな気さえした。それが余計に私を苦しくさせた。

年を重ねて涙脆くなった上に、心も体も傷が癒えるのには時間がかかるようになった。悔いても仕方のない事、と思えるようになるにはあと一体どのくらいかかるのだろうか。
私は荷物を手に持って静かに立ち上がり、彼の横に並ぶ。

「いこっか」

柔らかく呼びかけた彼の顔は見ないようにして、私は風鈴の箱の入った袋を胸の前ギュッと抱える。そして、ゆっくりと右足を踏み出した。

互いに思いが通じ合っていた頃、私達の間に壁なんてきっと無かった。何でも私のことをわかってくれるカカシくんは、寧ろ私の世界の一部だった。
それなのに、今はとても遠い。


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